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過ぎ去った愛情はやんだ雨の如き
婚約式の最中、三浦征一郎は幼馴染・安田春奈が鬱で自殺を図ったと聞き、私を一人置き去りにして飛び出していった。 去り際に、彼は氷のような...
Chương (1)
第1章
婚約式の最中、三浦征一郎は幼馴染・安田春奈が鬱で自殺を図ったと聞き、私を一人置き去りにして飛び出していった。
去り際に、彼は氷のような目で言い放った。
「これはお前が春奈にした借りだ。お前が安田家に来なければ、春奈は孤立することも、鬱病になることもなかったんだ」
でも、征一郎は知らない。鬱なのは春奈ではなく、私、雨宮亜希子だということを。
彼が去った後、春奈から勝ち誇ったような動画が送られてきた。征一郎と彼の友人たちが、バーで酒を飲んでいる映像だった。
春奈は彼の胸に寄りかかりながら言う。
「征一郎さん、こんな風に騙して、婚約式に一人ぼっちにさせて、亜希子は怒らないかな?」
「まさか。亜希子がどれだけ征一郎にベタ惚れか、知らない奴はいないだろ。征一郎が指を鳴らせば、すぐにおとなしく戻ってくるって」
「でも、征一郎。婚約式から逃げたんなら、いっそこのまま本当のことにして、春奈ちゃんを嫁にもらっちゃえよ!」
第1話
婚約式の最中、三浦征一郎(みうら せいいちろう)は幼馴染・安田春奈(やすだ はるな)が鬱で自殺を図ったと聞き、私を一人置き去りにして飛び出していった。
去り際に、彼は氷のような目で言い放った。
「これはお前が春奈にした借りだ。お前が安田家に来なければ、春奈は孤立することも、鬱病になることもなかったんだ」
でも、征一郎は知らない。鬱なのは春奈ではなく、私、雨宮亜希子(あめみや あきこ)だということを。
彼が去った後、春奈から勝ち誇ったような動画が送られてきた。征一郎と彼の友人たちが、バーで酒を飲んでいる映像だった。
春奈は彼の胸に寄りかかりながら言う。
「征一郎さん、こんな風に騙して、婚約式に一人ぼっちにさせて、亜希子は怒らないかな?」
「まさか。亜希子がどれだけ征一郎にベタ惚れか、知らない奴はいないだろ。征一郎が指を鳴らせば、すぐにおとなしく戻ってくるって」
「でも、征一郎。婚約式から逃げたんなら、いっそこのまま本当のことにして、春奈ちゃんを嫁にもらっちゃえよ!」
征一郎は眉をひそめた。
「馬鹿を言うな。亜希子は家族がいないんだ。行くあてもない。少しおとなしくなれば、約束通り結婚してやるさ」
「……」
涙で視界が滲み、胸が張り裂けそうで息もできない。
長年征一郎を愛してきたけれど、そろそろ目を覚ますべきだ。
私はあの秘密の電話番号にダイヤルした。
「黒崎さん、結婚の件、お受けします。代わりに、汐見市から連れ出してください」
電話の向こうで少しの掠れた男性の声が沈黙の後、低く響いた。
「わかった。一ヶ月後に帰国する。籍を入れよう」
他の人と結婚すると決めたからには、誤解を生まないように、征一郎の家に置いてある私物は早く回収した方がいい。
自分のものをすべて荷造りし、スーツケースを引いて階下へ降りる。
すると、まさか征一郎たちがもう帰ってきた。入院しているはずの春奈が、彼の胸に寄りかかっていた。
「春奈が酔っている。酔い覚ましのお茶を淹れてやれ」
私は彼らを見ないように、必死に自分を抑えた。
どうせ、これから誰と付き合おうと、私にはもう関係ない。
私が無反応なのを見て、征一郎の視線は次第に冷たくなり、ふと、私が引いているスーツケースに気づいた。
「また何をごねてるんだ?婚約式を欠席しただけだろ。結婚しないとは言っていない。そこまでする必要あるか?」
「ごねてなんかない。征一郎、あなたとの婚約を解消し…」
「荷物を元に戻せ。何もなかったことにしてやる。これ以上騒ぐなら、結婚は取りやめるぞ!」
私は静かに頷いた。結婚の取りやめ、それこそが私の望みだ。
征一郎は私が屈服したと勘違いし、いつものように傲慢な態度で命令した。
「さっさと酔い覚ましのお茶を淹れてこい」
「征一郎、私はこの家の家政婦じゃない」
彼は鼻で笑った。
「じゃあ、毎日お茶を出して、洗濯や料理をしてたのは何だ?家政婦じゃないなら何だ?ただの都合のいい女かよ?」
周りの人間がどっと笑った。
「十年も尽くしてきたくせに、今さら家政婦じゃないとか?わかってるよ、もうすぐ三浦の嫁になるんだろ」
「そうそう、三浦の嫁。正式にその座に就く前に、俺たちの春奈お嬢様のために酔い覚ましのスープを作ってくれないか」
私は深く息を吸った。強烈な屈辱感で全身が冷たくなる。
征一郎と彼の友人たちの目には、私は呼べばすぐ来る都合のいい女なのだ。
でも、もうそんな女でいるのはやめた!
