さようならは蜜の味

Đang tải thông tin quảng bá...

さようならは蜜の味

GoodNovel Hoàn thành

幼馴染の久我一臣(くが かずおみ)がまた喧嘩騒ぎで警察に連行されたと聞き、桐谷希和(きりたに きわ)は彼を迎えに警察署へ向かった。 そこ...

Chương (1)

第1章

幼馴染の久我一臣(くが かずおみ)がまた喧嘩騒ぎで警察に連行されたと聞き、桐谷希和(きりたに きわ)は彼を迎えに警察署へ向かった。 そこで、彼女は警察の口から思いもよらぬ事実を知らされる。 今回の喧嘩は、一臣の「彼女」が不良に絡まれていたのを助けたことで起きたのだという。しかし、そんな一臣は、昨夜まで希和と体を重ねていた。 衝撃と混乱の中、希和は一臣を問い詰める。だが返ってきたのは、冷ややかな笑みと突き刺すような言葉だった。 「希和、この三年間、俺はずっとお前を体の相性がいいだけのセフレとしか思ってなかったよ。まさか、自分が俺の彼女だなんて思ってないよな?」 第1話 警察署。 久我一臣(くが かずおみ)の体に残るあざを見て、桐谷希和(きりたに きわ)は思わず眉をひそめ、心配な眼差しを向ける。 「またケンカ?もう衝動的にならないって、ちゃんと約束したよね?」 一臣が答える前に、隣の警察官がふっと笑って口を挟んだ。 「ふふ。彼、なかなかすごかったですよ。彼女が不良に絡まれてるのを見て、たった一人で五人に立ち向かってね。結果、その五人、全員病院送りです。一人はまだ意識が戻ってないらしくて……」 その話に、希和の体がピクリと強ばる。声には戸惑いがにじんでいた。 「……彼女?」 警察官が何か続きを言おうとした瞬間、一臣は希和の肩を抱き、彼女を署の外へ連れ出した。そして何事もなかったかのように話し出す。 「俺の彼女、綾瀬ひより。可愛いだろ?今度、希和にも紹介するよ」 突き出されるように見せられた写真を見つめながら、希和の喉の奥に、ぎゅっと締めつけられるような痛みが走った。 昨夜まで、二人は激しく抱き合っていた。ベッドにも、バスルームにも、ソファにも愛し合った痕跡が残るほどに。 しかしたった一日、顔を見なかっただけで…… 希和の目が一瞬で赤く染まり、指先に力が入り、爪が掌に食い込む。 「その子があなたの彼女なら……私は何?」 一臣は肩から手を離し、顎を少し上げて希和を見下ろした。嘲るような視線が、真っ直ぐ彼女の胸を射抜く。 「セフレに決まってるだろ? なあ、希和。俺たちはただの友達だ。まさか、本気だったわけじゃないよな?」 三年も夜を重ねてきたのに――「ただの友達」だと、その一言で切り捨てられた。 体の芯がどんどん冷えていく。それでも希和は諦めきれず、一臣の薄ら笑いを見つめながら問いかける。 「じゃ……どうして、その彼女に迎えに来てもらわなかったの?」 「ひよりは体が弱いし、怖がりなんだ。こんな大雨の中、来させたら可哀想だろ」 あまりにもあっさりとした口調に、希和の喉から苦いものが込み上げてくる。 「可哀想」だから、無理はさせられない。でも希和なら、当然のように呼びつけていい。 「怖がり」だから、嫌な思いはさせられない。でも希和は、こんな状況を何度も経験してきた…… 今日、希和が食あたりで体調を崩していたことを、一臣は知っていた。それなのに、無理して迎えに来た彼女に、労いの言葉ひとつもなかった。 そんな彼女の絶望的な表情を見て、一臣は冷たい声で言った。 「もうすぐうちのじいさんの誕生日パーティーだ。ひよりを家族に紹介する予定だからさ……お前、余計なこと言うなよ? 万が一、誤解されるようなこと言ったら……絶交だからな」 その言葉は鋭く冷たい刃となって、希和の胸に深く突き刺さる。心の奥をえぐられ、息ができないほどの痛みに変わった。 久我家と桐谷家は代々の付き合いがあり、一臣と希和は幼なじみだった。子どもの頃から、両家のあいだでは「二人を将来結婚させる」という口約束もあった。 だから、大学の卒業パーティーの夜、酔った勢いで一臣と一線を越えたとき、希和は、きっと彼も自分を想ってくれているのだと、信じて疑わなかった。 けれど、その思いは無残に裏切られた。二人は恋人ではなく、ただの体の関係だと、そう突きつけられたのだった。 そのとき、一臣のスマホが鳴った。 画面に表示された名前を見た彼の顔が、ぱっと綻ぶ。 傘を差し直し、希和から少し離れたところで通話を始めた。 雨音に混じって、一臣の声が途切れ途切れに耳に届く。 「……心配するなって、もう大丈夫だよ。さっき友達が来てくれたから、もう釈放されたんだ……」 そのひとつひとつの言葉が、針のように希和の脳裏に刺さる。体の芯まで冷え込み、骨の髄まで痛みが走った。 そのとき突然、スマホの向こうから悲鳴が響く。一臣は顔色を変え、慌てた様子で叫んだ。 「ひより?どうした!今行くからな!」 次の瞬間、一臣は希和のもとへ駆け寄り、彼女の手から無理やり車の鍵を奪い取った。 「ひよりが足を捻ったらしいんだ、車貸してくれ。お前はタクシーで帰れ」 鍵を奪われた拍子に傘がひっくり返り、希和は雨の中に取り残された。 