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あなたへの愛は銀河のように
「出所後、一か月の猶予をやる。その間に過去と決別せよ。その後、あなたの『偽装死』を手配する。 これからは、この世に須永詩央(すなが し...
Chương (1)
第1章
「出所後、一か月の猶予をやる。その間に過去と決別せよ。その後、あなたの『偽装死』を手配する。
これからは、この世に須永詩央(すなが しお)という人間は存在しなくなる」
刑務所の門を出た詩央の顔に、眩しい陽光が容赦なく降り注いでいた。青ざめたその表情は、ますます血の気を失って見えた。
十八歳から二十三歳までの五年間――刑務所生活を生き抜くために、彼女は自らのこれからの人生を、がんに冒された刑務所の女囚に売り渡したのだった。
第1話
「周藤(すとう)おばさん」と呼ばれたその女囚は詩央を庇護し、身に付けた全てのスキルを教えてくれた。ただ一つの条件は――出所した後、自分の息子を一生守ること。
詩央はその選択を後悔していなかった。だが、背の高い男に強く抱きしめられた瞬間、彼女は声もなく泣き崩れた。
「詩央、やっと出てきてくれた。ずっと会いたかった」
佐伯竜志(さえき りゅうじ)は彼女を抱きしめ、五年分の想いを込めたように、何度も何度も唇を重ねた。
詩央の頬を涙が伝い、彼女もまた、強く彼の唇を求めた。
長い口づけの後、ようやく名残惜しげに離れる二人。
竜志は彼女の涙をぬぐいながら、自分の顔にも涙が流れていることに気づかなかった。
二人は深く見つめ合った。まるで相互の存在を魂に刻みつけるかのように。
「行こう、家に帰ろう」
竜志は詩央の唇の端にキスを落とし言った。
「もう二度と離さない」
その言葉で、詩央の涙はまたあふれ出した。
だが、彼らに残された時間は、たった一か月だった。
帰路の車中、詩央は彼の横顔を貪るように見つめた。五年の歳月が、彼から若さゆえの荒々しさを取り去り、代わりに成熟と落ち着きを与えていた。
竜志は前を見据えたまま、彼女の手を取り唇に押し当てるようにキスし、微笑んだ。
「そんなに見つめて……来月六日に結婚式を挙げたら、俺は全部君のものになる。好きなだけ見てくれていいから、な?」
詩央の手が一瞬、火傷したかのように跳ねた。口を開きかけたが、胸の奥にある別れの気配が、彼女の声を奪った。
たった一度でいい、わがままになりたい。この世界から「去る前」に、小さな頃からの夢を叶えたい。
「うん……」
実は、詩央は須永家の「取り違えられた」偽りの娘だった。
六歳のときに真相が判明し、須永家は世間体を気にして彼女を捨てなかったが、それ以降は放置していた。
彼女は家政婦たちに虐げられていた。
飢え死にしかけたそのとき、二歳年上の竜志が彼女を家に連れて帰ってくれた。
「なんでご飯食べさせてもらえないの?」
「私、本当の子じゃないの。だから、もういらないって」
「じゃあ、うちにおいでよ。これからは、俺のお嫁さんになって」
六歳から十八歳まで、竜志は彼女を守り、慈しみ、何よりも大切にしてくれた。彼女の身分が何であれ、彼にとっての詩央は「お嫁さん」だった。
竜志と結婚し、家庭を持つこと――それが、詩央の幼い頃からの夢だった。
もし、あの事件さえなければ、今ごろその夢は叶っていた。
「詩央、昔のことはもういいだろ。須永おじさんも須永おばさんも君に会いたがってる。一緒にご飯でもどう?」
詩央にとって、もはや須永家の両親は何の意味もなかった。ただ、竜志の頼みなら、彼女は断りたくなかった。
「うん……」
五年前、須永家は本当の娘・須永妙実(すなが たえみ)を見つけ出した。妙実の養母はすでに他界し、養父は博打狂い。
須永家は、実の娘が幼い頃から養父に虐待されていたと知り、激怒して詩央を無理やり実家に連れ戻した。
だが、その実父は借金返済のため、詩央を人攫いに売り飛ばした。
幸いなことに、詩央は幼い頃から竜志とともに様々な危険回避訓練を受けていた。半月かけて逃げ出した。
命からがら戻った彼女が知ったのは――妙実が彼女の助けを求める電話を受け、迎えに向かう途中、車に轢かれて両脚を失ったという事実。
運転手は「詩央に金をもらって故意に轢いた」と証言。
行方不明の半月間、詩央は罪を恐れて逃亡したとされ、実父は行方不明、人攫いの所在も掴めず。
妙実の携帯には詩央との通話履歴、運転手の口座には詩央の口座から移された金があった。
そのすべてが、詩央が妙実を轢かせた犯人であると物語っていた。
竜志はあらゆる手段で彼女を救おうとしたが、最終的に彼女は五年の実刑を受けた。
そのとき医師は、妙実が一生車椅子生活になる可能性が高いと診断した。だから再会したとき、彼女が車椅子に座っていても、詩央は驚かなかった。
妙実の両親の顔は冷たかった。詩央の姿を見るや否や、母・美恵子(みえこ)が怒声を上げた。
「妙実に土下座して謝りなさい!」
詩央が一瞬、立ち尽くすと――竜志が彼女の前に立ちはだかり、庇った。
「須永おばさん、詩央は五年も刑務所にいたんです」
「だからって謝らなくていいとでも?」
美恵子が言い返した。
竜志が躊躇うのを見て、詩央はこれ以上彼を困らせたくなかった。
限られた時間を、過去の真相で消耗したくはなかった。
「……ごめんなさい」
詩央は妙実に頭を下げた。