ちょうどその時、春奈が目を覚ました。甘えた声でからかった。
「亜希子にそんなこと言わないで。家に帰って鬱になっちゃったらどうするの」
「馬鹿言え。あいつの鬱病がフリだって知らない奴はいないだろ。全部春奈の真似してるだけだ。でも、いくら真似したって、征一郎はあいつを愛さない!」
再び周りから笑い声が響く。
もう耐えられない。私は背を向けてその場を去った。
背後から、征一郎の自信に満ちた声が聞こえた。
「賭けるよ。亜希子の強情は二日も持たない。明日には泣きながら結婚してくれって頼みに戻ってくるさ」
私は一瞬足を止め、心の中で静かに呟いた。
――今回は、一生賭けるよ。
安田家に帰宅後、征一郎の祖父・三浦義男(みうら よしお)から電話があった。
「亜希子ちゃん、あの馬鹿ものがしでかしたことは聞いたよ。あいつに謝罪させる!もっと盛大な結婚式をやり直そう!」
「おじいさま、もういいんです。私、征一郎との婚約を解消したいんです」
話を聞いた途端、征一郎の祖父は戸惑っていた。
「意地を張るんじゃない。亜希子ちゃんが征一郎を想う気持ちはわしが一番よく見ている。あんなに愛しているのに、一時的な意地で結婚を取りやめるなんて、後で後悔するぞ」
「おじいさま、征一郎は私を愛していません。無理やり挙げた結婚式に意味なんてありません」
三浦おじいさまは普段から私にとても良くしてくれた。遠くに嫁いだらもう会えなくなるかもしれないと思うと、思わず笑顔を作って冗談を言った。
「万が一、彼が式当日に逃げ出したら、今よりもっと惨めじゃないですか。今、婚約を解消した方が、お互いの面子を保てるかもしれません」
三浦おじいさまは何かを察したように笑った。
「事情はわかった。安心しろ、外の女たちは、わしがきちんと整理させるから!」
私が返事をする間もなく、電話は一方的に切られた。
苦笑いを浮かべた。断ち切れるはずがないよ。
征一郎を十年愛してきた。彼も春奈を十年愛してきた。
誰もが私が征一郎をどれだけ愛しているかを知っている。彼自身でさえ、それを私の弱みだと思い込み、いじめてきた。
もしかしたら、この間違った関係は、とっくに終わらせるべきだった。
翌日、まだ眠っていると、征一郎からの電話で起こされた。
彼の声は怒りに満ちていた。
「亜希子!じいさんに俺の悪口を吹き込んだな?昨日はあんなに気高く振る舞っておいて、結局は助けを求めに行ったのか?お前と結婚しないのが怖いだけだろ!
言っておくが、俺と結婚したいなら、春奈を目の敵にするのはやめろ!