一臣は振り返ることなく、車を走らせて去っていった。 冷たい雨が容赦なく希和の体を濡らしていく。 顔を伝うのが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。 季節はすでに晩秋。雨の夜道に人影はなく、タクシーも一台も通らない。 体調の悪い希和が、びしょ濡れのままようやく自宅にたどり着いたときには、すでに二時間近くが経っていた。 家に入ったその瞬間、一臣から電話がかかってきた。 「希和、もう家に着いたか?」 ――一臣は、まだ私のことを気にしてくれてるんだ。 一瞬、そんな淡い期待が胸をよぎった。 しかし一臣の声は、容赦なく現実を突きつける。 「ひよりさ、俺を迎えに来たのがお前だって知って、ずっと不機嫌なんだ。薬も飲まないし、何言っても聞いてくれないんだよ。 それでさ、明日ひよりを友達に紹介しようと思うんだ。お前も来て、ちゃんと彼女に説明してやってくれない?」 第2話 希和は、自分がどんな気持ちで電話を切ったのか、もうよく思い出せなかった。 物音を聞きつけて、両親の秀子(ひでこ)と文陽(ふみお)が寝室から出てくる。ずぶ濡れの希和を見て、秀子は目を見開いた。 「ちょっと、どうしたのよ!何かあったの?」 希和は母の胸元に顔を埋めると、ぽつりと呟いた。 「父さん、母さん……私、海外に行きたい。新しい会社で経験を積みたいの」 涙混じりの声の中に、確かな決意がにじんでいた。 そうだ。できるだけ遠くへ行こう。一臣と離れて、もう二度と顔を合わせない場所へ。 希和の願いに、両親も最終的にはうなずいた。出発は、二週間後に決まった。 その夜、希和は温かい生姜湯を飲み、熱めの湯船にゆっくりと浸かってからベッドに入った。 翌日の昼過ぎまで寝ていた希和は、母のノックで目を覚ます。 「希和、一臣くんから何度も電話が来てたよ。あんたが出ないからって、うちにかけてきて……何か急ぎの用があるみたい」 スマホを確認すると、マナーモードのまま、十数件もの不在着信が並んでいた。 「会う予定があるなら行ってきなさい。海外に行くこともちゃんと伝えるのよ。もう、しばらく会えなくなるんだから」 そう言い残して、秀子はそっとドアを閉めた。 その直後、また一臣からの着信が鳴る。切るとすぐに、次のコールが鳴った。 仕方なく通話をつなぐと、すぐさま苛立った声が飛び込んできた。 「希和、まだ来ないなら、今すぐ家まで引きずりに行くぞ」 体調はまだ優れなかったが、希和はゆっくりとベッドから体を起こした。 ――今日で、全部終わらせよう。そしたら、もう彼と関わらなくて済む。 一臣から送られてきた住所は、会員制のプライベートサロンだった。 希和が着いた時、個室の扉は少し開いていて、中からにぎやかな声が漏れてくる。 「ってか一臣さん、そんなにひよりさんが好きなんっすか?まだ付き合って二日とかじゃなかったっけ?それでもう紹介って、さすがに早いっすね」 足が止まる。でも、そのまま耳を澄ませた。彼女も、その答えを知りたいと思ったから。 「そりゃ必死で口説いたんだよ。やっとオーケーもらえたんだし、ちゃんとケジメつけなきゃって思ってさ」 「……でも希和さんは?お二人、随分前から関係を持ったし、子どもの頃から婚約してたんじゃ?」 「あんなの親同士の冗談だろ?真に受けるほうがどうかしてるって。 ていうか、体の関係なんてお互い様だろ?あいつだって楽しんでたし、別に俺だけが悪いわけじゃない」 その言葉のひとつひとつが刃となって、希和の胸をえぐる。心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなっていく。 一臣は、なおも続けた。 「正直、ひよりに出会う前なら、希和と結婚してもまあまあいいかなって思ったよ。でもさ、ひよりを見た瞬間に分かったんだ。俺には、この子しかいないって」 「おお、一臣さん、今回は本気なんだな」 軽口と笑い声が飛び交うなか、希和はそっと扉を押し開けた。 視線が一斉に彼女へと向けられ、周りが静まり返る。 「お待ちかねのヒロイン登場ですね!ほら、座って座って!一臣さん、めっちゃ待ってましたよ!」 誰かが茶化すように笑う。 「ふざけんなって」 軽く笑いながら、一臣はその友人の肩を軽く叩いた。 「ひよりが聞いたら誤解するだろ?もう二度と言うなよ」 周囲は、希和が怒り出すかと思って様子をうかがっていたが、彼女は無言のままやり取りを見つめていた。 一臣の隣に座るよう促されても、彼女はただ一瞥をくれ、冷たく言った。 「……私はここでいい」 少し離れた席を指さすと、一臣は苛立ったように命令した。 「……隣。来いって言ってんだ」 その低い声に、場の空気が張りつめる。誰も席を譲ろうとはしなかった。仕方なく、希和は一臣の隣に腰を下ろす。 ちょうどその時、個室のドアが再び開いた。 「ごめんなさい、遅くなっちゃって」 風が吹いただけでも倒れてしまいそうな、華奢な女の子が現れた。その目が一臣を見ると、一気に輝きを増す。 あの写真の子、綾瀬ひより(あやせ ひより)だ。