「土下座しろ!」
妙実の父・貴志(たかし)は彼女の膝を蹴りつけ、彼女を地に倒した。
詩央は床に突っ伏し、膝の激痛に歯を食いしばった。額には冷汗が滲む。
「ごめんなさい……」
美恵子は彼女の髪を掴み、地面に打ち付ける。
「頭を下げなさい!」
詩央はもがいた。
「もういい!」
竜志が美恵子を突き飛ばし、詩央を抱き起こした。
「ここまでで十分です!」
美恵子が口を開きかけたそのとき、妙実が乾いた笑みを浮かべて言った。
「お母さん、もういいわ。竜志を困らせないで……」
竜志の目に、かすかな後ろめたさが宿った。
その視線に、詩央の胸に不安がよぎった。
そして、その不安の原因をすぐに見つけた。
昼食後、詩央は廊下の窓を開け、風にあたろうとした。
だが、ふと庭に目をやると――竜志が妙実の前にしゃがみ込み、彼女の頬に優しく手を添えていた。
「詩央は土下座して謝った。これ以上の謝罪は過剰だ。お母さんを止めたのは、君を責めたいわけじゃない。泣かないで、ね?」
妙実は涙ぐみながら頷き、そのまま竜志の唇に口づけた。
竜志は一瞬ためらったが、拒まず、彼女を膝に乗せて、深く口づけを交わした。
その瞬間、詩央は、五年前の、血を抜かれかけた夜に引き戻されたようだった。眩暈が走り、体が氷のように冷えきっていく。
竜志に一目会うために、彼女は地獄のような刑務所を五年も耐え抜いた。そのために、後半生を売り渡した。
だが、「永遠に愛してる」と言ってくれた男の心は、すでに離れていた。
詩央は指を噛みしめ、嗚咽を喉の奥に押し込んだ。
五年の苦痛を耐えたはずなのに、魂を破壊される痛みが、これほどまでに激しいとは思わなかった。
三十分後、彼女は見知らぬ番号に、こうメッセージを送った。
【偽装死の日取りは、来月六日でお願いします】
――その日は、竜志と結婚するはずだった日だ。
第2話
夜、詩央は身体に合わないパジャマ姿で浴室から出てきた。
ベッドに腰を下ろすと、竜志の目に真っ先に飛び込んできたのは、彼女の赤く腫れ上がった膝と、深く刻まれた二本の傷痕だった。
彼は突然立ち上がり、詩央を抱きかかえてベッドの上に乗せ、昼間に妙実を扱った時と同じように、地に片膝をついて彼女の傷を見つめた。彼の手は無意識のうちに震えていた。
「……これは、どうして?」
「囚人に、ナイフで切られたの」
詩央は落ち着いた口調で髪を拭きながら答えた。他人事のように淡々としていた。
竜志が目を上げると、涙が静かに目尻からこぼれ落ちた。そこには痛みとともに、深い悔恨の色が宿っていた。
「痛かったか……?」
詩央はタオルを下ろし、平然と嘘をついた。
「もう痛くないわ」
本当は、まだ痛んでいた。たとえどれだけ時間が経っても、その痛みは消えないようだ。
その時、あと一歩遅ければ、この両脚は残っていなかった。
妙実は大金を払い、彼女の両脚を潰すよう命じた。
実行犯は命知らずの男で、報酬を得て手を抜くはずもなかった。
竜志は身を屈め、彼女の膝にそっと口づけた。涙が落ち、すべるように彼女の脛を伝った。
火傷のような熱さに詩央は思わず脚を縮めた。
彼の涙は、凍てついていた詩央の心を、わずかに溶かした。
たとえ愛が消えてしまっても、二人の間には十年以上の歳月があった。
詩央は彼を引き起こした。
「もういいのよ。随分前のことだし」
竜志は部屋を出て、鎮痛消炎薬を持って戻ってきた。
彼は長い時間をかけて、優しい手つきで薬を塗ってくれた。
やがて二人は横になり、竜志は背後から彼女を抱きしめ、肩に優しく口づけた。
「形成外科の名医を探すよ。絶対、昔の姿に戻してみせる」
詩央は笑みを浮かべながら、目尻から涙をこぼした。
身体の傷は癒えても、心の傷は消えない。
深夜、竜志の携帯がわずかに震えた。その音に、詩央は即座に目を覚ました。
それは、刑務所で幾度となく夜中に襲われた記憶の名残だった。ほんのわずかな物音でも、神経が尖りきっていた。
だが、隣に眠るのが竜志だと気づいた彼女は、目を閉じて動かなかった。
竜志は携帯を一瞥し、彼女の頭に軽くキスを落としてから、静かにベッドを離れた。
彼が寝室を出ていったのを確認し、詩央もそっと後を追った。
妙実の部屋は、彼女の寝室の真向かいにあった。
ドアの前まで歩いた瞬間、部屋の中から甘えた声が聞こえてきた。
「竜志、私、眠れないの……」
「眠れないのか?じゃあ、俺がたっぷり愛してやるよ。疲れたら、自然に眠れるさ」
「やだ、姉さんとやったくせに、もういらないってことでしょ?」
「心配すんな、あいつには指一本触れてない。君の方がずっと淫らで可愛いよ。さあ、早くこっちにおいで、小悪魔め……」
数分後、男と女の交わる淫らな音が聞こえてきた。
詩央はドアの陰に身を潜め、膝を抱えてしゃがみ込み、無表情のまま、静かに涙を流した。
彼女は子供の頃から、泣くときは音を立てなかった。声を上げれば、助けてくれる者などおらず、むしろもっと酷く殴られるだけだった。
竜志と出会うまで。彼は彼女を抱きしめ、こう言ってくれた。
「泣いていいんだ、詩央。辛かったら泣いてくれ。俺にわかるように」
その言葉に導かれ、詩央は少しずつ泣き方を覚え、悲しみを彼の胸の中にだけ打ち明けるようになった。
刑務所で過ごした五年間――彼女は幾度となく自分の指を噛みしめて、泣き声を押し殺した。