春奈はお前のせいで鬱になったんだ、もう十分に可哀想だろう!これ以上調子に乗るな。
お前が春奈にした借りは、一生かかっても返せないんだぞ!」
第2話
電話が切れた後、私はしばらく呆然としていた。
誰もが私が春奈をいじめたと思っている。真実は何であろうか、誰もが気にしていなかった。
両親が事故で亡くなった後、私は多額の賠償金を持って叔父・安田健一(やすだ けんいち)の家に引き取られた。居候の身だとわきまえ、叔母・安田美智子(やすだ みちこ)と春奈の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払いながら過ごしていた。
でも、どんなに頑張っても、その母娘は私を好きにはなってくれなかった。
叔父は、征一郎が私の許嫁で、彼が私を守ってくれると言った。
私はそれを信じ、一日中彼の後ろをついて回り、彼のカバンを持ち、宿題を手伝った。まるで征一郎の影のように。
しかし、私が征一郎と親しくすることが、春奈の怒りを買った。彼女は手首を切るフリをして自殺を図り、人々の同情を集めた。
征一郎でさえ、彼女の味方だった。
「学校ではお前が春奈を孤立させ、家では彼女の両親の愛情まで奪おうとしている。そんなに彼女が気に食わないのか?
一日中俺にまとわりついて、そんなに愛に飢えているのか?春奈が鬱になったのは、お前が原因だ」
そんな時、春奈はいつも、他の人には見えない角度で挑発的な視線を送ってきた。
学校で、私は誰にも必要とされない孤児で、安田家が親切心で私を拾ってくれたから、彼女の言うことを聞くべきだ、と皆に言いふらしたのは春奈の方なのに。
鬱病になった時、最初に気づいたのも春奈だった。
私の診断書を見て一瞬固まり、その後、涙が出るほど大笑いしたのを覚えている。
「亜希子、あんたこんなことで鬱になるなんて、本当に役立たずね。どうりで親に捨てられるわけだわ。マジで笑える!」
翌日、彼女は私の薬を盗んだ。
そして皆に、私が彼女を孤立させたせいで、自分が鬱病になったと告げた。
それ以来、征一郎は私が春奈に借りがあるのだと思い込むようになった。
征一郎が真実を知った時、どんな反応をするのだろう?
気分転換に、松井佳苗(まつい かなえ)を呼び出した。
佳苗は私のたった一人の親友で、私が遠くに嫁ぐことも彼女にだけ打ち明けていた。
「やったじゃない!亜希子、やっとあのクズ男から離れられるのね!」
佳苗は興奮して私を抱きしめ、泣きながら笑った。
「とっておきのお酒を全部持ってくるから、今日はとことん飲もう!」
「亜希子、やけ酒でも飲みに来たわけ?」
いつの間にか、春奈が私の背後に立っていた。彼女は勝ち誇ったような顔で、ふんぞり返っていた。
「そういう日々に早く慣れた方がいいわよ。だって、これからあんたが好きなものは、全部手に入れるんだから。征一郎さんもね。あんたじゃ、私には勝てないよ」
「どうしてそんなことをするの?」
「別に、面白いからだけ」
春奈の優しい顔が悪魔のような笑みを浮かべた。
「うちにあんなに長く住んでたんだから、家賃くらい払ってもらわないとね」
私は唇を噛んだ。
「父さんと母さんの賠償金、全部あなたたちに渡したわ」
借りなんてない。
突然、春奈の目がキラリと光り、横に倒れ込んだ。
「亜希子……わざと自殺未遂であなたの婚約式を台無しにしたわけじゃないの……もし怒ってるなら、もう二度と征一郎さんには連絡しないから。どうして私を押すの?」
「私……」
物音を聞きつけた征一郎が、勢いよく私を突き飛ばし、慌てて春奈の怪我を確かめた。
「亜希子っ!いい加減にしろって警告したはずだ。いますぐ、春奈に謝れ!」
「押してないわ」
征一郎の整った顔が、憎悪に歪んだ。
「この目で見たんだぞ、まだ言い逃れするつもりか!」
パシッ!
