愛に尽したあなた、さようなら

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愛に尽したあなた、さようなら

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新婚の夜、藤原翔太(ふじわら しょうた)に手で初夜を奪われた後、楚山梓(そやまあずさ)はついに彼への未練を断ち切り、離婚を決意した—— ...

Chương (1)

第1章

新婚の夜、藤原翔太(ふじわら しょうた)に手で初夜を奪われた後、楚山梓(そやまあずさ)はついに彼への未練を断ち切り、離婚を決意した—— 梓の下半身に異様な感覚が広がり、彼女はかすかな呻き声を漏らした。敷かれた白い布には、紅梅の花びらのように点々と赤い染みが広がっている。 梓は熱にうかされたように体をくねらせ、続きを待ち続けた。しかし、待っても次に進む気配はなく、かすんでいた目が徐々に焦点を取り戻し、「……続けないの?」と問いかけた。 「終わった。明日、この布をお婆さんに見せる。そのうち体外受精の手続きをしよう。あんなことに興味はない」翔太は淡々と言い放った。 「翔太、あなたはセックスそのものに興味がないの?それとも私という女に興味がないの?」梓の目尻が赤く染まった。彼の身体の変化は、確かに感じ取っていたのに。 「違いなどあるか?」翔太は右手を丁寧に消毒しながら、ゆっくりと返した。申し訳なさなど微塵も見せなかった。 梓は胸が締め付けられるようになり、言葉が出なかった。 「翔太……私たち、離婚しよう」 第1話 新婚の夜、藤原翔太(ふじわら しょうた)に手で初夜を奪われた後、楚山梓(そやまあずさ)はついに彼への未練を断ち切り、離婚を決意した—— 梓の下半身に異様な感覚が広がり、彼女はかすかな呻き声を漏らした。敷かれた白い布には、紅梅の花びらのように点々と赤い染みが広がっている。 梓は熱にうかされたように体をくねらせ、続きを待ち続けた。しかし、待っても次に進む気配はなく、かすんでいた目が徐々に焦点を取り戻し、「……続けないの?」と問いかけた。 「終わった。明日、この布をお婆さんに見せる。そのうち体外受精の手続きをしよう。あんなことに興味はない」翔太は淡々と言い放った。 藤原お婆さんは古風の考え方の持ち主で、二人の新婚初夜の「証」を見たがっていた。だが、翔太は手で彼女の処女を奪った。 「翔太、あなたはセックスそのものに興味がないの?それとも私という女に興味がないの?」梓の目尻が赤く染まった。彼の身体の変化は、確かに感じ取っていたのに。 「違いなどあるか?」翔太は右手をゆっくりと丁寧に消毒しながら答えた。申し訳なさなど微塵も見せなかった。 梓は胸が締め付けられるようになり、言葉が出なかった。 翔太が背を向けて去ろうとしたその刹那、梓は突然、ありったけの勇気を振り絞って口を開いた。 「翔太……私たち、離婚しよう」 翔太は眉をひそめた。 「君のそういう気まぐれは好きじゃない。今夜からゲストルームで寝てくれ」 梓は彼の背中を見つめ、知らず知らずのうちに涙が頬を伝った。 藤原家と楚山家は古い付き合いで、二人は幼い頃から指切り婚約していた。梓は十数年も翔太のことを想い続けてきた。 ずっと翔太の好みに合わせ、理想の妻になろうと努力してきた。 彼のためにジャズダンスを諦め、バレエを習った。さっぱりしたショートが好みだったのに、彼のために腰まで届くロングヘアにした。彼は女が外出して遊び回るのが嫌だったので、20歳になっても一度もバーに行かず、友達もほとんどいなかった。 女に触られるのは嫌だと言われたので、本当に一度も彼に触れようともせず、結局、今日の結婚式の誓いのキスさえしてくれなかった。 だがこの瞬間、梓は悟った。彼が自分を愛していないばかりか、さらにはこのように辱め、離婚さえも彼女の気まぐれだと言い放ったのだ。 梓は傷心のまま主寝室を後にした。 書斎の前を通りかかった時、情欲に満ちたうめき声が聞こえた。 ドアの隙間から覗くと、翔太がソファに座り、スラックスを膝まで下ろし、写真を見つめながら自慰にふけっていた。彼の手の動きは速く、口からは言葉が零れていた。 「雪乃、たまらないんだ…… 愛してる……雪乃……ああ、きつい……」 梓は雷に打たれたように立ちすくんだ。手の甲を噛んでようやく声を漏らすのを抑えた。 翔太が、なんと友人の娘――藤原雪乃(ふじわら ゆきの)を愛しているなんて! 彼女は慌てて部屋に逃げ戻り、胸を押さえながらはあはあと息を弾ませた。 これまで梓は、翔太が年齢差を超えた親友への恩返しのため、その娘の雪乃を大切にしているのだと思い込んでいた。だが真相は、彼が雪乃に恋をしていたのだ。 だとすれば……彼が自分と結婚したのも、雪乃のためだったに違いない。 友人の娘を愛していることを誰にも知られたくなかったし、雪乃が世間の非難に晒されるのを防ぎたかったため、自分を盾にして、心の奥で雪乃を密かに愛し続けていたのだ。 梓の胸は締め付けられるように痛んだ。 階下から車のエンジン音が聞こえ、続いて少女の弾んだ声が響いた。 