心の中で、竜志の胸に顔を埋めて思い切り泣く自分を想像し、彼が優しく慰めてくれる姿を夢見ていた。
だが今、彼はたった五メートル先にいる。
けれど、彼女の喉は塞がれたように、何の音も発することができなかった。
……
竜志という存在のおかげで、かつての詩央は須永家の中でも完全に孤立していたわけではなかった。
だが妙実が帰ってきた後、須永家は彼女を養女と称して世間に伝えた。
そして今、服役から戻った「養女」のために、須永家は何を思ったのか、歓迎会を開いた。
詩央は、今日の自分の役割が「演技」にあることを理解していた。
だが、両親の狙いが寛容を示すことではなく、彼女を辱めることだったとは思っていなかった。
「詩央は過去、妙実を殺そうとして、そのせいで妙実は不自由な身体になった。
だが須永家は彼女を十八年間育てた。今日ここで妙実に謝罪すれば、これまで通り須永家の養女として扱ってやろう」
その場の視線が一斉に詩央に向けられた。
嘲笑と侮蔑の声が次々と飛び交う。
「詩央って運がいいわよね。佐伯さんに気に入られてなきゃ、もうとっくに追い出されてた」
「十八年間も本当の娘の人生を奪っておいて、挙げ句に殺人未遂?やっぱり血は争えないわね」
「元々、佐伯さんには不釣り合いだったけど、今や前科持ちよ?あんな女、佐伯さんがまだ欲しいと思う?」
「私だったら、刑務所に入ったその日に死んでる。どんな面して戻ってきたのかしらね」
「須永家って、ほんと心が広いのね」
詩央は、まるで刑が確定する前の日々に戻ったかのようだった。皆が彼女を罵り、信じてくれる者は誰一人いなかった。
竜志が用意した弁護士でさえ、無罪を勝ち取るつもりなどなかった。
今、彼女の脳裏が真っ白になる。自己防衛の本能が、彼女にこの場から逃げ出すように叫んだ。
身を翻そうとしたその瞬間、竜志が彼女の手を引き止めた。
「詩央、俺たちは結婚する。お前には須永家の養女という身分が必要なんだ。ここで謝れば、誰ももうこの件に触れなくなる」
彼は低い声で囁いた。
「……俺のために、頼むよ。な?」
第3話
詩央は竜志の顔に懇願の色を見た。
彼が彼女に謝罪させようとするのは、果たして結婚のためなのか、それとも妙実の憂さ晴らしのためなのか――彼自身、わかっているのだろうか?
「まあ、いいわ。お姉さん、プライドが高いから謝りたくないんでしょ?
じゃあ代わりにこのお酒を飲んでよ。お姉さん、昔はどれだけ飲んでも酔わなかったし、一本くらい平気でしょ?」
妙実は一本の酒を詩央の前に差し出した。その目には隠しきれない悪意が浮かんでいた。
確かに刑務所に入る前の詩央は酒に強かった。
しかし刑務所で妙実が仕組んだ罠によって、彼女はお酒を十本も無理やり飲まされ、三日間も命の危機にさらされた。
胃を壊し、体を痛め、それ以来、一滴の酒すら口にできなくなっていた。
「私は……」
「飲むよ」
竜志が詩央の拒否の言葉を遮り、酒瓶の蓋を開けて彼女の前に押し付けるように差し出した。声は優しかったが、どこか強引だった。
「飲んでくれ、俺たちの未来のために」
詩央は彼を見つめ、低い声で言った。
「竜志……私、刑務所で体を壊して、お酒は……」
竜志は眉をひそめ、苛立ったように言った。
「君が刑務所で傷ついたことは知ってるよ。でも酒と何の関係がある?俺は五年も待ったんだ。これだけ尽くしてきたのに、酒の一瓶も飲めないのか?」
詩央は目の前の男をじっと見つめ、かすかに笑みを浮かべた。
「……そうね。私たちの未来のために」
彼女は酒瓶を持ち上げた。
辛口な酒の味が涙のしょっぱさと混ざり合い、喉を焼き、胃に流れ込んでいった。
酒を飲み干したその瞬間、彼女は鮮血を吐き出した。
「詩央!」
竜志は驚愕し、彼女を抱きしめた。表情には信じられないような恐怖が浮かんでいた。
詩央は淡々と口元の血を拭い、静かに言った。
「これでいい?」
妙実は、竜志が抱き寄せる腕をじっと見つめ、皮肉げに笑った。
「お姉さん、無理して飲まなくてもよかったのに。誰も強制してないわよ。
わざわざ血を吐いて私の評判を落とすことないじゃない?まさか、五年間で胃がんになったとでも言う気?」
「詩央……」
竜志の顔にも、疑いの色が浮かんだ。
詩央の心は冷え切っていた。
いつからだろう。
彼女がほんの少し擦りむいただけで病院へ連れて行き、全身検査までしてくれた彼が、今は彼女の吐血すら疑うようになったのは。
「大丈夫。癌じゃない。ただの吐血、たいしたことないわ」
彼女は身を翻し、急いで洗面所へ駆け込んだ。
「オエッ!!!」
喉に指を突っ込み、酒を必死に吐き出す。
彼女には守るべき約束があった。
――周藤おばさんに、「息子を守る」と誓った。
だから、ここで命を落とすわけにはいかない。その誓いを守らなければならない。
いつの間にか、洗面所の扉が開かれていた。背後から、見知らぬ男が抱きついてきた。
「須永さん、俺を待ってたのか?」
詩央は即座にその男を平手打ちし、突き飛ばして逃げようとした。
「チッ、何気取ってんだよ。六歳の頃から男を誘惑するような女が、今さら清純ぶるなよ。佐伯にも飽きられてるだろ。俺様が相手してやるってのは光栄に思え」
男は彼女の髪をつかんで引き戻した。
詩央は力を入れて、彼の下腹部に一撃した。
「ああっ!」
男が痛みによろけた隙に、彼女は逃げ出した。
この数年、刑務所で数多の苦しみを味わい、生き残る術を学んだ。