希和はすぐにそう確信した。 「全然大丈夫。むしろいいところに来たよ」 一臣は彼女の手を取り、隣に座らせて温かい飲み物を渡す。 「一臣、この部屋ちょっと暑いから、冷たい飲み物が飲みたいな」 その声は可愛らしく、どこか甘えるような響きがあった。 「ダメ。生理中だろ?冷たいの飲んだらまたお腹痛くなるぞ」 「痛くなったら、またお腹さすってくれる?昨日みたいに」 ひよりは頬を染めながら、甘えるように言う。 希和は、手が震えないように膝の上でぎゅっと握りしめた。 かつて一臣は、自分にも同じように気を遣ってくれていた。夜通しお腹をさすってくれたり、会えない日でも生理予定日を覚えていて、カイロや温かい飲み物を用意してくれていた。 そうしてもらえる資格は、もう自分にはない。そう考えていると、希和の目に涙が浮かんできた。 ふと、ひよりが話しかけてくる。 「あなたが桐谷希和さんだよね?一臣から話は聞いてる。昨日、大雨の中迎えに来てくれたって……私、出ちゃダメって一臣に言われたから行けなかったけど、本当にありがとう。 今日からは友達ってことで、希和って呼んでもいい?」 希和は顔をこわばらせながら、頷いた。 「ありがとう!それより希和、なんか顔色悪いよ?大丈夫?温かい飲み物でもどう?」 そう言って湯飲みを差し出したあと、彼女はふと思い出したように首をかしげる。 「そういえばさ、希和ってほんとに一臣の友達なの?なんか子どもの頃、婚約してたって聞いたけど」 その無邪気な嫉妬が、一臣の気持ちをくすぐったのか、彼はすぐに答えた。 「そんなの、ただの冗談だよ。俺の心にはひよりしかいないって」 その目が、「余計なこと言うな」と希和に釘を刺す。 希和はぎこちなく答えた。 「……うん。ただの友達だよ」 次の瞬間、湯飲みが倒れ、熱い液体が希和の胸元に広がった。 しかし先に声を上げたのは、ひよりの方だった。 「手が痛い……ねぇ一臣、痕が残っちゃうかな」 一臣が立ち上がり、希和を押しのける。 「おい、なにやってんだよ!ひよりが気遣ってくれたのに!」 希和が言い訳する間もなく、彼はひよりを抱えるようにして個室を出ていった。 「大丈夫、すぐ病院行こう。絶対、痕なんて残させないから」 一臣が去った後、部屋は静まり返った。しかし他の人たちの視線が、針のように希和に突き刺さる。 火傷の痛みより、心のほうが何倍も痛かった。 一臣たちの姿が消えてから、ようやく誰かが気づいた。 ――希和の真っ赤になった鎖骨のあたりに、水ぶくれが浮かんでいる。 火傷がひどいのは、ひよりではなく希和の方だった。 不憫に思ったのか、一人が声をかけてくれた。 「希和さん、一臣さんもああ見えて、ただ焦ってただけだからさ……」 それでも、ひとり、またひとりと部屋を出ていく。彼らが向ける視線に、哀れみがにじんでいた。 そして、気づけば部屋には希和ひとり。静まり返った空間の中で、ようやく、こらえていた涙がぽろりと音を立ててこぼれ落ちた。 第3話 希和は一人で病院へ向かった。 到着すると、ちょうど廊下の向こうで、一臣がひよりの手に薬を塗っている姿が目に入った。その手つきは、驚くほど丁寧で、優しかった。 「一臣……私だけ連れてきちゃって、希和……怒ってないかな?」 ひよりが不安そうに尋ねると、一臣はあっさりと肩をすくめた。 「平気だよ。あいつ、子どもの頃から打たれ強いからさ。熱湯くらい、どうってことないって。昔なんか、ケンカで腕を折られたのに、泣きもせずにケロッとしてたんだぞ」 その話にひよりがくすっと笑うと、一臣も目元を和ませた。 「でも……お前は違う。もし痕でも残ったら……俺、耐えられないから」 階段の陰からその様子を見ていた希和の胸に、冷たい苦さがじわじわと広がっていく。 彼女は当時のことを思い返した。 不意打ちを受けた一臣を、真っ先に庇ったのは希和だった。 腕の骨を折っても泣かなかったわけじゃない。痛すぎて、声すら出なかったのだ。それから、もし声を出したら、一臣の気が逸れると思って、我慢した。 そんな彼女のそばに、一臣はずっとついていてくれた。あれがふたりの関係が近づいたきっかけだった。 あの頃は、痛いと言わなくても、一臣が希和を気にかけてくれていた。 けど今は違う。さっきあんな話ができるのは、彼の心にもう希和がいないからだ。 希和の肌は白くて、少し擦れただけでも痕が残る。そのことを、一臣は誰よりもよく知っていたし、彼女自身よりも早く痕に気づいてくれていた。 そして、その痕に気づくたびに、彼は今ひよりに注いでいるのと同じような優しさと心配を見せていた。 胸元にできた大きな水ぶくれが痛み、肌を刺すような感覚が希和の理性を削る。 ――誰にも見つからずに処置だけして帰ろう。 そう思っていたのに、ひよりに見つかってしまった。 「……希和?やっぱり来てたんだね。一臣が持ってきた薬、まだあるから貸してあげるよ」 足が止まりかけたが、傷を見られたくなくて、希和は顔を伏せたまま歩き続けた。 「ありがとう。でもいらない」 冷たく返すと、ひよりの声が少し沈んだ。 「……怒るのも無理ないよね。