「おじさん、早く降りてきて!」 梓は窓際へ近づくと、ちょうど雪乃が翔太の胸に飛び込む瞬間を目にした。 「おじさん、本当に来てくれたの。今日は一日中一緒にいてほしいな」 長い髪を揺らし、笑みをたたえた彼女の顔は、優しく穏やかでありながら活気に満ちていた。 「いいよ」翔太は口元をわずかに緩め、まだ褪めきらぬ情熱の奥に、愛情たっぷりの眼差しが揺らいでいる。 「おじさんとおばさんの新婚の夜を邪魔しても怒らないの?」 雪乃は甘えた口調で続けた。 「だってわざとだもの。ほかの誰かと一緒になるなんて絶対嫌なんだから!」雪乃は翔太への強烈な独占欲を隠そうともしなかった。 「行こう」翔太は少しも腹を立てる様子はなかった。 「お姫様抱っこして」雪乃は彼の胸でさらに甘えた。 翔太は笑みを浮かべながら彼女の腰を抱き上げ、助手席にそっと乗せた。まるで宝物を扱うかのように。梓は二人が去るのを見つめ、心にぽっかりと空洞が開いたような感覚に襲われた。 次の瞬間、彼女のスマホが光り、SNSのタイムライン更新通知が届いた。 雪乃のタイムラインには、男と抱き合う後ろ姿の写真がアップされていた。 【私のためなら、あの人は美しい花嫁さえ捨てられるなんて、本当に愛されてるわ】 梓はふっと笑った。青ざめた微笑だった。 愛されている者とそうでない者の差は、これほどまでに明白なのか。 今までどうして気づかなかったのだろう。 その夜ずっと、彼女は泣いては笑い、笑っては泣いた。 やがて涙が枯れ果てた時、かつて熱を帯びていた心も完全に麻痺していた。 翌朝、梓は離婚届を用意した。 これは決して衝動的な行動じゃなかった。翔太とは本当に別れるつもりだった。 第2話 梓は身支度を済ませ、藤原お婆さんが用意してくれた着物に着替えると、藤原家の本邸へと向かった。 出発前に、彼女は離婚届を鞄にしまった。 玄関を出た途端、翔太からの着信が入った。 「今日の本邸行きは、お前が先に行け。俺は遅れて合流する」 電話の向こうの声はいつもの冷たい口調で、昨夜の件について説明する気配は微塵もなかった。 梓はもうどうでもいいと思っていた。 藤原家の本邸に着くと、翔太の親族は既に大半が集まっていた。 梓は赤い染みの付いた白い絹の布を納めた桐箱を藤原お婆さんに差し出すと、お婆さんは彼女の手を優しく握り、満足げに微笑みながら藤原家の伝家の宝を彼女に授けた。 「これは藤原家があなたを認めた証だ。一日も早くひ孫の顔を見せておくれ」 「おばあちゃん、ありがとうございます」 藤原お婆さんのご厚意は断れず、彼女はひとまず受け取ることにした。後日翔太に返せばよいと考えた。 藤原夫人は梓のことが気に入っておらず、わざと彼女に正座させるよう命じた。 梓は反論しなかった。もう直ぐ翔太と離婚するし、二度とこの屋敷に来ることもない。これが最後だからと、耐えればいいのだ。 しかし藤原夫人は彼女を苦しめるため、正座のまま三十分も待たせ続けた。 ふくらはぎが痺れて倒れそうになった時、翔太が雪乃を連れて帰宅した。 梓の青ざめた顔と震える膝を見て、翔太の目に微かな動揺が走った。 翔太は彼女に近寄り、「これからこんな儀式は免除する」と告げた。 所詮は他人の前での芝居だ。 今も彼の衣服に纏うクチナシの香り――雪乃と同じ香りが、梓の胃を掴み上げた。 梓は軽く頷いた。 もうこれ以上続けるつもりはない、これが最後だ。離婚届にサインさえもらえれば、この地を離れる。 「孫もようやく人を思いやれるようになったのか。よかったわ。ひ孫の顔が見られる日も近いな。私は疲れたから休むことにしよう。皆さんはごゆっくり」藤原お婆さんは藤原夫人に支えられて二階へと上がっていった。 親戚たちは空気を読んでそそくさと立ち去った。 皆が立ち去った後、雪乃は梓に近づき、背後に隠していた贈り物の箱を取り出した。 「おばさん、新婚のプレゼントだよ」 悪戯っぽい笑みを浮かべ、雪乃は箱を梓の手に押し付けると、振り返って翔太に向かって舌を出した。翔太の目に甘やかすような光が走った。 「早く開けてよ、おばさん」 梓が箱の蓋を開けた瞬間、鮮やかな緑色の蛇が飛び出し、みるみる彼女の腕に巻きついた。 「きゃあっ!」梓は恐怖のあまり悲鳴を上げた。 蛇が大の苦手な梓は、一瞬にして顔面蒼白となった。 雪乃は腹を抱えてゲラゲラ笑い転げた。「怖がらないで!ペットの蛇だよ。噛まないって!おじさんがおばさんは動物好きだって言うから、特別に選んだんだからね」 雪乃の笑顔を見て翔太の口元にかすかな笑みが浮かんだ。 その笑みが梓の胸を締め付けた。 必死の力でようやく蛇を振りほどくと、彼女は涙目で雪乃を睨んだ。 「あなた……ひどすぎる!」 「雪乃はまだ子供だ。お前のために贈り物を選んだだけだ。毒もないし噛みつかないと、本人も言っていただろう?」 翔太は一歩前に出て、雪乃を背後に隠すようにした。 梓は目頭が熱くなるのを感じながら苦笑した。彼があんなに雪乃を偏愛していたなんて、今まで気づかなかった自分が愚かだった。 「翔太、考えたことある?私が本当に蛇が苦手なんだって!私を弄ぶのがそんなに面白いの?」 