特に――自分の身を守る方法だけは、誰よりも知っている。
だが、酒のせいで体中が痛み、頭も朦朧としていた。
よろめきながら庭に出たところで、男に追いつかれてしまう。
「クソッ、逃げられると思ったか!」
「助けて!!」
詩央は大声で叫んだ。
もみ合ううち、男に押されてプールに落ちた。
物音に気づいた竜志が駆けつけ、助けようとしたが――
「竜志、お姉さんは泳げるわよ」
妙実が前に立ちはだかった。
竜志は男を殴り飛ばし、ボディーガードに命じた。
「こいつをしっかり始末しろ!」
プールサイドで彼は詩央が上がってくるのを待った。だが水面は次第に静かになり、波紋すら消えていった。
その時、彼はやっと気づいた。
妙実を振り払い、彼は水に飛び込んだ。
水中の詩央は、美しい人魚のようだったかつての姿とは違い、虚ろな目で首を抱き、ゆっくりと沈んでいった。まるで、生きる意志などどこにもないかのように。
竜志は彼女を水から引き上げ、震える手で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返した。
「詩央、目を覚ましてくれ……俺が悪かった、だから……お願い、俺を叩いてもいい、だから、お願いだ……逝かないでくれ!」
彼の涙が彼女の顔に落ちると、詩央は突然咳き込んで水を吐き出した。
その瞬間、竜志は彼女を強く抱きしめた。周囲の音がすべて消え、彼女の体温と鼓動だけを感じ取ることで、ようやく「彼女はまだ生きている」と実感した。
詩央は、血走った目でこちらを睨む妙実を見つめ、ふっと笑った。
竜志、あなたがこれほどまでに私を愛しているのなら、私が死んだ日、きっと耐え難いほど苦しむのね。
……
熱い湯に浸かり、竜志は詩央をベッドに運んだ。彼自身もすぐにその隣に入り、強く彼女を抱きしめた。
「詩央、刑務所で何があったんだ?どうして水を怖がるの?」
詩央の声は冷静だった。
まるで、他人の話をするように――「水に何度も顔を押しつけられたの。重度の肺炎で、死にかけた。命拾いはしたけど、それから水が怖くて……」
竜志の手が震えた。
彼女をさらに強く抱きしめ、嗚咽まじりに言った。
「ごめん……俺が守れなかった……」
詩央は薄く笑ったが、心の中は波一つ立たなかった。
どう償えばいいのか分からない竜志は、そっと提案した。
「詩央、もう一度婚約式を挙げたいんだ。一週間後で、どう?」
「いいわ」
「君が好きなアジサイを敷地いっぱいに植えた庄園を買った。結婚式はそこで開こう。いい?」
「……うん」
「詩央、愛してる」
「……」
第4話
竜志の動きは素早く、婚約式は盛大ではなかったが、とても温かいものだった。須永家と佐伯家の親戚や友人を全員招待し、会場中にアジサイが飾られていた。
彼は詩央の前に片膝をつき、赤いベルベットの指輪ケースを掲げ、皆の注目の中で――取り出したのは……草で編んだ指輪だった。
会場が一瞬静まり返った。竜志自身も一瞬戸惑ったようだった。
彼が用意したはずの婚約指輪は、「一生に一度しか購入できない至愛のリング」だった。
それを詩央に事前に話していた。
どこかで手違いがあったようだ。しかし彼はすぐに対応し、言った。
「詩央、初めて君にプロポーズしたのは、君が六歳のときだった。
草で作った指輪をはめて、その日から君が俺の嫁さんになると決めていたんだ。十七年経った今――俺と結婚してくれるか?」
涙が静かに彼女の目尻を伝った。十八歳のとき、竜志も同じように彼女の前で膝をついてプロポーズした。
あれが幸せの始まりだと思っていたが――実は、幸せの終わりだった。
「……はい」
詩央は手を差し出した。
これが偽りと知りながらも、もう一度、自分を騙したかった。
竜志は彼女の指に草の指輪をはめ、そっと抱きしめ、耳元で申し訳なさそうに囁いた。
「ごめん、詩央。指輪、必ず取り戻すよ」
詩央は彼を強く抱きしめたが、何も答えなかった。
式が終わって間もなく、竜志は姿を消した。彼がいなくなると、みんなの態度はすぐに一変した。
「草の指輪でプロポーズ?五年前の婚約指輪は、佐伯さんが自らデザインしたダイヤモンドのリングだったのに。
ダイヤだけで六億円だったっけ?五年も服役した女なんて、草一本で済ませられる存在ってわけね、ハハハ……」
「佐伯さんは情に厚いから結婚するけど、普通なら前科持ちの女なんて嫁にできないよ、恥だよね」
詩央は俯き、指輪を回しながら、周囲の嘲笑を無視した。
まもなく、この世界に須永詩央という存在はいなくなる。誰の嘲りも、彼女の心をかき乱すことはなかった。
婚約式の間、竜志は二度と現れなかった。
その夜、詩央が風呂から出ると、携帯に妙実からのメッセージが届いていた。それは一枚の写真だった。
竜志と妙実が手を繋ぎ、彼女の指には「一生に一度しか購入できない至愛のリング」が光っていた。
次の瞬間、もう一通のメッセージが届く。
【詩央、竜志の至愛は私。あなたにはもう義務しかないの。彼を愛しているなら、自分から身を引くべきよ】
わかっているよ。
詩央は心の中で静かにそう答えた。
髪を乾かしていると、竜志が戻ってきた。
彼の顔には疲れが滲み、詩央の目をまともに見れないような後ろめたさがあった。
詩央はわざと訊いた。
「指輪は?」
竜志は彼女を抱きしめ、申し訳なさそうに言った。
「湖に落としちゃったんだ。詩央、もっと良い指輪を買うから、いい?」