激しい平手打ちが、私の顔を横に向けさせた。
征一郎は信じられないといった様子で自分の手を見つめ、その瞳に一瞬の後悔がよぎった。
どれほど亜希子を嫌っていても、手を上げたことはなかった。今回はどうして……
彼はためらいがちに私を支えようとした。
「お前……大丈夫か?」
痛みと屈辱で全身が震える。私は征一郎の手を振り払い、ただこの場から逃げ出したかった。
「待て!」
焦った征一郎が私の手首を掴んだ。そこには、まだ完全に癒えていない傷跡があった。
半月前、鬱病が再発した時に、私が自分でつけてしまったものだ。
第3話
一度だけでもいいから、征一郎に一目会いたくて、頭を下げたこともあった。
でもその時、彼は春奈を抱きしめながら、キスをしていた。
征一郎は冷笑しながら、「もう春奈を真似するな。どんなに真似しても、彼女の髪一本にも及ばない」と吐き捨てた。
私は必死にその屈辱の傷を隠そうとした。
しかし、征一郎はすでにそれを見抜いていた。彼の目に一瞬の疑いが浮かんだ。
そして、すぐに怒りに満ちた表情に変わった。
「とっくに言ったはずだろう?手首に描いた傷を消せって!どういうつもりだ?春奈を皮肉っているのか?いつからそんなに性悪になったんだ?」
彼の冷たい詰問に、もう傷つかないと思っていたはずの心が再び痛んだ。
――征一郎、もうあなたを愛さないように、本当に頑張っているのに。
でも、愛には慣性があることを忘れていた。
「これは描いたものじゃない、これは――」
「亜希子っ!」
突然、春奈が前に出て私の手を引き寄せ、可哀そうに私を見つめた。
「私が鬱病だって分かってるのに、どうしてこんなひどいことをするの?」
「春奈に謝れ!」
他の人には見えない場所で、春奈の指が私の傷口を力いっぱい押さえつけていた。
鋭い痛みが走り、まだ癒えていない傷口から血が滲み出る。思わず力任せに振りほどいた。
「やめて!」
春奈の目に一瞬、見抜けないほどの勝ち誇った笑みが浮かんだ。
「亜希子、私を鬱にさせても、あなたを責めなかったのに。どうしてこんな風に扱うの?」
征一郎の怒りはさらに強まった。
「こんなに頑固なら、俺たちの結婚式も中止だ!」
「いいわ」
私は涙をこらえて適当に頷いた。
「征一郎、もうあなたとは結婚しない」
春奈は慎重に征一郎の腕に絡みついた。
「征一郎さん、ごめんなさい、全部私のせい。亜希子に謝りに行った方がいいかな?本当に意地を張って結婚しないなんてことになったら、どうしよう?」
征一郎は、私が去る方向を冷ややかに見つめていた。
「亜希子は少し前に、俺の気を引くために、お前の真似をして自殺までしたんだ。そんな女が、俺と結婚しないわけがないだろう?」
地面に落ちた数滴の赤い血が、征一郎の目を引いた。
そこは、亜希子がさっきまで立っていた場所のようだ。
彼女、怪我をしていたのか?
戻ってきた佳苗も地面の血痕に気づき、泣きそうな声で抱き合っている二人を非難した。
「あんたはね、何にも知らないくせに!どれだけあんたを愛していた人を失ったのよ!真実を知ったとき、後悔しないといいけどね!」
佳苗は私を病院に送ってくれた。私の手首の血まみれの傷を見て、心配そうに言った。
「これ、いつつけたの?」
私は苦笑しながら答えた。
「半月前、征一郎の誕生日パーティーで、私を一人置き去りにして、バーで春奈とキスしているのを見ちゃって……自分を抑えきれなかったの…」
それを聞いた佳苗はわんわんと泣き出した。
「征一郎って何様のつもりなの?あんなクズ男、結婚なんかしなくていいわ!」
突然、彼女は私の手を握りしめて聞いてきた。
「黒崎さんのことは知ってるの?こんなに早く結婚するなんて、また征一郎みたいな奴だったらどうするの」
私は少しぼんやりとしていた。
征一郎と春奈がキスしているのを見た後、私は失意のまま街を歩いていた時、車に撥ねられた。
その時、黒崎蓮司(くろざき れんじ)が突然現れ、私を受け止めてくれた。気を失う直前、彼の痛ましげな声が聞こえた。