私が悪いんだから」 その瞬間、一臣の表情が険しくなり、希和の手首をつかんで壁際へ押しつけていた。 「ひよりが気を遣って薬貸そうとしてんだろ?なんなんだよ、その態度!」 ――もう限界だった。 食あたりで倒れ、大雨の中を二時間も歩いた後に熱を出し、今日は火傷して、さらに壁に押しつけられている。 内臓がずれるような不快感に耐えながら、希和は必死に一臣の腕を振りほどこうとした。 その拍子に、一臣の手が水ぶくれに触れ、皮膚が裂けた。 「いった……!一臣、離して!」 苦しげな声にようやく異変に気づいたのか、一臣は希和の胸元を見て、愕然とした。 鎖骨の下、皮膚は赤くただれ、水ぶくれは破けていた。目を背けたくなるほど痛々しい傷だった。 一臣の目が揺れ、そしてようやく希和の手を放した。 「……そんなにひどい火傷してたなんて……どうして言わなかったんだ?」 希和は、うっすらと笑って見せた。 「……何も言わせなかったのは、そっちでしょ」 サロンでも、さっきも、彼が口にしたのは責める言葉ばかり。少しでも彼の心が希和に向いていたら、この火傷に気づかないはずがなかった。 一臣が何か言いかけたそのとき、看護師が通りがかり、希和の火傷を見て驚いたように声を上げた。 「なにしてるんですか!これ、すぐ処置しないと炎症を起こしますよ。揉めてる場合じゃないでしょ!」 希和は一臣を振り返ることなく、そのまま処置室へ向かった。 処置が終わって廊下へ戻ってきた時には、一臣とひよりの姿はもうなかった。 けれど、不思議と心は沈まなかった。最初から、何も期待なんてしていなかったのだから。 両親に顔を合わせるのも気が重くて、希和は実家には帰らず、一臣とのマンションへ向かった。 そこは、一臣と交際を始めた頃に彼が購入し、ふたりが密かに会っていた場所。 狭い部屋だったが、彼との思い出が詰まっていた。 夜の営みにこだわりの強かった一臣のせいで、部屋の隅々にその痕跡が残っている。 希和はあたりを見渡し、海外に行く前にこのすべてを片付けようと決意した。 真っ暗な空を見て、希和はどうしても眠れず、いっそスマホを取り出して、出国後の計画を練り始める。 カウントダウンアプリを入れて、出発日までの日数をセットする。 計画を立て終えた頃、スマホが鳴った。親友の大西瑠璃(おおにし るり)からだった。 「希和ちゃんが海外に行くって佳奈(かな)たちにも話したから、出発前にみんなで集まろうって。ちょうど誕生日も近いし、お祝いも兼ねてさ」 「うん、いいよ。私も渡したいものがあるし……たぶん、しばらくは帰ってこないと思うから」 そう言った瞬間、玄関のドアが突然開いた。 電話を片手に話す希和の前に、一臣が現れた。 険しい顔をして、低い声で問いかけてくる。 「……帰ってこないって、どういう意味?」 第4話 「……一臣、なんでここに?」 希和は少し間を置いてから、彼の問いには答えずに逆にそう聞いた。 ――この時間なら、ひよりのそばにいるはずだ。 質問をはぐらかされた一臣は、特に追及することもなく、黙ってウォークインクローゼットに入っていった。 しばらくして、彼が何かを手にして戻ってきた。 それは例のドレスと、それに合わせたアクセサリーだった。 それらを見た瞬間、希和は目を見開いた。 一ヶ月ほど前、酔った一臣が彼女を抱き寄せながら、一枚一枚スケッチを描いていた。計るふりをして身体をなぞる手つきが妙に楽しげで、彼の言葉には照れ隠しのような甘さがあった。 「じいさんの誕生日パーティーのとき、みんなの前で付き合ってるって正式に報告したいんだ」 そう言われて、希和は密かに喜んでいた。一臣がやっと、自分のことを家族に紹介してくれるのだと思ったから。 仕立て上がったドレスは数日後、このマンションに届けられた。 そして今、そのドレスが一臣の手の中にある。 頭で理解するより先に、体が反応していた。希和は咄嗟にドレス裾をつかみ、指先がかすかに震える。 「……これ、どこに持っていくの?」 ドレスの生地をぎゅっと握ったせいで、布に皺が寄った。その瞬間、一臣の顔が曇る。 「離せ」 驚いた希和の表情を見て、彼はふっと鼻で笑った。 「まさか、これがお前のために作ったドレスだと思ってたのか?」 ――違うの? 反射的にそう思った自分に気づいて、希和は内心で慌てて打ち消した。 たしかに、このドレスを一度だけ試着したことはある。けれど微妙にサイズが合わず、それ以来、希和はダイエットを続けていた。 だが今になって、一臣は言った。これは最初から、彼女のためのものではなかったのだと。 胸の奥に沈んでいた痛みが、また激しく疼き出す。 「ここに届けさせたのは、ひよりがまだ俺の告白を受け入れてなかったからだ。そうでもなきゃ、このドレスも、世界で一番いいものも、全部最初から彼女に渡してたよ。 分かるか?この俺がデザインしたドレスにふさわしいのは、ひよりだけなんだ」 容赦ない彼の言葉を聞き、希和はなんとか気持ちを押さえ込んだが、心が悲しみに包まれていた。 かつて一臣は、彼女に同じようなことを言った。 「お前には、最高のものがふさわしい」って。 