「でも、それって『至愛のリング』でしょ?」
竜志は彼女を強く抱きしめた。
「詩央が俺の至愛なんだよ。指輪なんて、ただの物だよ」
詩央は彼の肩に寄りかかったが、心の中は虚無そのものだった。
竜志は詩央の感情をよく理解していた。彼女は何も言わなかったが――彼にはわかっていた。
彼女は悲しんでいる。
怒りでもなく、後悔でもない、ただただ深い悲しみ。
その感情に、彼は恐怖を覚えた。何かをしなければ、何か大切なものを失ってしまう気がした。
そこで彼は、詩央に黙って港市のオークションへ行き、高価な指輪を買って驚かせようとした。
だがその行動は、誰よりも早く詩央に知られていた。
#佐伯家の御曹司、須永家令嬢の笑顔のために数億円払う#という急上昇タレントよりも早く――
妙実が、リアルタイムで彼女に「ライブ中継していた」のだ。
【十億円の首飾り、私が少し見ただけで、竜志が買ってくれた】
【二億円のイヤリング、あまり好きじゃないけど、竜志が似合うって】
【二十六億円の芸術品、竜志が私に「遊びで使って」と】
【十二億円の時計、大好きなの】
【世界一重いピンクダイヤ、結婚指輪にするって竜志が言ってくれた】
……
詩央はあえて苦しむように、それらの写真を一枚一枚見た。
高額な品よりも、全ての写真で妙実の車椅子のアームレストに置かれた――竜志の手を見ていた。
【一億円の指輪、私には似合わない。あなたにあげるわ】
オークションが終わり、急上昇タレントはいつの間にか削除されていたが、見るべき人には届いていた。
詩央は苦笑し、竜志がいない隙に昔の物を整理し始めた。
須永家は彼女に興味がなかったので、持ち物のほとんどは竜志からの贈り物だった。だから、心に残るものから処分することにした。
金庫の中に、丁寧に保存された1枚の紙があった。
そこには、十八歳の竜志が、詩央に見せたくなかった少年の気持ちが綴られていた。
【俺の詩央、いつになったら大人になるの。もう我慢できそうにない】
【詩央、詩央、詩央……】
【君に会うのが怖い、でも会えないのも怖い。見つめられるのが怖い、でも見てくれないのも怖い】
【悪いことしたいけど、君の澄んだ目に躊躇う】
【君が愛おしくてたまらない、君の体中に俺の匂いを残したい】
……
詩央がずっと大切にしていたその紙は、最後に火の中へと投げ込まれた。
十八歳の竜志は彼女を宝物のように扱ってくれた。
けれど、二十五歳の彼は――彼女を雑草のように扱った。
竜志が戻ったとき、ちょうど詩央が彼との写真を火に投げ込む瞬間だった。
彼は慌てて駆け寄り、それを止めようとしたが――
詩央に制止された。
「詩央、何をしてるんだ!」
第5話
竜志の心はざわついた。詩央はなぜ、二人の写真を燃やそうとしたのだろう?
詩央は落ち着いた様子で手を払って立ち上がる。
「写真が黄ばんできたから、新しくプリントし直すの」
その言葉を聞いて、竜志はまるで水に戻った魚のように、安堵のため息をついた。
「それならいい」
彼は詩央の手を取り、片膝をついて指輪のケースを取り出した。ケースを開けると、中には精緻な細工の指輪が収められていた。
「この指輪の名は『変わらぬ愛』。宝石職人川上の作品で、港市のオークションで一目見たとき、君がきっと気に入ると思ったんだ」
詩央は指輪を受け取ったが、自分の指にははめなかった。そのとき、竜志は初めて彼女の指にまだ草の指輪があることに気がついた。
その草はすでに枯れているが、形は完璧なまま。どれだけ大切にされてきたかが分かる。
「詩央、俺がはめてあげるよ」
喜びに満ちた竜志は彼女の手を取って、草の指輪を外そうとした。
だが、詩央は手を振りほどいた。
「いいのよ。草の指輪は私たちの過去。大事な思い出なの」
竜志は立ち上がり、指輪のケースを彼女の手に押し付ける。
「じゃあ、その草の指輪が壊れたときに、これをつけて」
彼は詩央を抱き寄せ、部屋の中へ戻ろうとした。しかし詩央は足を止めた。
薄暗い光の下、彼女の表情ははっきりと見えなかった。
「竜志、覚えてる?あなたが私に告白したとき、私が何を言ったか」
竜志は少し戸惑ったあと、笑顔で答える。
「もちろん覚えてる。君は『一生のうちに受け取る愛は少ないけれど、それで妥協する気はない』って……」
そこで彼の言葉は止まった。次の瞬間、彼の胸に不安が一気に押し寄せ、彼は強く詩央を抱きしめた。
「詩央、俺は誓ったんだ。君に妥協なんてさせないって」
詩央は彼の背中を優しく叩いてあやすようにしたが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
でも、あなたはすでに妥協の象徴になってしまった。
夕食を終えると、詩央の携帯に通知が届いた。
【偽装死体の準備完了。十日後、「須永詩央」は交通事故による爆発で死亡予定。未完了の事柄は早めに処理を】
【了解】
詩央は携帯をしまい、心がざわついていた。
彼女は着替えて夜のランニングに出ようとしたが、別荘の角を曲がったところで、立っている妙実と美恵子を見つけた。
妙実は車椅子を蹴飛ばし、声をひそめて叫んだ。
「全部あんたのせいよ!人身売買なんて回りくどいことしないで、最初から殺しておけばよかったのに!」
「おお、ちょっとちょっと、妊娠中なんだから、そんなにイライラしちゃだめよ」
――妊娠?