「これはお前が言っていた『うまくいってる』ってことか?」
実は、意識を失っている間に、私はもう決心していた。征一郎と春奈を一緒にしてあげようと。
でも退院の日、征一郎が家の前で私を待ち伏せしてプロポーズしてきた。彼の瞳には誠実さと真剣さがあった。
私はまた、情けなく承諾してしまった。
もしかしたら、蓮司が何も言わずに去ってしまったのは、そのせいかもしれない。
私は少し後悔した。こんな私を、蓮司が嫌いになったのではないかと心配になった。
入院中の数日間、征一郎からひっきりなしにメッセージが届いた。
【おい、掃除に来い】
【俺のシャツ、どこに置いた?】
【さっさと戻ってこい!一時間以内に現れなかったら、もう二度と顔を見せるな!】
【春奈の鬱病の薬が切れた。買ってきてくれ】
【……】
私は一つも返信したくなかった。イライラして携帯を切ろうとしたその時、征一郎から一枚の写真が届いた。
【これ、どうする?取りに来ないなら、捨てるぞ】
それは、母の形見だった。
第4話
両親は事故で亡くなり、遺言一つ残す暇もなかった。残されたのは、ただ数冊の手描きの設計図だけ。それが、私に残された唯一の思い出の品だった。
もちろん、取り返さなければ。
征一郎との婚約解消も早くはっきりさせないと。もうこれ以上、彼に苦しめられたくはない。
だから、療養中に自分の持ち物を整理することにした。
征一郎がここ数年でくれたプレゼントは、すべて一つの箱に詰め、今度返すつもりだ。
手の中のうさぎのぬいぐるみを見て、思わず自嘲気味に笑った。
耳は歪んで縫い付けられ、口元は糸がほつれていて、その姿は滑稽で醜い。
でも、これを特別に大切にしていた。なぜなら、これが征一郎がくれた最初のプレゼントだったから。
彼が自分の小遣いで買ってくれた。
後になって知ったことだが、彼の小遣いで買えた正規品は一つだけで、それは春奈に贈られた。
そして、私がもらったこれは偽物だった。
でも、その時の私は全く気にせず、プレゼントをもらった喜びに浸り、宝物のように十年間、ベッドの脇に飾っていた。
他には香水のサンプル、これは征一郎がくれた十八歳の誕生日プレゼント。残念ながら、これも春奈へのプレゼントのおまけだった。
プレゼントの中で一番古いのは万年筆。それは征一郎が学生時代に使わなくなったもので、私はそれを大切に家にしまっていた。
これまでずっと、彼のすべてを注意深く集めてきた。
征一郎が私の救いだと、ずっと信じていた。
そして、最後に気づいた。今まで経験したすべての苦難は、彼がもたらしたものだった。
今、ようやく目を覚ました。
再び征一郎の家のドアを叩いた。
彼はまだ寝巻きの姿で、眠そうな顔をしている。私だとわかると、彼は軽く鼻で笑った。
「亜希子、度胸がついたな?今回は三日も我慢してから謝りに来たのか」
私は唇を噛みしめ、静かに言った。
「謝りに来たんじゃない」
彼は少し眉を上げた後、私が持っている箱に目を向けた。
「プレゼントまで用意して、まだ強がってるのか?亜希子、いつになったら春奈のように好かれるようになるんだ?」
征一郎は軽々とその箱を奪い取った。
開けた瞬間、中身の見慣れた品々に表情が一瞬硬直した。
「どういうつもりだ?」
「あなたからもらったものは全部返す。私が来たのは、この家に置いてあった本を取りに来ただけ。私にとって大事なものだから」
「亜希子、駆け引きもやりすぎるとつまらないぞ。いい加減にしろ。本当に婚約を解消すると思わないのか?」
私は冷静に征一郎を見つめながら言った。
「好きにして。征一郎、信じようと信じまいと、私はもう本当にあなたと結婚したくないの」
征一郎は面白そうに笑った。
「ふざけるな。この汐見市で、お前が十年も俺の追いかけだったことを知らない奴はいない。俺以外に、誰がお前を嫁に迎えるっていうんだ?」
目の前の、以前と何も変わらない顔を見ても、もう少女時代のときめきはなかった。それどころか、深い嫌悪感さえ覚える。どうしてこんな人を十年も好きだったんだろう?