「落ち込むなよ。家族に紹介してないだけで、それ以外は全部お前に与えてきたつもりだ」 そう言って、一臣は部屋を見回し、眉をひそめた。 「……この部屋、ちゃんと片付けとけよ。ひよりに何かバレたら、容赦しないからな」 その言葉に、希和は小さく笑った。 「言われなくても、全部片付けるつもりだったよ」 その素直すぎる返事に、一臣はわずかに戸惑ったような顔をした。 けれど次の瞬間には、いつもの表情に戻って、何事もなかったように部屋を出ていった。 一臣の姿が完全に消えてから、希和は視線を戻した。 ひよりのために、一臣は今までのすべてを否定した。二人の過去も、記憶も、痕跡さえも。 でも、それならそれでいい。 希和は、大きな段ボール箱を引き出し、黙々と荷物を詰めはじめた。 壁に飾られていた二人の写真、記念日に贈り合ったプレゼント、旅行先で買った雑貨、そして散らかっていた大人のおもちゃまで…… どれも、ふたりの時間が詰まったものだった。 それらすべてを詰め込み、一人で重い箱を引きずって階下のごみ置き場へ運ぶ。 片付けが終わった頃には、時間はもう午前一時を過ぎていた。 すっかり物がなくなった部屋を見回しながら、希和は深く息を吐いた。 手放したのは、ただの「物」ではなく、一臣との記憶も、証も、すべてだった。 段ボールに荷物を詰め込むうちに、希和は気づいていた。 一臣という人間も、自分の心の中から少しずつ消えていたのだと。 第5話 翌日、一臣の祖父・昭二(しょうじ)の誕生日パーティーが盛大に開催された。 希和が会場に到着した時、一臣はひよりの手を取りながら、友人たち一人ひとりに彼女を紹介していた。 ひよりが身にまとっていたのは、昨夜のあのドレス。ダイエットなどせずとも、完璧に彼女の身体にフィットしていた。元の清楚な印象に、上品で華やかなオーラが加わったのだ。 一臣もまた、ドレスと同系色のタキシードを着ていた。まるでペアルックのように。 希和は思い返していた。一臣がペアルックをしてくれたのは、旅行のときくらいだった。 でも、ほんとうに好きな相手ができると、人は変わるのかもしれない。誰に言われなくても、自分から相手に安心を与えようとするのだ。 希和は一臣の祖父への誕生日祝いを手渡すと、両親の後ろに隠れるようにして、静かにその場に立っていた。 それでも、親同士の会話から逃れることはできなかった。 一臣の母・静江(しずえ)が、希和の手を取ってしみじみと言った。 「一臣に恋人ができたって聞いて、本当にびっくりしたのよ。てっきり、あんたがうちの嫁になると思ってたから…… 子どもの頃に婚約の話もあったでしょ?あの子、何でも勝手に決めちゃうから……本当、希和さんには悪いことをしたね」 まるで世間話のような口調で、静江は遠慮もなく話を続ける。 その言葉に、ひよりの表情がわずかに曇り、一臣は苛立ったように顔をしかめた。 「母さん、ひよりの前でそんなこと言うなよ。俺と希和はただの幼なじみだ。そんな約束なんか、最初からないだろ」 自分との関わりを断ち切ろうとする一臣を見た希和は、口元を引き締める。 ――ここまで彼が否定するなら、私ももう未練なんて持たなくていい。 そう決めた瞬間、希和は穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。 「一臣の言う通りです。私たちはただの幼なじみ。変な誤解を生まないように、この話は今回限りにしましょう」 その一言に、一臣はほっと胸を撫でおろす。 静江も「そうね、私が悪かったわ」と笑って、その話を終わらせた。 パーティーの途中、希和は胸の奥にどこか引っかかる感覚を覚えて、一人で庭へ出た。 まさか、そこへひよりが後を追ってきたとは思わなかった。 目が合った瞬間、希和は息を呑んだ。 たった一日で、ひよりはまるで別人のように変わっていた。 完璧なメイクに高級ドレスをまとい、あの可憐で素朴な野花のような彼女が、今や上流の令嬢のような気配を纏っていた。 ひよりは笑顔のまま、刃のように鋭い言葉を放つ。 「希和、一臣の友達から聞いたの……一臣が私と付き合う前、あなたがずっと彼のセフレだったんだって?」 一瞬にして、希和の目が大きく見開かれた。 「ねえ、もしあなたのご両親がそれを知ったら……恥ずかしくて外も歩けなくなるんじゃない?」 その瞬間、希和の視線は鋭さを帯び、怒りで全身が震え始めた。 一臣に過去を否定されるなら、自分は静かに身を引こう。今後は会うつもりもない。 それなのに、この女は、どうしてわざわざ傷口に塩を塗るの? 感情が爆発しそうになった希和は、思わず手をあげた。 だがその瞬間、ひよりは自ら尻もちをつき、希和の手は彼女の頬をかすめただけだった。 ビリッ―― ドレスの布が裂ける音と同時に、ひよりは地面に伏して泣き始める。 「希和、あなたがどれだけ一臣を好きでも、彼はもう私の彼氏なの。あなたの欲しいものなら何でもあげる。でも、一臣は物じゃない……だから譲れないの」 希和は、あまりに芝居がかったその姿に困惑し、眉をひそめた。 