冬川にただよう月の影

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冬川にただよう月の影

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彼氏のひと言がきっかけだった。 白川紗良(しらかわ さら)は仏ノ峰山の九百九十九段ある石段に膝をついて一段一段祈るように登り、彼のため...

Chương (1)

第1章

彼氏のひと言がきっかけだった。 白川紗良(しらかわ さら)は仏ノ峰山の九百九十九段ある石段に膝をついて一段一段祈るように登り、彼のためにあらゆる災厄を祓うという御守りを手に入れた。 その後、石段で膝を擦りむき、血を流しながらも気に留めることなく、御守りを握りしめたまま夜通し病院へと戻った。 しかし病室に入る前、彼女の耳に飛び込んできたのは中から聞こえてくる大きな笑い声だった。 「さすがだよ、蓮司さん。御守りが災いを祓ってくれるって、ただの冗談で言ったのに、あのバカな紗良、本気で跪いて祈りに行ったんだってな!」 「その様子、最初から最後までドローンでばっちり撮ってあるんだぜ。ったく、紗良のあの健気な背中、ちょっと感動しちまったよ。これ、親を騙すのに使えんじゃね?」 病室の中で、ベッドにもたれていた朝倉蓮司(あさくら れんじ)がすぐに上体を起こし、スマホを手に取ってじっくりと映像を見始めた。深い眼差しで瞬きすらしない。 動画からは額が石段にぶつかる音と、しとしとと降る雨音が聞こえてくる。 その音に紗良の両脚は自分の意思とは関係なく震え始めた。 彼女は荒く呼吸しながら、信じられないものを見るように病室の扉の隙間から中の人々を凝視した。 第1話 彼氏のひと言がきっかけだった。 白川紗良(しらかわ さら)は仏ノ峰山の九百九十九段ある石段に膝をついて一段一段祈るように登り、彼のためにあらゆる災厄を祓うという御守りを手に入れた。 その後、石段で膝を擦りむき、血を流しながらも気に留めることなく、御守りを握りしめたまま夜通し病院へと戻った。 しかし病室に入る前、彼女の耳に飛び込んできたのは中から聞こえてくる大きな笑い声だった。 「さすがだよ、蓮司さん。御守りが災いを祓ってくれるって、ただの冗談で言ったのに、あのバカな紗良、本気で跪いて祈りに行ったんだってな!」 「その様子、最初から最後までドローンでばっちり撮ってあるんだぜ。ったく、紗良のあの健気な背中、ちょっと感動しちまったよ。これ、親を騙すのに使えんじゃね?」 病室の中で、ベッドにもたれていた朝倉蓮司(あさくら れんじ)がすぐに上体を起こし、スマホを手に取ってじっくりと映像を見始めた。深い眼差しで瞬きすらしない。 動画からは額が石段にぶつかる音と、しとしとと降る雨音が聞こえてくる。 その音に紗良の両脚は自分の意思とは関係なく震え始めた。 彼女は荒く呼吸しながら、信じられないものを見るように病室の扉の隙間から中の人々を凝視した。 「安心してよ、蓮司さん、映ってるのは全部後ろ姿だけ。バレてないって。これで動画、もう九十六本目だし、すぐに揃うよ」 「だよな。でも蓮司さんとこの家のしきたり、ちょっと厳しすぎじゃね? 未来のお嫁さんは旦那のために九十九回犠牲にならないと、家系図に名前入れてもらえないとか。遥香さんにそんなことさせたくないから、後ろ姿がそっくりな紗良を代わりに使ってるってわけ。動画が九十九本揃ったら、あとは遥香さんが出れば完璧」 「はあ……でもさ、よく考えたら紗良も可哀想だよな。こないだ蓮司さんが『会社の新薬の臨床試験に協力者がいない』って言ったら、自分の体使って試そうとして、アレルギー反応で入院したんだってさ。その前も蓮司さんが路上で誰かと揉めたとき、彼の名誉が傷つくのを心配して代わりに拘留されてたじゃん。あれ、本気で蓮司さんのこと愛してるんだよ。なのに……蓮司さんの心には、もう別の人がいるんだよな」 動画が再生し終わると、蓮司はスマホを持ち主にポイッと投げ返し、ひとことだけ言った。 「悪くないね、よく撮れてる」 その後さっきまで紗良のことを庇っていた人物に冷ややかな視線を向けて言い放った。 「可哀想? 誰が? あいつなんて遥香と後ろ姿が同じじゃなければ、この俺と付き合うチャンスすらなかった。