詩央の目から一滴の涙がこぼれ落ちた。無意識に自分の腹に手を当てる。そこにもかつて命が宿っていた。だが、刑務所に入った二日目、その命は奪われた。
彼女は唇を強く噛みしめ、ようやく理性を保った。
五年前に起きたすべては、須永家による計画的な悪意だった。
彼女が人身売買に遭ったのも、すべて須永家の指示。妙実の交通事故も偽装。その目的はただひとつ――詩央を完全に潰すこと。
彼女は顔を上げたが、涙は止まらなかった。
竜志の浮気を知ったとき、ふと思ったことがある。
もしも自分が人身売買で連れ去られていなければ、すべてが違っていたのではないか。
彼と結婚し、子どもを産み、幸せに暮らしていたかもしれない。
でも、「もしも」なんてない。彼女の人生はすでに須永家によって破壊された。
「でも竜志は、私と結婚したがらないの。私の子どもを私生児にするつもり?何よそれ。詩央は私の人生を十八年も奪ったのよ。竜志が愛すべきなのは、私のはず!」
「よく言ったわ、妙実。安心して、母さんがちゃんと手を打ってあるから。詩央が結婚式に現れるなんてこと、絶対にないから」
二人の計画は、奇しくも詩央の偽装死の予定と重なっていた。
だから、彼女はメッセージを送り、偽装死の内容を変更した。
もし竜志が、「自分を殺したのが」妙実母娘だと知ったら、どうするのだろう?
そう考えると、彼女は少しだけ、胸の内に楽しみを覚えていた。
第6話
夜のランニングを終えた詩央が家に戻ると、ちょうど竜志が妙実を横抱きにして階段を上がろうとしていた。
詩央の姿を目にした彼は一瞬ぎこちなく動きを止め、慌てて言い訳するように口を開いた。
「詩央、妙実は階段をうまく登れないんだ。ちょっと手を貸してるだけだから、誤解しないでくれ」
「別に、誤解なんてしてないわ。ただの手伝いでしょ」
詩央はそう言って、彼と一緒に車椅子を階上へ運んだ。
二階に着くと、竜志はすぐさま妙実を床に降ろし、詩央の手を取って言った。
「妙実、自分の部屋に戻って。俺たちもそろそろ休むから」
その言葉の後、まるで後ろから犬に追われているかのような勢いで、竜志は詩央を連れて部屋に引き返した。
竜志がシャワーを浴びに行った後、詩央の携帯に妙実からのメッセージが届いた。妊娠検査の診断書だった。
【私、妊娠したの。女の子よ。竜志が満(みつる)って名前を付けてくれたの】
【あんたのあの胎児が堕ろされた時は、ちょうど三ヶ月だったわね。まだ肉の塊だったでしょう?
味はどうだった?あの子をあんたの口に突っ込ませたのよ。きっと美味しかったでしょ?栄養たっぷりだったはずよ】
満……
詩央は声もなく絶叫した。彼女の「満」……
彼女の意識はあの日に引き戻された。必死でお腹を抱え、何度も地に頭を下げて懇願したあの日。あの子だけは助けてと、何もいらないから、満だけは奪わないでと。
それでも、満は失われた。
激痛が詩央の内側を貫いた。思わず身体を縮めるしかなかった。
かつて、詩央は竜志とよく未来を語り合っていた。二人で猫と犬を飼って、可愛い女の子を育てようと。
竜志は微笑んで言った。
「女の子は君に似るといいな。君は子供の頃あまりにも多くを我慢してきた。
俺がもう一度、君を育て直したいんだ。俺にできるすべてを、君に与えるために。
だから娘の愛称は『満』にしよう。彼女の人生がいつも満ち足りたものでありますように」
だが、竜志は、「満」の存在すら知らない。今の彼には別の「満」がいる。
シャワーを終えた竜志が部屋に戻ると、詩央はベッドの上で身を縮め、無言で泣いていた。
肩が激しく震え、全身が絶望の中に沈み込んでいるようで、それでも一言も発しなかった。
「詩央、どうしたんだ?」
竜志は彼女を抱きしめ、焦りながら尋ねた。
「何があった?教えてくれ。俺が何とかするから。誰かにいじめられたのか?