今、ただ母の形見を持ってここを去りたいだけだ。
「どう思おうとあなたの勝手よ。私はただ、自分のものを取り返したいだけ」
彼を避けてスーツケースを探しに行こうとしたが、征一郎は何かを隠すように二階への入り口を塞いだ。
聞き覚えのある女性の声が聞こえた。
「征一郎さん、誰か来たの?」
春奈がタオルで髪を拭きながら、男性用のシャツを着て主寝室から出てきた。
それは、私が征一郎に贈ったものだった。
私がデザインし、手縫いしたシャツ。
今、彼はそれを他の女に着せている。
第5話
そのシャツはとても短く、太ももまでしか隠れていない。その格好は、普段は清純でおとなしい春奈を、より一層誘惑的に見せていた。
征一郎の表情に一瞬の動揺が浮かび、慌てて言い訳を始めた。
「昨日は遅くまで遊んで、雨も降っていたから、春奈を一人で帰らせるのが心配で、ここで泊めたんだ」
私は自嘲気味に笑った。見抜けなかった自分が馬鹿だった。
彼も昨夜、雨が降っていたことを知っていたんだ。そして、女の子が一人で帰るのは危険なことも。
ただ、私が彼の気遣う相手ではなかった、それだけのこと。
「そうよ、亜希子。私たち、何もなかったの」
春奈は軽く襟元を引っ張り、わざと私に首筋のキスマークを見せつけた。
その時、私の心は意外にも静かだった。ただ頷くだけ。
「私の本は?」
征一郎は数秒固まり、驚愕の表情で私を見つめた後、怒りに任せて私の肩を掴んだ。
「どういう意味だ?」
彼は不満そうに私の目を睨みつけ、問い詰めた。
「なぜ怒らない?なぜ前みたいに大騒ぎしないんだ?」
「あなたの望み通りじゃないの?」
彼はしばらく私の目を見つめ、ようやく納得したように言った。
「どうやら、婚約式の件で、お前も本当におとなしくなったようだな。
俺からのプレゼントは持って帰れ。もうごねるなよ。結婚式は予定通り行うから」
征一郎とこれ以上話す気も失せ、背を向けて自分の本を探しに行った。
しかし、それはバルコニーのゴミ箱の中に捨てられていた。昨夜の大雨で、もうすっかり濡れてボロボロになっていた。
母が残してくれた唯一のものなのに。こんな扱いをされるなんて。
「ごめんね、亜希子。誰もいらないゴミだと思って、捨てちゃったの」
春奈の口調は挑発に満ちていて、わざわざ「誰もいらないゴミ」という言葉を強調した。
その瞬間、私は我慢できず、怒りに目が赤くなった。あれは母が生前の心血を注いだものなのに!
私は彼女に飛びかかり、襟首を掴んで問い詰めた。
「どうして私のものを捨てるの?母が残してくれた唯一のものなのよ。私に聞きもしないで、どうして勝手に捨てられるの?」
春奈は怯えて叫んだ。
「征一郎さん、助けて!」
征一郎は強く私の腕を引っ張った。
「もういいだろ、やり過ぎだ。春奈はそれがお前の母さんの形見だと知らなかったんだ」
彼の力は強く、私は背後の鉄の柵に投げ飛ばされ、背中に激しい痛みが走った。
しかし、その痛みなど気にもせず、私は地面に跪いて散らばった本を一枚一枚拾い集めた。
征一郎が私を引き上げようとした。
「ただの古い本だろ、そんなに大騒ぎしなくても。
春奈は病気なんだぞ。お前のせいで、手首を切って自殺しようとしたのを忘れたのか?」
私は嫌悪感を抱き、征一郎の手を振り払って叫んだ。
「病人が退院したばかりで酒を飲んだり、他の男の家でシャワーを浴びて泊まったりできるの?征一郎、嘘をつくならもう少しましな嘘をつきなさいよ」
「亜希子!結局、婚約式のことに腹を立てているだけだろ!」
突然、婚約式の話題を持ち出され、征一郎は少し気まずそうだった。
「わかった、わかった。約束する。もっと盛大な結婚式で埋め合わせしてやるから、それでいいだろ?