翔太が眉をひそめ、口を開こうとしたその時、雪乃の悲鳴が辺りに響いた。 「わあっ、おじさん助けて!」 あの小さな緑の蛇が今度は雪乃の足に絡みつき、彼女は恐怖のあまり大声で泣き叫んだ。 翔太は慌てて駆け寄り、蛇を掴むと地面に叩きつけて殺し、雪乃を抱き寄せて慰めた。 「もう大丈夫だ。怖がるな!蛇は死んだから」 「怖かったよ……」雪乃はまだ涙を浮かべていた。 「おじさん、噛まれたみたい」 翔太は即座に彼女を抱き上げ、急ぎ足で外へ向かった。「すぐ病院へ連れて行くからね、怖がらなくていい、ずっと傍にいるから」 翔太の姿が玄関の向こうに消えると、梓の涙が勝手に溢れ出た。 鮮血が彼女の腕を伝わって滴り落ちている。彼女こそ蛇に咬まれていたのだ。 頭が鉛のように重い。蛇毒が回ったか、突然視界が暗転すると、彼女はがくんとその場に崩れ落ちた。 第3話 梓が目を覚ました時、既に病院の病床の上だった。 全身がだるくて力が入らず、蛇に咬まれた腕は完全に感覚を失っていた。ぼやけた人影が視界を揺らし、その度にめまいと吐き気が襲ってきた。 医師は毒性が強いが、幸い搬送が早かったと言った。 診察室を出た医師と入れ替わるように、翔太が現れた。冷たい瞳の奥に、かすかな後悔の色が浮かんだ。 「雪乃に悪気はなかった。店主に騙されていたんだ。あの蛇に毒があるなんて知らなかった。彼女自身もすごく驚いている。この件はこれで終わりにしよう。俺が償うから」 梓は静かに彼を見据え、もはや心に揺らぎは感じなかった。「翔太、あなたは本気で彼女がわざとじゃないって信じるの?」 翔太は眉を顰めた。彼女の眼差しがなんとなく彼をイライラさせた。「彼女はまだ子供だ。どうしてもと言うなら、直接謝罪させるよ」 梓は胸が締め付けられる思いだった。自分の命は、雪乃のたった一言の謝罪と同価値なのか。 「そのうち、パリのファッションショーに連れて行ってやる」彼は再び上から目線で言い放った。 梓は唇を歪ませた。五年前からずっと、ショーに同行してほしいと懇願し続けてきたのに、一度も聞いてくれなかった。 今さら雪乃の謝罪の代わりに、自ら連れて行くと言い出すなんて。 「結構よ。帰って。あなたの望み通り、彼女に迷惑はかけないから」翔太に背中を見せて、目を閉じて、込み上げる失望を押し殺した。 翔太は彼女がわがままを言ってるだけだと思い、そのうち機嫌を直すだろうと高をくくって、さっさと立ち去った。 「ゆっくり休め」 梓は黙ったまま、彼の足音が遠のいていくのを聞いていた。 その後、二度と彼の姿を見ることはなかった。 …… 翔太が寸刻も離れず雪乃を見守り、彼女の肌が少し赤くなっただけなので、病院中の主任医師を総動員して診察させた。 さらに彼女の好みに合わせて病院のフロア全体を飾り付け、飼い猫や犬まで連れてきて付き添わせた。 看護師たちはこぞって雪乃を羨み、誰もがこんなに自分を寵愛してくれるおじさんが欲しいと思った。 梓の心はすでに静まり返り、まるで他人事のように感じていた。 退院当日、駐車場で翔太と雪乃に出くわした。雪乃は大きな百合の花束を抱え、花のように笑っていた。翔太は車もたれかかり、雪乃を見つめる目には秘めたる深い愛情が宿っていた。 「おばさん、怪我は大丈夫?本当に申し訳ない、わざとじゃなかった」 雪乃は梓の姿を見かけるや、花束を抱えたまま駆け寄り、詫びるように彼女に差し出した。 梓は激しくくしゃみをし、花を脇へ押しやった。雪乃はそれに合わせるように一歩下がり、口を開く前に翔太が近づいてきた。 翔太は雪乃を自分の側へ引き寄せ、「迷惑かけないと言ったはずだろう。この態度はなんだ?」 梓は百合アレルギーだと説明しようとしたが、彼の怒りを含んだ表情を見て言葉を飲み込んだ。 まあ、わざわざ説明する必要もない。 「本当に詫びる気があるなら、これに署名して」梓は鞄から離婚協議書を取り出し、署名欄のページを差し出した。 翔太は受け取ろうとせず、眉をひそめて彼女を睨んだ。 その時、傍らの雪乃が突然泣き出した。「花びらが散っちゃった、もう綺麗じゃない」 翔太は素早く離婚協議書を掴み、目も通さず署名した。 彼は離婚協議書を梓に投げつけると、すぐに雪乃の方を向いて慰めた。「よしよし、泣かないで。また買いに行こう」 雪乃は頷き、彼の胸に寄り掛かりながら立ち上がった。 「翔太、あなたが署名したのは離婚協議書よ」 梓は彼の署名を見つめ、自虐の笑みを浮かべた。 翔太の動きが止まり、一瞬嘲るような眼差しが走った。 「お前にそんな勇気はない」 「あるわ」梓は静かに言い放ったが、翔太は既に車に乗り込み、彼女の言葉に耳を傾けることもなく走り去った。 梓は弁護士を訪ね、離婚協議書を手渡すと、離婚手続きを全面的に委任した。 疲れ切った体を引きずりながら自宅に戻った梓が別荘の扉を開けると、鼻を突き刺すような百合の香りが襲いかかり、彼女は連続くしゃみに襲われて思わず後ずさって屋外に出た。 リビングは百合の花で埋め尽くされ、彼女と翔太の結婚写真は切り刻まれて床一面に散乱していた。雪乃は彼女の部屋から現れ、手に彼女の一番好きだった服を持ちながら、眼前で袖を切り落とした。 