呆れと怒りが交錯するなか、希和がひよりに手を差し伸べようとした、その時―― 「お前、正気か!」 いつの間にか庭に現れていた一臣の怒声と同時に、希和の手首が乱暴に掴まれた。 まるで骨が砕けそうなほどの力だった。 そのまま手を振り払われ、希和の身体は庭の小道へと突き飛ばされる。 膝が地面に擦れ、激しい痛みとともに血が滲み始めた。 一臣はひよりの身体をそっと抱き起こしながら、彼女の頬についたわずかなかすり傷を指差した。 「希和、ひよりに謝れ!」 「断る。私は何も悪くないから」 胸元の火傷、膝の擦り傷、手のひらの切り傷。あちこちがズキズキと痛んでいる。 けれど、希和の目は濁ることなく、ただまっすぐに一臣を見つめ返した。 その鋭さに一瞬たじろいだ一臣だったが、ひよりが涙を流しながら口を開く。 「一臣……希和の言うとおりなの。私なんかがいなければ、きっとあなたたちはうまくいってた……ごめんなさい……」 一臣は焦ったようにかぶりを振る。 「違う、違うんだ、そんなこと言うな、ひより!俺が好きなのはお前だけだ!」 そう言いながら、一臣は振り返ると、怒りに任せて希和の頬を打った。 パチン―― 乾いた音が、広い庭に響き渡る。 「こんなことをしても謝らないなんて、これはお前への罰だ」 希和は目を見開いたまま、ゆっくりと顔を上げて一臣を見つめた。 しばらく経ち、彼女の口元に力のない苦笑が浮かんだ。そして、一臣がひよりを抱えて去っていくその背中を、黙って見送る。 ぽつり、ぽつりと、貯めていた涙がようやく落ちてきた。 第6話 あれから一週間。一臣から希和に連絡が来ることはなかった。 希和はひとりでマンションに戻り、静かに荷物を片付けていた。 大きな家電と家具を除けば、部屋にはもう何も残っていない。 このマンションは一臣名義で、彼が購入したものだった。 すべてを片付けたあと、希和はリビングのテーブルに鍵を置き、ドアを静かに閉めて立ち去った。 もう二度と、この小さな部屋で彼と過ごした、あの荒唐無稽な三年間を知る人はいない。 実家に戻った翌日、一臣が姿を現した。 その日は週末。文陽と秀子は家にいたが、張り詰めた空気にすぐ何かを察したらしい。 希和にきちんと話し合ってもらおうと思い、夫婦はリビングを出ようとしたが、その前に、文陽が穏やかに言った。 「小さい頃から一緒だったんだ。ちゃんと話せば、分かり合えるはずだろ。くだらないケンカはやめておきなさい」 二人きりになったとたん、希和は冷え切った声で口を開いた。 「……何の用?」 その一言で、一臣の中にくすぶっていた怒りが一気に爆発した。 彼は立ち上がり、勢いよく希和を押し返した。その手が、偶然にも彼女の胸の火傷に触れた。 薬こそ塗っているが、まだ完治していない傷に強い衝撃が走り、裂けるような痛みが全身を突き抜けた。 だが一臣は、彼女がまだ傷を抱えていることなど、全く思い出さなかった様子だった。 「何の用って?お前が勝手に一週間も連絡絶ったくせに、俺が来てやったらその態度か? ひよりが優しいからさ、昔からの縁を壊さないでって言うからこうして来たんだ。じゃなきゃ顔も見たくないよ」 彼の話を聞き、希和の堪忍袋の緒がついに切れた。火傷の痛みに頭が真っ白になり、思わず彼を突き飛ばす。 「一臣。あなたにはもう彼女がいるんでしょ?ならもう私に関わらないで。私は忙しいの。あなたたちの暇つぶしになんて付き合ってられないのよ!」 「は?お前なんか、忙しいわけないだろ」一臣は眉をひそめ、あからさまに不満を滲ませた。 「……何をしてようが、もうあなたには関係ないでしょ」 「もうすぐ海外に行く」という事実を言いそうになったが、ギリギリのところで我慢した。 一臣はお構いなしに彼女の手首を乱暴に掴み、無理やり引っ張ろうとした。 「いいから来いよ。今日は一緒に山登り行くぞ。 ひよりがさ、この間の件はもういいって言ってくれたんだ。今日、お前がちゃんと謝れば、水に流してやる」 その名前を聞いた瞬間、希和の中の怒りが爆発し、一臣の手を振り解いた。 「どうして私がひよりに謝らなきゃいけないの? 彼女の機嫌を取りたいなら勝手にすればいい。でも私を巻き込まないで!私はあなたたちの関係を良くするための道具じゃない!」 一臣は、希和がここまで取り乱す姿を初めて見た。言葉を失い、一瞬だけ目を見開く。 ちょうどそのとき、騒ぎを聞きつけた文陽と秀子も慌ててリビングへ戻ってきた。ふたりの間に割って入り、どうにか場を収めようとする。 一臣もさすがに彼らには遠慮があるらしく、無理強いはやめた。 「おじさん、おばさん……希和とちょっと誤解があって。だから今日は気分転換に山でも行こうと思ったんです」 秀子は、一臣と希和を交互に見つめ、そっと娘の手を取った。 「希和、誤解があるなら今のうちにちゃんと話しておきましょ?じゃないと後悔することになるかもしれないよ。これからは、一臣と会う機会も減るんだし……」 その言葉に、一臣は怪訝そうに顔を上げた。 「……会う機会が減るって?どういうことですか?」 秀子は一臣を見て、静かに言った。 「まだ希和から聞いてないの?