でも、春奈を驚かせてしまったんだ。謝れ!」
「結婚式なんていらない。謝りもしないわ」
私はびしょ濡れの本を抱えてその場を去った。背中の傷口から血が滲んでいたが、痛みは全く感じなかった。ただ、腕の中の設計図を早く手当てしたい一心だった。
「……亜希子、強がって何になる?後で泣いて頼んでも遅いぞ!
おい!聞こえているのか!?」
征一郎が追いかけて玄関まで来たのを見て、春奈が突然、苦しげに懇願した。
「征一郎っ、すごく辛いの……きっと鬱が出ちゃったの……どうしよう?」
「大丈夫だ、俺がついてるから」
征一郎は追いかけてくる足をすぐに止め、振り返って春奈を地面から抱き上げた。まるで壊れやすい薔薇を扱うように、優しく抱きしめた。
第6話
征一郎の家を出た後、雨に濡れた設計図を見ながら、心はきゅっと締め付けられた。母が残してくれた最後のものも、守れないの?
全部私のせいだ。征一郎が私のものを大切にするはずがないと知っていたのに、彼の家に置いておいた私が馬鹿だった。
数日後、修復の専門家に連絡を取った。彼はしばらく眺めた後、復元の見込みはあると言い、半月後にまた取りに来るように言った。
ここ数日、胸に覆いかぶさっていた雲が、一気に晴れたような気がした。
あと半月で、汐見市を永遠に離れられると思うと、自然と足取りも軽くなる。
安田家に戻ると、春奈が友人たちを連れて私の寝室の前に立っていた。中を覗くと、私の持ち物がめちゃくちゃに荒らされているのが見えた。
「ごめんね、マルがどうしてもあなたの部屋に入りたがって、止められなかったの」
彼女はコーギーを抱きながら、つまらなそうに謝ってきたが、少しも反省の色はなかった。
でも、そんなことに構っている余裕はなかった。
彼女の友人の一人が、私の日記帳を手に取り、読み上げ始めた。
「六月七日。今日、征一郎が彼の上着で、私のズボンについた恥ずかしい染みを隠してくれた。彼の匂いはすごくいい香りで、ドキドキが止まらなかった!」
「今日、征一郎がまた春奈と話してた……寂しい……私だけのものになればいいのに」
「七月二十三日。征一郎は私の婚約者。いつか彼と結婚するんだって思うと、すごく幸せな気持ちになる」
「征一郎が今日、私と話してくれなかった。心が張り裂けそうに辛い」
「……」
必死に隠してきた少女の恋心が、こんな風に悪意を持って人前に晒されるなんて。しかも、征一郎を諦めようとしている、まさにこの時に。
「やめて!お願いだから、もう読まないで!」
私は泣き叫んだけど、みんなの笑い声にかき消された。
誰一人、私の気持ちなんて気にしてくれない。
「亜希子、気持ち悪くない?そんなこと日記に書いてるとか」
「つまり、とっくの昔から三浦さんを狙ってたんだな!」
「三浦さんが春奈に優しすぎるのが気に入らないんでしょ?嫉妬ってやつ?」
耳を塞いでも、彼らの声は悪魔の呪文のように鼓膜を攻撃し、痛みは胸の奥まで広がっていく。
逃げ場もなく、まるで全裸でさらし者にされているような羞恥と痛み。
「もういいだろう、やめてやれ」
征一郎が優しい笑みを浮かべ、私を腕の中に抱き寄せた。大きな手が、震える私の手をそっと撫でる。
「亜希子、照れてるのか?
今まで知らなかったよ。そんなに俺のこと、好きだったんだな?」
「征一郎、プレゼント買わなくても、亜希子は喜んで嫁に来るって言っただろ」
周りから再び笑い声に包まれた。
私は必死で征一郎の腕から逃れようとしたが、逃がしてくれなかった。
「ほら、亜希子。お前が好きだったやつだろう」
無理やり彼の手の中のギフトボックスに目を向けさせられた。
なんと、ピンクのパールネックレスだった。
私は呆然とそれを見つめた。誕生日の時に、こんなネックレスが欲しかった。でも残念ながら、私が好きなものは、決まって春奈に奪われる運命なのだ。
あの時、ネックレスは一本しか残っていなかったが、征一郎はそれを春奈に贈った。今、彼の手に持っているこれは……どこで買ってきたのか知らない。
私が呆然と見ているのに気づき、征一郎は満足そうに微笑んだ。
「最初からおとなしくして、春奈にいちいち逆らわなければ、俺たちの結婚式はとっくに済んでたのにな」
第7話
突然、胸の奥に燃えるような怒りが込み上げてきた。
また「おとなしくしろ」って!