「雪乃、やめて!」梓が怒号を上げ、我を忘れて飛び込み、服を奪い返そうとした。 これは亡き親友が心を込めてデザインして仕立ててくれた、世界に一つだけの服だったのだ。 雪乃は彼女の勢いに嚇かされ、慌てて後退した。 「怖がらせないでよ!謝って!」 「服を返しなさい!雪乃、私の物を勝手に触る権利なんてないでしょ!」破壊された服を目にして、梓の胸中で怒りと悲しみが込み上げてきた。 「ここはおじさんの家よ。私は好きにしていいんだから、あんたには関係ない!今すぐ謝らないと、おじさんにいじめられたって告げ口するわよ!」 翔太に何でも許されると甘やかされた雪乃は、服を奪い返すと残りの袖をずたずたに切り裂いた。 「どうせボロ服でしょ?あなたが好きなら、猶更切り裂いてやる!」 梓は胸が締めつけられる思いで、ついに堪忍袋の緒が切れ、手を振りかぶって雪乃の頬を叩くと同時に服を奪い返した。 「私を殴るなんて!」雪乃は頬に手を当てて愕然とし、猛然と梓を押しのけた。 梓は不意を突かれ、階段から転がり落ち、天地が回る感覚の後、地面で身動きが取れなくなった。雪乃はゆっくり階段を降りてくると、腹を蹴りつけ、さらに彼女の上に馬乗りになって左右の頬を容赦なく叩き続けた。 「私に手を上げるなんて…ぶっ殺してやる!」 梓はかすかな体力を振り絞って雪乃を押しのけると、雪乃は執拗に彼女を蹴り続けた。 「もういい加減にしろ!雪乃!」身も心も引き裂かれるような痛みに襲われて梓は叫び出した。 ちょうどその時、玄関でドアが開く音がした。雪乃は慌てて傍らに座り込み、打たれた頬をさすりながら、涙を浮かべて泣きじゃくった。 翔太が入ってくるなり彼女の泣き声に気づき、手に持っていたものを投げ捨てて駆け寄ると、心配そうに事情を尋ねた。終始、梓の方には一瞥もくれなかった。 「おじさん、この人が私を殴ったの!」 第4話 雪乃は翔太の胸に飛び込むと、梓を指差しながら涙に濡れた顔で泣きじゃくった。 「雪乃に謝れ!」 翔太は冷ややかな眼差しで梓を見据え、彼女の悲痛な表情に思わず眉をひそめた。 「梓、お前には本当に失望した!」 梓は彼を見上げると、心の愛情がじわりと消えていった。 「何があったか聞かないの?」 「どうでもいい。謝れ!」 翔太は梓の反論に違和感を覚えた。従順だったかつての彼女の方が好ましかった。 梓は苦い笑みを浮かべ、確かにどうでもいいと思った。 雪乃の泣き声がさらに激しくなり、翔太にしがみついて離そうともしない。 翔太は部下に命じて梓を押さえつけ、雪乃への謝罪を強要した。彼女は無理やり腰を折られ、抵抗する力もなく、体の痛みが増すばかりだったが、それでも決して口を開かなかった。 彼女は翔太のために十数年間も妥協してきたが、もうこれ以上自分を犠牲にするつもりはない。 「私に間違いはない。謝る必要などない」 翔太は梓の強く失望に満ちた視線を受けて、胸がざわめき、得体の知れない感情が胸中に広がっていった。 彼女のこんな姿を見るのは初めてだった。 「おばさんが謝らないなら、こっちから仕返しするわ!」 雪乃はボディガードに梓の頬を押さえつけさせ、力任せに二発のビンタを浴びせた。 翔太は制止せず、雪乃の目は勝ち誇った色に輝き、さらに何度も彼女の頬を叩き続けた。 梓の口角から血が滲み、翔太に向けられた視線には深い失望がにじんでいた。 「雪乃、もう止めろ!」 翔太は雪乃の手首を掴み、梓の大きく腫れ上がった頬を見て眉を強く顰め、瞳にかすかな動揺の色が浮かんだ。 「うん……手が痛いからやめる」 雪乃は涙目で手のひらを翔太に差し出した。「おじさん、痛いからフーフーして」 翔太はそっと彼女の手を下ろし、気まずそうに梓の方へ視線を移した。 「今夜はオークションがある。後で運転手が迎えに行く」 梓はぐったりと床に座り込み、瞳には深い絶望が広がり、涙が止めどなく溢れ出た。 痛みが全身に走り、梓は凍えるように床で縮こまった。 やがてゆっくりと立ち上がると、彼女は結婚写真をゴミ箱に投げ捨て、自分の持ち物をまとめると、アイスランド行きのチケットを手配した。 日が暮れる頃、翔太の運転手が彼女を迎えに来た。断る余地などなかった。 オークション会場は活気に満ち、梓は翔太の隣に着席させられ、雪乃は反対側に座っていた。 翔太は雪乃と談笑し、彼女が欲しがる品を次々と最高値で落札して彼女を悦ばせ、周囲の者たちを驚嘆させた。 体裁を繕うため、翔太は時折普通の品を梓のために落札することもあった。 休憩時間、梓はトイレで数人の女に取り囲まれた。 「梓さん、そのお顔はどうなさったのです?」 「もちろん雪乃さんにお仕置きされたのよ。藤原社長と結婚すれば愛されるなんて、ほんとに考えは甘いね」 「おばさんのくせに、雪乃さんをいじめるなんて。藤原社長が一番かわいがってるのが雪乃さんなのに」 これらは雪乃の取り巻きだった。梓は苦々しげに眉をひそめ、関わり合いを避けようとした。 立ち去ろうとしたその時、雪乃本人が背後から現れ、嘲るような視線を向けた。 「おばさん、そんな惨めな顔でよく外出できるよね。