この子、もうすぐ……」 第7話 「この子、もうすぐ……」 海外に行くことがバレる直前、希和が慌てて母を止めた。 「……山、行かないなら早く帰って」 話題を逸らされた一臣は、希和の手を引いて玄関へ向かう。 「行くに決まってんだろ」 彼の背中に、秀子が心配そうに声をかけた。 「一臣くん、希和の火傷はまだ治ってないから、無理させないでね」 「安心して、おばさん。俺と一緒に出かけて、何かあったことなんて一度もないですから」 ふたりが玄関から出て行くと、秀子と文陽は顔を見合わせ、深いため息をついた。 「希和が海外に行くって決めたの、やっぱり一臣くんが彼女を作ったからかもしれないわね」 「まあ、恋愛なんてのはどっちか一方が頑張ってもだめだからな。離れてみりゃ、見えることもあるだろ。希和には、きっともっといい人が現れるよ」 その頃。 家を出るなり、一臣は希和を車の後部座席に押し込んだ。 「助手席なんかに乗せたら、ひよりまたヤキモチ焼くからな」 希和は黙っていたが、視線は助手席の飾りに引き寄せられた。 そこには少女趣味全開な置き物が並べられていた。 一臣は、自分の車を極端に大事にする人間だ。希和にすら飾り付けを許さなかったのに、ひよりには、何をしても怒らないらしい。 こんな光景を見て、自分が落ち込むと希和が思っていたが、不思議なことに、その悲しさは心に浮かんだそばから、霧のようにすぐ消えていった。 一臣がふと思い出したように言った。 「さっき、おばさんが会う機会が減るって言ってたけど、あれ何のこと?」 希和は平然を装いながら、さらりと答える。 「会社の仕事を手伝うことになったから、忙しくなるの」 「ふーん」 一臣は何か言いたげだったが、そのときタイミングよくひよりから電話がかかってきた。 「どこにいるの?あと何分?」 甘ったるい声に気を取られ、希和の話はあっという間に忘れ去られた。 やがて、ひよりを拾った一臣の車は、山へと向かった。 この山は険しさで知られており、一臣が好む「スリル」を味わうため、希和も何度か連れて来られたことがある。 けれど今回、一臣とひよりが一緒に登っている姿を見て、希和は初めて気づいた。 一臣にも優しい一面があったと。 ふたりは手をつなぎ、顔を寄せ合いながらひそひそと話していた。まるでその仲の良さを希和に見せつけるために登山に来たように。 一歩うしろを黙ってついて行く希和は、完全に部外者だった。 途中で、ふと一つの石が希和の目に留まった。 昔、そこにこっそり名前を刻んだことがある。 「一臣」と「希和」。あの頃の恋心を形として残したかったのだ。 ひよりが突然足を止め、小さな花を指さした。 「あれ、ほしいな……」 「待ってろ。俺が摘んでくる」 そう言って一臣は、軽やかに駆け出した。 希和の視線は自然と石に戻っていたが、その動きをひよりは見逃さなかった。 数秒後、ひよりの目が石の文字に気づく。その顔が一瞬で凍りついた。 「ねえ、希和……まさか、わざとここで立ち止まったの?一臣にあの石を見せるために? ……もしさ、私たちが同時に崖から落ちたら、一臣って、どっちを助けると思う?」 その言葉と同時に、希和はぞくりとするような悪意を感じた。 この間誕生日パーティーでの出来事が一気によみがえり、希和はとっさに身を引こうとしたが、間に合わなかった。 背中を強く押される。 次の瞬間、希和の身体が空中に浮き、そして転がり落ちていく。激しい衝撃が全身を駆け抜け、何箇所の傷もできてしまった。 希和の後を追うように、ひよりも転がり落ちた。 だが彼女は、要所をしっかりと庇って転がったらしく、服が乱れた程度でほとんど無傷だった。 二人の悲鳴を聞きつけて戻ってきた一臣だが、目にはひよりしか映っていなかった。血だらけで地面に倒れた希和は、わずか一メートルも離れていない場所にいたのに。 希和はようやく顔をあげると、一臣がひよりを抱きかかえ、その足を心配そうにさすっているのが見えた。 「……一臣……」 霞む意識のなか、かすれた声で彼を呼んだ。 その声に気づいたのか、一臣がふと振り返る。だが、彼の足が止まったのはほんの一瞬だけだった。 「先にひよりを病院に送る。お前はここで待ってろ」 風にかき消されるようなその言葉を最後に、一臣は再び背を向け、そのまま、希和の視界から消えた。 第8話 血がにじんで視界がぼやける中、希和は地面を這いながら、どこかへ飛ばされたスマホを手探りで探していた。 ようやく手に取ったその瞬間、空が怒りをぶつけるように雷を鳴らす。 すでに日は落ち、あたりは暗くなっていた。 一臣が戻ってくるなら、もうとっくに戻ってきてるはず。 だけど彼は、来なかった…… 雨と血が頬を伝い、スマホの画面すらよく見えない。 それでも希和は、かすかな感覚だけを頼りに、登録済みの緊急連絡先をタップした。 それは一臣の番号だった。だが何度かけても応答はない。 その事実に、希和は自分の惨めさを思い知らされる。二十年以上の付き合いがある自分よりも、出会って半年のひよりのほうが、彼にとっては大事だったのだ。 ふと、足元に鋭い痛みが走る。見ると、一匹の蛇が彼女の身体の脇をすばやく通り過ぎていった。 