それとも須永家の奴らが何か言ったのか?明日には引っ越そう。新しい家があるんだ。
君の好きなインテリアデザイナーが手掛けてくれた部屋だから、きっと気に入ってもらえるよ」
彼の声は次第に震えを帯びていく。
「お願いだ。何があったのか教えてくれ。我慢しないでくれないか」
だが、竜志が何を言おうと、詩央は一言も返さず、ただただ音もなく泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠ってしまった。
翌朝。
「詩央、昨夜はどうして泣いていたんだ?」
心配そうに問いかける竜志に、詩央はもう落ち着きを取り戻していた。彼女は淡く微笑んで答えた。
「たいしたことじゃないわ。赤ちゃんの動画を見てたら、娘のことを思い出したの」
竜志は一瞬虚ろな目をし、彼女の言葉を信じたのかどうかは分からなかった。ただ黙って彼女を抱きしめ、力強く約束した。
「俺たちにも、きっと娘ができるよ」
詩央は顎を彼の肩に軽く乗せ、その顔に浮かぶのはただ一つ、冷ややかな嘲笑だった。
いいえ、竜志。娘はもう二度と戻ってこない。
そして、詩央自身も、いずれこの世界から姿を消す。
第7話
竜志は言ったとおり、翌日には詩央を連れて須永家を出て行った。
彼は市内に一つのマンションを新婚用の住居として改装しただけでなく、郊外には広大な屋敷を購入し、その庭には青と白のアジサイが一面に咲き誇っていた。
アジサイの花言葉は「和気あいあい」。
詩央はこの花が好きだった。大ぶりで生命力に満ちた姿もそうだが、それ以上にこの花言葉が好きだった。
彼女は、未来が幸せで満ち足りたものであることを願っていた。
だが今や、彼女に未来など存在しない。アジサイの海のような花畑に立ちながらも、微塵の幸福すら感じることはできなかった。
「俺たちの結婚式はここでやろう。親戚も友人もみんな招待して、皆の祝福の中で夫婦になるんだ」
竜志は未来に対する希望に満ちた表情を浮かべていた。詩央を抱きしめながら、顎を彼女の髪にそっと乗せ、慎重に語りかける。
「詩央、俺の奥さんよ、君は知らないだろうけど、あの日が来るのを俺がどれだけ楽しみにしてるか」
詩央の瞳には、皮肉の光が一瞬よぎった。
楽しみにしている?彼女もまた、心から楽しみにしていたのに。
その後の数日間、竜志は結婚式の準備に忙しく、毎日早朝から夜遅くまで働いていた。それでも、彼は必ず時間を作り、詩央と一緒に食事をするようにしていた。
詩央は一度、彼に言ったことがある。
「そんなに忙しいなら、わざわざ戻ってきて一緒に食事しなくていいわ」
「俺が結婚式を準備してるのは、君を幸せにするためだ。そのせいで君の気持ちをないがしろにするなら、本末転倒だよ」
竜志がそう言ったとき、彼の顔は期待と喜びに満ちていた。
その様子に、詩央は内心が満足した。期待すればするほど、自分が「死ぬ」その瞬間、彼はより深く傷つくだろうと。
そして結婚式の前日、竜志はついに詩央と夕食を共にしなかった。
「結婚式の前に新郎新婦が顔を合わせちゃダメなんだ。家で大人しく休んでて。明日は新婦なんだから、きっと疲れるよ」
竜志はそう言って、彼女の頭を撫でると、一度も振り返ることなく家を出て行った。
詩央は携帯を見下ろした。
【竜志が今日何をするか知りたい?彼の車を追ってみなさい。自分がどれだけ滑稽か、よく分かるわ】
妙実からのメッセージは、詩央の静かな心に波紋を広がった。
十七年にわたる朝夕の付き合いの中で、この世で彼女を愛してくれたのは竜志ただ一人だった。その想いの深さは、彼女自身が驚くほどだった。
罠だと分かっていながら、彼女はあえて飛び込む決意をした。完全に諦めを固めるために。
彼女は車を出し、竜志の車を追った。
進めば進むほど、見慣れた風景が現れる。やがて、青と白のアジサイが咲き誇るあの屋敷が見えたとき、詩央は妙実が見せたかったものをぼんやりと理解した。
竜志が屋敷の前に到着すると、彼の友人が笑顔で迎えに出てきた。
「おい、新郎さん、なんでこんなに遅いんだ。早く着替えて、もうすぐ式が始まるぞ。縁起のいい時刻を逃すなよ!」
新郎、式、縁起のいい時刻……
詩央は車内にしばらく留まり、中の人々が式場へ向かったのを確認してから、そっとドアを開けた。
屋敷の敷地はさほど広くないが、どこもかしこもアジサイの海。門のところに立っただけで、式場から「結婚行進曲」が聞こえてくる。
彼女は音に導かれるまま中へ行った。
そこには、白いウェディングドレスに身を包んだ妙実が、車椅子に座り、父の貴志に押されながらゆっくりと進んでいた。その先には、タキシード姿の竜志が立っていた。
詩央は、今すぐ立ち去るべきだと分かっていた。それでも足は地に釘付けにされたように動かず、彼女は自虐的にその結婚式の一部始終を見届けた。
十八歳のとき、竜志がプロポーズしてくれた日、二人は結ばれた。
その夜、彼は彼女を抱きしめながら何度もキスをして言った。
「すぐに盛大な結婚式を挙げよう」と。
彼女のためだけの、唯一無二の結婚式を、このアジサイの海で。
唯一無二。
ふっ、滑稽だ。
同じ場所、同じ新郎、同じ客。そして前後二日で、二度の結婚式。
これ以上に馬鹿げた話があるだろうか?