周りの人に笑いものにされないのが不思議だわ」 「雪乃、今度は何をするつもり?」梓は警戒の目で彼女を睨んだ。 「もちろんおじさんにあなたが嫌いになって、遠ざけてもらうためよ」 雪乃は顎をしゃくり上げ、側に控えている者たちに目配せして、「さあ、始めなさい」と命じた。 取り巻きが梓を洗面器に押し込み、服を濡らした途端、雪乃が突然泣き声を張り上げた。 「おばさん、私が悪かった」と叫んだ。 その時、ドアの外に翔太の足音が響き、これらの取り巻きが素早く梓を押さえ込んだ。 「何事だ?」翔太が入ってくると、雪乃はすぐさま彼の胸に飛び込んで嗚咽した。 「おじさん!おばさんが私をいじめてたの!復讐しようとしてるの!」 「藤原社長、私たちが止めなければ、雪乃さんは溺死されるところでした」 「ええ、確かにこの目で彼女が雪乃さんの頭を洗面器に押し込むのを見ました」 …… 翔太は顔を曇らせ、冷たい視線で梓を睨みつけた。「あいつらの言ってることは本当か?」 梓はその視線を真っ直ぐ受け止め、胸が痛んだ。「あなたにとって、私はそんな人間に見えるの?」 懐に抱かれた雪乃は涙が雨のように流れ、その涙が彼のシャツを濡らしていた。翔太は眉をひそめたが、それでも雪乃を信じていた。 「お前はいつも子供に意地悪する。いい加減に目を覚ませ。彼女をプールに連れて行け。雪乃にしたことを、そいつにもしてやれ!」翔太は雪乃を抱きかかえ、その場を立ち去った。 「翔太!そんなことしてはいけない!私は彼女に触れてもいない!」梓は必死にもがいた。「どうして私の言葉を信じてくれないの!」 数人の女が梓をプールに引きずって行った。梓に平手打ちを加えた後、冷たい水の中へと放り込んだ。 梓は必死にもがいたが、頭が水面に出るとすぐに押さえ込まれ、水中に押し戻された。何度も繰り返されるうちに力尽き、ついに全身が水に沈んだ。 窒息感が遅い、意識が徐々に遠のき、やがて真っ暗な闇に飲み込まれた。 再び目を覚ますと、別荘のベッドの上だった。ナイトスタンドには幾つかのギフトボックスが置かれている。 梓は冷笑した。これが翔太なりの償いというわけか。 その後数日間、翔太は姿を見せなかった。 梓は体調を整えると、実家に戻った。 離婚のことを母に話すと、母は驚く様子もなく、ただ心痛そうに彼女を抱きしめた。 「梓、目覚めて何よりよ。あなたの人生はまだ長いのだから、たった一人の男のために足を止める必要はない」 梓はふと後悔が込み上げた。母の忠告に従わなかった。母は唯一、翔太との結婚が幸せになれないと看破していた人だったのだ。 母は何度も言っていた。翔太はあなたを愛していないと。それなのに彼女は妄執に取りつかれて、その言葉を信じようとしなかった。 楚山家を出た梓は、出入国在留管理局でビザ申請の手続きを済ませた。 あと数日もすれば、彼女はここを離れられる。 第5話 梓は翔太から電話を受けた。藤原グループ傘下のショッピングモール開業式のテープカットに夫婦で招待され、彼が車で迎えに来るという。 彼女は別荘でずっと待っていたが、残り三十分という時点で翔太から連絡が入り、自分で行くようにと言われた。 梓は冷笑し、着替えると自分で車を運転してショッピングモールへ向かった。 藤原グループ傘下のショッピングモール開業式。翔太夫婦を招いたテープカット式典は大々的に行われていた。 梓が到着した時、翔太も到着していた。彼と一緒にいるのは雪乃だった。 今日の雪乃は特別に盛装し、オートクチュールのロングドレスを身にまとえ、億単位の宝石を輝かせ、翔太の腕を組んで満面の笑みを浮かべている。 梓の姿を見るや、不機嫌そうに顔をそむけた。 翔太は彼女の視線を追うように梓を一瞥して、すぐに目を逸らした。 梓は二人に目もくれず、静かに式の始まりを待ち、あたかも他人行儀のように振る舞っていた。 モールの支配人は熱のこもったスピーチで、翔太と梓のテープカット出席に謝意を表し、自ら金色のハサミを二人に手渡した。 雪乃は自分に用意されていないことに気付くと、表情を曇らせ、目には失望な色が溢れていた。 翔太は直ぐに彼女の変化を察知し、自身のハサミを譲り渡した。二人が手を取り合って赤いリボンを断ち切ると、彼女の顔にはたちまち笑みが戻った。 二人の親密な仕草と絡みつくような眼差しは、知らぬ者から見ればまさしく夫婦と見紛うほどだった。 その瞬間、数人の人影が人混みをかき分けてステージへ駆け上がってきた。 梓の目の前がちらりと揺れたかと思うと、雪乃の悲鳴が響いた。 「キャーッ!おじさん助けて!」 瞬く間に、雪乃は数人の男に脇へ連れ去られ、翔太は阻止できなかった。 彼女は恐怖で顔色を失い、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「おじさん、助けて、怖いわ……」 「彼女を離せ!」翔太は全身が硬直し、思わず拳を固く握りしめ、険しい表情で男たちを睨みつけた。 「このクズ社長め!俺たちを見殺しにするなら、お前の女房を道連れにしてやるからな!」先頭の男が刃物を雪乃の首元に押し当て、目は血走り、首筋に血管が浮き出ていた。 