絶望が冷水のように胸の奥から込み上げる。涙が止まらなかった。 意識を失う直前、希和は最後の力を振り絞って別の相手に電話をかけ、自分の現在地を伝えた。 目を覚ましたとき、最初に感じたのは消毒液のツンとした匂いだった。 ぼんやりと目を開けると、ベッドのそばには目を真っ赤にした秀子が座っていた。 彼女の表情に、ぱっと光が差す。 「希和……!やっと目が覚めたのね。お医者さまが、もう少しで植物状態になるって……! 一臣くんと一緒に登山に行ったんじゃなかったの?どうしてあなただけこんなひどい怪我を? 失血がひどかったし、毒蛇にも噛まれてたのよ!あと一歩遅れてたら……!」 希和は天井を見つめたまま、何も言わなかった。 命が助かったことに安堵がいっぱいで、一臣への愛も憎しみも、もう何も残っていなかった。 母の言葉を聞き流しながら、かすれた声で問いかける。 「……父さん、母さん。私、どれくらい寝てたの?」 秀子が涙を拭きながら答える。 「もうすぐ一週間になるわよ」 「一週間……ってことは、私のフライト、明日?」 その言葉に、秀子の目からまた涙がこぼれ落ちた。 「こんな身体で、まだ海外に行こうっていうの?」 けれど、希和の目に迷いはなかった。 「……父さん、母さん。もう、ここにはいたくないの」 涙をこぼしながらも、その声はまっすぐだった。その決意に、文陽も秀子も何も言えなくなる。 そのとき、一臣の両親――健一郎(けんいちろう)と静江が見舞い品を持って病室を訪れた。 ふと耳に入った会話に、静江が驚いて声を上げる。 「えっ、希和さん……海外に行くの?」 娘が一臣と出かける途中に大怪我を負ったと知っている以上、秀子の口調にはどうしてもとげが混じる。 「ええ。半月も前から決まってたことなんです。でも、最後の一週間がこんなことになるなんて……」 健一郎と静江の表情に罪悪感が浮かぶ。 「……それは一臣が悪いね。今すぐ電話させて謝らせるよ」 そう言って静江はその場で電話をかけ、スピーカーモードにした。希和が止めようと思ったが、間に合わなかった。 「一臣?希和さん、やっと目を覚ましたのよ。今すぐひよりさんと一緒に謝りに来て」 話はまだ途中だったのに、スピーカーから一臣の不機嫌な声が聞こえた。 「ふざけるなよ。あいつがひよりを突き落としたんだ。ひよりが黙ってるだけでもありがたいのに、謝れって何様だよ」 病室にいた全員が、その言葉に凍りついた。 喉に込み上げる血の味を感じながら、希和は掠れた声で言った。 「私は……やってないことを認める気はない。一臣、今まで、あなたを信じてた自分が馬鹿だった!」 重苦しい沈黙の中、静江が怒りをあらわにして叫んだ。 「一臣!理由はどうであれ、希和さんは命に関わる怪我をしてるのよ!今日中に謝りに来なさい!明日には彼女が……」 「は?謝る必要なんかないだろ。たとえ故意じゃなかったにしても、足を滑らせてひよりを巻き込んだのは事実なんだ。 ひよりが気にしてないんだから、いつまでこの話引っ張ってんだよ。 あ、そうそう。明日、俺とひよりの婚約パーティーなんだ。目が覚めたなら、ちゃんと来るように伝えといて」 電話が切れると、健一郎と静江は気まずそうに病室をあとにした。 その後、秀子と文陽から知らされたのは、希和が意識を失っている間に、一臣がひよりにプロポーズしていたという事実だった。 結婚自体は久我家の両親が反対しているため、まずは婚約という形で、明日パーティーを執り行うという。 それを聞いた希和は、もう何も感じられなかった。あの雨の夜、命の危機の中で、未練などはすべて消えていったのだ。 明日は彼女が新たな旅に出る日だ。 その夜、希和は退院し、自宅で荷物をまとめた。 文陽と秀子は心配げに付き添い、現地に着いたら迎えがいることを伝えた。 翌日。 正午前、文陽と秀子に見送られながら、希和は空港へと向かった。 搭乗口へ進む直前まで、秀子は何度も心配そうに言葉をかけてくる。 だが、アナウンスが流れると、希和は真っ直ぐに歩き出した。 ――その頃。 一臣は、自ら仕切った婚約パーティーの会場にいた。開始時刻が近づいても、希和の姿はどこにも見えない。 昨夜の電話を思い出し、彼女がまだひよりに謝らせようとしているのだと、苛立ちが胸にこみ上げる。 スマホを取り出し、短いメッセージを打つ。 【希和。俺、今日婚約するんだけど?まだ来ないのか?】 送っても、既読にならない。 しびれを切らし、電話をかける。 だが、通話ボタンを押しても繋がらなかった。 ――ブロックされたに違いない。 「……チッ!」 一臣は目の前の花かごを蹴飛ばし、低くうなる。 そのとき、友人の真司(しんじ)が近づいてきた。 「一臣さん、どうしたんですか?ひよりさんもうすぐ出てきますよ。そろそろ壇上に……」 一臣は歯を食いしばる。「お前、希和に連絡取れないか?あいつ、俺の連絡先全部ブロックしやがった!来たら絶対ぶん殴ってやる!」 その言葉に、真司は驚いたように目を丸くする。 「えっ……希和さん、今日の便で海外行きましたよ?知らなかったんですか?」 「……は?」