安田家に来てから、私はずっと春奈に譲ってきた。それでも彼には足りなかったらしい。勝手に婚約式から逃げるという自作自演で私を罰した。
今度は、友人たちが私の日記を勝手に見てプライバシーを侵害するのを許している。
ただ、若い頃に間違った人を愛してしまったというだけで、私の真心はこんな風に踏みにじられなければならないの?
「どいて!征一郎、あなたとは結婚しない!あなたが大嫌い!」
私は狂ったように彼を叩いた。征一郎は痛みに耐えきれず私を手放した。
「何怒ってんだよ?俺が大嫌い?目が見えないとでも思ってるのか?お前の日記にはしっかり書いてあったぞ!あれ、全部嘘だったのか?」
私は日記帳を奪い取り、震える手でそれを引き裂こうとした。若き日の恋心もろとも、引き裂いてしまいたかった。
でも、その日記帳はとても分厚く、指を切ってしまったのに、びくともしない。
征一郎は再びそれを奪い取り、私がつけた折り目を丁寧になでつけた。
「お前は本当に狂ったんだな!」
春奈がタイミングよく前に出て、私を指差して言った。
「亜希子、ただの冗談じゃない。そこまできれることはないでしょ?私だって鬱病だけど、あなたみたいに冗談が通じないわけじゃないわ」
その言葉を聞いた瞬間、私はふと冷静になった。
征一郎に何を言っても無駄だ。どうせ彼は永遠に春奈の味方なのだから。
「征一郎、私はもうあなたを愛していないし、結婚したくもないだけ」
征一郎は鼻で笑った。
「あと半月で結婚式だぞ。最後には泣きながら迎えに来てくれって頼むなよ!」
彼らが去った後、春奈は得意げな表情を見せた。
「言ったでしょ。あなたが好きなものは、全部手に入れるって。あなたが一番大事にしてる征一郎も、あの結婚式もね」
「じゃあ、せいぜい頑張ってね」
私は背を向けて二階へ上がった。
征一郎の連絡先をすべてブロックした。
数日後、征一郎は空っぽのメッセージ画面を見て、ひどく苛立っていた。
亜希子から一通もメッセージが来ない。随分と強気になったものだ。
もしかして、あの日の冗談はやりすぎたか?
でも、亜希子が自分のことを好きってことは、周囲でも有名な話。そこまで気にする必要はないだろう?
征一郎は思わずメッセージを送った。
【結婚式、和式と洋式、どっちがいい?】
メッセージを送ってから、なかなか返信がない。征一郎はしばらく待ってみたが、試しにスタンプを送ってみた。
【アイテムが使用できないため、プレゼントを受け取れません。他の友達を選択してください】
表示された文字を見て、征一郎は一分間、固まっていた。
――亜希子に、ブロックされた?
「まったく、ふざけんなよ!
調子に乗りやがって……ちょっと痛い目見せてやるか!」
友人たちのグループチャットを開き、事情を説明して知恵を借りることにした。
【じゃあさ、迎えの日は行かなければいいんだよ。焦らしてやれば、絶対あいつ後悔して泣き出すって!二度と逆らえなくなるから】
【そうそう、代わりに俺たちが行ってさ、しっかりお灸据えてやろうぜ!もう二度と征一郎に逆らえないようにな!】
【よし、決まりだな】
スマホを閉じた征一郎は、すっかり上機嫌になっていた。もう、結婚式の日が楽しみで仕方なかった。
ウェディングドレスに身を包んで、期待に胸を膨らませてる亜希子が、迎えに来たのが自分じゃないって知ったら――
きっと、驚いて固まっちゃうに違いない。