翔太は眉を顰め、殺気立った眼差しで彼らを見据えた。「何の話だ?彼女を解放しろ!何か問題があれば話し合いで解決しよう!」 「あいつとむだ話はするな。家族を引き裂かれた俺たちと同じように、お前の女房も殺してやる!」 この男たちは藤原グループ子会社の鉱山労働者だった。先日、鉱山で事故が発生したが、適切に被害者の対応がなされず、賠償も支払われず、操業も再開されなかったため、彼らは生活の道を絶たれていた。 翔太に説明を求めるために何度も訪ねたが、一度も面会できず、逆に散々に殴られて傷だらけになった。彼らは深い恨みを抱え込んで、翔太と共倒れにしようと決意していたのだった。 雪乃の泣き声に翔太は胸を締め付けられた。ふと横を見ると梓が立っているのに気づき、そっと自分のそばに引き寄せた。 「こっちが俺の妻だ。お前たちは人を取り違えた。彼女を放せ。代わりに俺の妻を人質に取れ。この件は、俺がちゃんと解決するから」 翔太が自ら彼女に触れたのはこれが初めてだったが、それは梓を突き出して雪乃を救うためだった。梓は彼に触れられた箇所が焼けつくように痛むのを感じた。 「翔太……」梓は口を開いたが、自分の声が喉元で潰れていることに気づいた。 何を言っても無駄なようだった。 翔太は既に彼女を押し出していた。梓はよろめきながら前のめりになり、雪乃の側にいた男にぶつかってしまった。 雪乃を捕らえていた男はバランスを崩し、その拍子で雪乃の首に刃物が走り、傷をつけてしまった。雪乃は突然声を失い、首から流れる血を見て目を見開き、恐怖のあまり卒倒しそうになった。 翔太は一歩踏み出して駆け寄り、雪乃を傷つけた男を蹴り飛ばし、しっかりと彼女を腕に抱き上げた。 「怖がるな、もう大丈夫だ」 「おじさん、私、死んじゃうの?」 「大丈夫だ!俺がいる」翔太は真剣な面持ちでそう言うと、彼女を抱き上げて病院へ急ごうとした。しかし数歩進んだところで足を止め、すでに拘束されている梓を振り返った。彼女の平静な目付きが、彼に不安を掻き立てた。 「今すぐ手配してこの件を処理させる。梓、待っててくれ」翔太は雪乃を抱いたまま人混みを掻き分けて去っていった。 梓は苦笑して、涙が零れ落ちて止まらない。 突き出されたその瞬間から、彼に対してかすかに残っていた最後の感情も消え去った。 「皆さんは正当な権利を主張し、汗水流して稼いだお金を取り戻したいだけでしょう。法に触れるような真似はやめてください。私の口座にはお金があります。必要な分を自由にお引き出しください。他人の過ちで、自分自身の人生を棒に振るようなことはしないで」梓は鞄をそのうちの一人に差し出し、暗証番号を伝えた。 「ご安心ください、この件は追及しませんから」梓の誠実な態度に心を動かされ、彼らは彼女を解放した。 梓はその場を去ることなく、ただ静かに佇んでいた。 「あんな夫、捨てちまえよ。あんな男、お前にふさわしくない」 先頭の男が梓を憐れんで言った。 「他の女とベタベタしておきながら、いざとなれば自分の女房を差し出して助けようだなんて、男の風上にも置けねえ」 「もう要らないわ。彼は私にふさわしくない」梓は頷いた。陽射しがまぶしくて、目がしみるように痛く、熱くなった。 金を受け取った連中はすぐに立ち去った。彼らとの出会いを通じて、梓は翔太の心の中における自分の立場を安全に見極めたのだった。 愛してくれなくてもいい。だが、繰り返し傷つけることは許されない! この件は翔太によって闇に葬られた。彼はひたすら雪乃のそばに寄り添っていたが、終始梓に一言の詫びの言葉すらかけようとはしなかった。 梓は気にも留めなかった。翔太に係わる一切のことに、もう心を動かされることはなかった。 ビザを手にしたら、彼女はここを去るつもりだった。 しかし、去る前に、翔太にとっておきの「贈り物」を用意してやろうと決めていた。 第6話 梓は別荘に残っていた最後の私物を整理し、大切に保管していた菩提樹の指輪を取り出して、藤原家の伝家の宝と一緒に置いた。 この指輪は翔太が自ら作ったもので、藤原おばあさんにせがんで譲り受けたものだったが、彼女の指にはサイズが合わなかった。 きっと雪乃のために作られたものに違いない。本来の持ち主に返す時が来たのだ。 梓は荷造りを終えると、親友からの電話をもらった。 涼子(りょうこ)は出張のため彼女と翔太の結婚式に出席できず、食事でお詫びを兼ねてプレゼントを渡したいと言ってきた。 梓はまもなくこの地を離れることを考え、友達にも別れを告げるべきだと考えて会うことを承諾した。そして思い切ってバーに行くことにも初めて同意した。 梓は真っ赤なドレスに着替え、薄化粧をし、車を運転して出かけた。 生まれて初めてのバー体験。轟くような音楽、きらめくライト、ダンスフロアで揺れる男女……すべてが彼女にとってはあまりにも見知らぬものだった。 彼女は入口に立ち、少し居心地の悪さを感じた。 涼子は彼女を見つけると、個室へ引っ張り込んだ。「梓、まさかバーに来るなんて!翔太が怒らないの?」 梓は苦笑を浮かべた。「私たち……離婚したの」 涼子は驚き、彼女の額に手を当てた。「熱ないわよ。何言ってるの?