「新郎さん、新婦さんにキスをお願いします」
竜志は身を屈めて、妙実の白いベールを上げ、その唇に丁寧にキスをした。
皆は歓声を上げ、心からの祝福を送る。
「末永くお幸せに!」
「早く赤ちゃんができますように!」
「お幸せと円満を!」
……
詩央はその場を去る前、自分の祝福も残していった。
「どうか……末永く、お幸せに」
第8話
【見たでしょう?どれだけ昔の感情にしがみついて竜志を無理やり結婚に引きずり込んでも、彼の心の中にいるのは私なの】
【結婚式の会場まで、私が捨てた場所を使ってるなんて……詩央、あなたって本当に惨めじゃない?】
妙実はまた多くのメッセージを送りつけてきたが、詩央は一切返信しなかった。
この携帯は家に置いておくつもりだった――いつか竜志がそれを見る日まで。
翌朝早く、詩央はスタイリストの手を拒み、満面の笑みを浮かべる竜志の手を引いて、市立中学校の隣にある公園へと車を走らせた。
彼女と竜志が少年時代を過ごした場所だ。
「詩央、もうすぐ式場に行かなきゃいけないのに、なんでこんな所に?」
詩央は彼を木の下まで連れて行き、スコップを取り出して土を掘り始めた。
竜志はすぐに思い出した。詩央が中学校卒業のとき、この木の下にタイムカプセルを埋めたのだった。
「十年後に開けるって約束しただろ?まだ早いよ」
「結婚前に開ける方が、もっと意味があると思って」
なるほど、と竜志も納得し、一緒に掘り始めた。ほどなくして、二つのタイムカプセルが掘り出された。
彼は自分のタイムカプセルを開いた。
【二十七歳の竜志へ。俺は十七歳の竜志だ。君は詩央と結婚したか?
俺の一番の夢は詩央と結婚して、子供を生んで、その子の成長を見守りながら、詩央と一緒に年を重ねることだ。
この夢が叶わなかったとしたら、今の君はどれほど悲しいだろう?そう考えただけで胸が苦しくなる。
この十年、君は詩央にたくさんの愛を注いだか?八歳の俺が詩央と出会って、彼女に約束したんだ。
『必ず詩央を幸せにする』って。忘れるなよ。忘れたら――呪ってやる。決して幸せにはなれないように】
竜志は手を震わせながら、その手紙をぎゅっと握りしめ、そっと詩央の方を見つめた。
詩央も自分の手紙を彼に手渡した。
【二十五歳の詩央へ、あなたは幸せか?笑顔で過ごせているの?竜志と結婚たか?あなたたちには子供がいますか?
十五歳の詩央は、竜志の存在があったからこそ、二十五歳を心から楽しみにしていた。
私は幸せな家庭を持ちたい。それが私の夢。どうかそれを叶えてあげてください。
それに、竜志以外の人と結婚しないで。
だって、幸せをくれるのは竜志だけなんだから。絶対に忘れないでね】
竜志は強く詩央を抱きしめた。
「十七歳の俺の夢は、君と結婚することだった。そして今、二十五歳の俺は、ようやくその夢を叶えるんだ。詩央、愛してる」
詩央はかすかに笑って、彼の背を軽く叩いた。
十五歳の詩央は、この世の幸福のすべてを竜志に託していた。彼なら、決して自分を裏切らないと信じていた。
だが、二十三歳の詩央は、彼によって傷つき、壊され、もはや幸福を感じる力さえ失っていた。
もし六歳の頃に戻れるのなら――竜志に出会わなければよかった。
光を知らなければ、闇はこんなにも辛くはなかったはずだから。
……
マンションに戻ると、スタイリストが最速で詩央のヘアメイクとドレスの着付けを済ませた。
外には、詩央を迎える車が長くずらりと並んでいた。詩央は車に乗り込み、竜志も乗ろうとしたが、そこに妙実が立ちふさがった。
「竜志、私に完璧な結婚式を約束したのよ。でも昨日、一緒に式場に行ってくれなかった。今、それを埋め合わせてよ!」
竜志は詩央を一瞥し、眉をひそめた。
「妙実、やめてくれないか?」
「ダメよ。竜志、あなたは今からお姉さんと結婚するのに、私の最後の願いすら叶えてくれないの?」
突如として、妙実はナイフを取り出し、自らの喉元に突きつけた。
「拒否するなら、ここで死ぬわよ!」
「やめろ!」
竜志は彼女の絶望的な眼差しを見て、五年間の関係を思い出し、ついに諦めたように頷いた。
「……これが最後だ」
彼は詩央にどう説明していいかわからなかった。結局、何も言わず、部下に適当な理由を告げさせた。
「お嬢様、ウェディングドレスが大きすぎるので、佐伯様が同乗すると圧迫してしまいます。なので後方の車に乗られました」
詩央はバックミラー越しに運転手の曖昧な視線と目が合ったが、何も言わず微笑んで頷いた。
詩央が乗る車は速度を上げた。そして、途中で渋滞に巻き込まれた。
二つの信号を越えた頃には、後方の車列からこの車の姿はもう見えなかった。
竜志は、妙実に付きまとわれていたせいで、何も気づいていなかった。
彼が異変に気づいたとき、前方の車が突然制御を失い、トラックに激突。車体は何度も横転し、窓ガラスは砕け、血があふれ出していた。
白いウェディングドレスの裾が、血に染まって窓の外へはみ出し、その先には細い女性の手首が垂れていた。
「詩央!!」
竜志は狂ったように、横転した車に駆け寄った。だが、あと三メートルのところで――
車は「ボンッ」と爆発音を立てて炎に包まれた。
彼はボディーガードに押さえつけられ、炎の向こうに、十数年間渇望してきたあの繊細な影が、どんどん遠ざかっていくのをただ見ているしかなかった!