結婚してまだ一ヶ月も経ってないじゃない!」 「冗談じゃないわ。もう彼のことなんて愛してない!」騒がしい音楽の中で、梓は声を張り上げて叫んだ。その瞬間、心がふっと軽くなるのを感じた。 涼子は一瞬黙り込み、真剣な表情で梓を見つめた。「本当?」 梓は静かに頷いた。 涼子は彼女の腕を握りしめ、「やっと目が覚めたのね!あんな男、あなたがそこまで尽くす価値なんてなかったわ!」 「ええ、私はもっと素敵な人と出会う価値があるわ」梓は自らグラスを手に取り、一気に飲み干すと、むせ込んで激しく咳き込んだ。 普段は酒を飲まない彼女は、二杯目を飲み干す頃には、少し頭がくらくらしてきた。 涼子は彼女の変化を喜び、酔いが回ると若いイケメンと熱狂的に踊りに行き、梓は一人立ち上がり、トイレへと向かった。 薄暗い廊下の奥で、抱き合い、激しく絡み合っている男女の姿が目に入った。 トイレから出てくると、どうやら女性の方が不機嫌そうな様子だった。 たちまち二人は揉み合い始めた。女性は男に壁に押し付けられ、無理やり服を引き裂かれようとしていた。 梓はますます目まいがし、壁に寄りかかって休んでいた。その時、女性の顔が見えた。 雪乃だった! 「助けて!触らないで!離して!」雪乃は恐怖に震えながら必死に抵抗していた。 梓が驚愕している間に、人影が彼女の目の前をかすめた。翔太が殺気をまとって駆け寄り、男の襟首を掴むと、思いっきり何発も殴りつけた。 男は翔太に殴られて頭から血を流し、地面に倒れて身動きが取れなくなった。 翔太は上着を脱いで雪乃に羽織らせ、彼女をぎゅっと抱きしめた。振り返ったその時、壁際に立つ梓の姿が視界に入った。 彼の表情は一層険しくなり、冷たい視線を梓に向けると、冷ややかな声で問い詰めた。「そんなに野次馬が楽しいのか?」 「おじさん、おばさんは関係ないの。こんなことに遭遇したら、彼女だって怖いでしょうから」雪乃が翔太の胸にすがりながら梓を庇った。 「怖いよ……早く帰りましょう」 翔太の梓を見つめる目はますます冷たくなり、その冷たさが梓の心を震え上がらせた。 「お前も怖いのか?」 梓は意味が分からなかった。「翔太、どういう意味?」 翔太は何も答えず、雪乃を抱きかかえてその場を去っていった。 梓は漠然とした恐怖を感じた。振り返って涼子を探そうとしたが、二人の男に進路を阻まれた。 第7話 「お嬢ちゃん、ちょっと遊んでくれよ?」 梓は一歩後ずさり、恐怖を必死にこらえながら、「あなたたち、何者なの?」と声を震わせた。 二人は顔を見合わせると、左右から梓をがっちり掴み、そばの個室へと引きずり込んだ。 「放して!何する気なの!」梓は激しくもがき、鋭い声で叫んだ。 二人はまったく動じず、彼女の服を乱暴に引き裂くと、両手で彼女の体をあちこち触り回した。 梓が必死に抵抗すると、一人が彼女の頰を強く叩きつけ、彼女は目がくらむほどの痛みを感じた。 「触らないで!」彼女は力いっぱい抵抗した。 「いけすかない真似すんなよ。こんな所に来るんだから、刺激が欲しいんだろ?俺たちがたっぷり楽しませてやるよ」そう言いながら、男は彼女のスカートをずたずたに引き裂いた。 胸元が冷たくなった瞬間、梓の心は奈落の底へと沈み込んだ。両手は頭上で押さえつけられ、足は無理やり開かれ、嫌らしい手が彼女のおっぱいを這い回っていた。 「放して!」 「叫びたいならもっと大声で叫べ。お前の声がたまらんのだ」男は彼女の頬をぽんと叩くと、頬から鎖骨へと貪るように唇を滑らせた。 もう一人の男の手はふくらはぎから這い上がり、じかにスカートの中へと侵入してきた。新婚初夜に翔太から味わった屈辱が蘇り、苦痛と無力感に襲われた。 胃の内容物が逆流するような吐き気に襲われ、一気に嘔吐してしまった。まるで深海に沈んでいくかのように、溺れそうな窒息感が恐怖を増幅させた。 二人の男の吐息が神経を逆撫でし、巨大な恐怖が全身を包み込んだ。体は小刻みに震え、助けを呼ぶ力さえ失っていた。視界も次第にぼやけていった。 彼女の様子がおかしいと気づいて、手を拘束していた男は離し、傍に立った。「藤原社長は脅かすだけだって言ってたんだ。殺せなんて命令はなかったぞ」 「もういい、さっさと行こう。最悪だ、服まで吐きやがって」 梓が意識を失う直前、かすかに翔太の名を耳にしたような気がした…… 再び目が覚めると、梓は病院に運ばれており、涼子が泣き腫らした目で付き添っていた。 「梓、びっくりしたわ。死ぬかと思った!アルコールアレルギーなのに、どうして飲んだの!勝手に外出なんかして……二人のろくでなしに絡まれて……全部私のせいだ。もう二度とバーなんか連れて行かないよ」 「涼子のせいじゃないわ。自分でもアレルギーだって知らなかったんだから。あの二人はどうなったの?」彼女はまだ恐怖が消えていなかった。 「翔太はあの二人を殺しかけたけど、結局は刑務所送りにしたわ。こうしてみると、あの人も梓のこと気にしてるみたいね」涼子は顎に手を当てながら言った。 「あなたが昏睡している間、何度も見舞いに来てたわ。顔色がひどく悪かったのよ」 梓は目を伏せた。翔太が気にしていたのは彼女じゃない。彼女が死にかけたことに驚いただけだ。 「彼は私のことなんか気にかけてない。私も彼の心配なんて要らない。翔太とはもう縁もゆかりもないわ」梓がそう言い終わらないうちに、翔太がドアを押し開けて入ってきた。 「もう縁もゆかりもないってどういうことだ?」翔太は梓の青ざめた顔を見て、胸に一抹の違和感が走った。 梓は淡々と首を振った。「何でもないわ」 梓は涼子の方に向き直った。「涼子、先に帰っていいよ。この件、両親には内緒よ」 涼子は二人を見比べると、頷いて退出した。「ゆっくり休んでね。何かあれば電話して。今週はずっと待機してるから」 「うん」 そっと去った後、病室は一瞬静寂に包まれた。 翔太の表情が急に険しくなった。「なぜ雪乃をいじめるような連中を雇った?」 「違うよ」梓が反論すると、翔太は眉をひそめた。 「これで何度目だ?梓、雪乃がお前をかばってくれたから今回は見逃すが、次は絶対に許さない」彼の視線には冷たい殺意が浮かび、梓の胸は締め付けられた。 「翔太、どう説明しても信じてくれないの?」 翔太の目は暗く、感情を読み取れなかった。 「私をいじめたあの二人、あなたが仕組んだんでしょ?雪乃の恨みを晴らすために。私がどうなるかなんて考えもしなかったんでしょう!」心の中にはもう答えが分かっていたのに、彼女はつい口に出してしまった。 翔太は胸が締め付けられるような感覚に襲われ、見知らぬ感情がじわじわと広がっていく。 「翔太、この十数年、私に一瞬でもときめいたことはあるの……?」 翔太ははっとした。そんなことを考えたことすらなかった。 「……もう、帰って」梓が目を逸らすと、彼は黙ってその場を離れた。 病室の前で振り返り、ちらりと中を覗いた。梓のどこか変わった様子が、彼の心に漠然とした不快感をよぎらせた。 第8話 その夜、雪乃は大きな百合の花束を抱えて現れた。 「おばさん、おじさんと離婚して。私、奪い合うなんか嫌いなの」雪乃はぶっきらぼうに本音を吐いた。 梓はくしゃみをし、ベッドから起き上がって窓を開け換気すると、百合を病室のドアの外に放り投げた。 「雪乃、あなたは翔太を愛しているの?」梓は彼女を一瞥し、淡々と問いかけた。 「ええ、愛してるわ!だからずっと前からあなたが嫌いだったの。おじさんが婚約を解消しようとしないから」雪乃は眉をひそめ、怨めしげに訴えた。 「おじさんの心の中で私が一番大切だとしても、彼に妻がいるのは許せないの。これ以上あなたを傷つけたくないから、自分で出て行って。分かってるでしょう、私が何をしようとおじさんは許してくれるのだから。 あなたも、おじさんと寝るたびに手で済ませられるのは嫌でしょう?」 梓の心が震えた。雪乃はこのことを知っていたのだ。彼女の顔色は一瞬で青ざめ、唇を噛み締め、口の中に血の味が広がるまで噛んだ。 「あなたがやらせたの?」梓が喉から絞り出すように言った。 「そうよ。ただ、あなたに触ってほしくないと言っただけ。でも処女のままじゃ……」雪乃は得意げに笑った。 梓の心が引き裂かれるようだった。翔太は彼女をここまで軽く見ていたのか! 「私は出て行く。二人の邪魔はしない」梓は目をふせ、長いまつ毛で溢れる涙を隠した。 「本当に?」雪乃は喜色満面だった。「もし約束を破ったら、ただでは済ませないわ」 梓は静かに頷いた。「翔太が愛しているのはあなたよ。私がこれ以上苦しむ必要なんてない」 「まさか……おじさんも私のことが好きなの?」雪乃は抑えきれぬ興奮を露わにした。 梓は唇を歪ませた。翔太は雪乃を愛していた。いや、狂気じみたほどに溺愛していたのだ! 雪乃は上機嫌で立ち去り、二度と梓を困らせることはなかった。 梓は旅立つ前日までずっと病院にいた。 退院後、別荘に荷物を取りに戻ると、彼女が植えた向日葵は全て抜かれ、代わりにブランコが設置されていた。翔太が雪乃を優しく押して揺らしている。 彼の冷厳な顔に浮かんだ笑顔は、彼女がこれまで見たことのないものだった。 梓は二人を眺め、かすかに微笑んだ。実に似合いの二人だ。 「どうして戻ってきたの?おじさん、行こうよ。この人なんか見たくないわ」雪乃は不機嫌そうに立ち上がり、翔太の手を引いてその場を離れた。 翔太は梓の平静な表情を見て、眉をひそめながらも動かず、どうにも彼女が以前と違うように感じてならなかった。 何故か、胸騒ぎがする。 雪乃は彼が動かないのを見て、再び声をかけた。「おじさん?まさか彼女と一緒にいたいんじゃないのね?」 翔太の心臓がぎくりとし、眉をひそめてきっぱり否定した。「そんなことはない。行こう」 庭を出る際、翔太は付け加えた。「明日は母の誕生日だ。早めに実家に行ってね。贈り物の方は俺が手配しておく」 梓は何も答えず、翔太と雪乃の後姿を見送った。 彼女は行くつもりなどない。 でも、大きな「贈り物」を準備してある。きっと気に入ってもらえるだろう。 翌朝早々、梓は翔太の離婚届受理証明書と用意した「贈り物」を母に託すと、タクシーで空港へ向かった。道中、彼女は翔太のすべての連絡手段を遮断した。 さようなら、翔太。 これからは、お互いの道は別々だ。今生二度と顔を合わせないように。