すべて終わったら、それなりの報酬は渡すつもりだし。損はしてないよ」 その言葉に込められた見下した様子を、紗良は扉の外からはっきりと聞き取ってしまった。 雷に打たれたような衝撃とともにその場に立ち尽くし、胸の奥から込み上げる言葉にならない痛みに身を震わせた。 彼女が命のように大切にしてきた恋は、すべて嘘だったのだ。 蓮司が紗良を選んだのは、ただ、心に残るあの人の苦しみを代わりに負わせるためだった。 彼女を、自分たちの結婚への踏み台にするために。 「なあ、蓮司さん。そろそろ紗良が御守り持って戻ってくる頃じゃね? ちょっと様子見てくるわ」 そう言うと同時に病室の中から足音が近づいてきた。 紗良は気づかれまいと、力の入らない足を無理やり動かしその場を離れて階段の影に身を隠した。 急いで身を潜めた拍子に擦り剥けた膝が再び裂け、血がにじみ出て服を染めた。 だがその痛みでさえ、胸の中に広がる絶望には到底及ばなかった。 蓮司の言葉がまだ頭の中で渦を巻いていた。 彼にとって、自分と付き合えることは、まるで「最高の恩恵」でも与えるかのようなことだったのか。 紗良の鼻の奥に、つんとした痛みが込み上げる。 彼のことを想い続けて、もう随分と経っていた。 大学三年のとき、暴走するトラックから助け出されたあの日からずっと—— それ以前から、彼の名は北都の名門朝倉家の一人息子として学内でも有名だった。 しかし初めて彼を目の当たりにしたときの衝撃は噂以上のものだった。 完璧な家柄と容姿を持ち、数多の女子に憧れられながらも誰に対しても冷淡で距離を置くその態度。 あのときもそうだった。紗良を助けた蓮司は、彼女を支え終えるとすぐに手を放し冷たい声で言った。 「今後は、道を歩くときはもっと注意してください」 そのときの紗良はすっかり怯えてしまっていて、どもりながら謝ったあと、すぐにその場を離れた。 でもふと振り返ったとき、誰かが自分の後ろ姿をずっと見つめていたような気がしてならなかった。 それ以来学校で蓮司とよく顔を合わせるようになった。 コンビニだったり、体育館だったり、思いがけない場所でばったり会うことが増えた。 やがて彼も学生自治会に入り、紗良の所属する部署に配属された。 自然と会話することも増え、仕事でのやりとりもあった。 顔を合わせるたびに紗良の気持ちは少しずつ隠せなくなっていった。 あの日、二人でイベント準備に追われ、夜遅くまで学生会室に残っていたときのこと。 突然、停電が起きた。 真っ暗闇の中、紗良の体が誰かにぎゅっと抱きしめられた。 その直後、耳元に低く甘い声が囁く。「先輩、俺のこと好きなんでしょ?」 「好きならさ、もうちょっとアピールでもしたら?もしかしたら、俺の彼女になれるかもよ?」 その一言で、鼓動が爆発しそうなほど高鳴った。 理性が吹き飛びそうになって、彼女は意を決して……暗闇の中、彼にキスをした。 それが、二人の恋愛の始まりだった。 けれど、彼には一つだけ条件があった。 「絶対にバレないようにしてくれ」 家が厳しくて成功するまでは恋愛禁止だと言われている。 そう聞いて、紗良は素直にうなずいた。 それからというもの、蓮司のまわりではなぜかいつも小さなトラブルが起きて、紗良が後始末をするようになった。 最初は夜遅くにお弁当を届けたり、プールに落としたネックレスを拾ったりする程度だった。 でもそのうち、彼の代わりに新薬の試験に参加したり、拘置所に入ったりするようになった。 そして今では大雨の中で九百九十九段の石段に跪き、彼のために御守りを手に入れようとしていたのだ。 それでも紗良は一度たりとも文句を言わなかった。 蓮司はまるで天の高みで輝く月のような存在だったから。 何かひとつでも彼の役に立てればその月に少しだけ近づけるような気がした。 だがたった今、やっと知った真実は、紗良の頬を見えない手で叩きつけたかのようだった。 理解した瞬間紗良の体に冷たい寒気が走る。 彼女は裕福な家庭に育ち、幼い頃から両親に大切にされてきた、まさに“箱入り娘”だった。 それなのに、蓮司のためだけに家族の元を離れて遠く離れた北都に残り、全てを差し出してきたのだ。 しかしその犠牲は全部他人の幸せを支えるためのものだった。 今になって冷静に思い返せば、あの時の「救出劇」も、朝倉蓮司が彼女の背中を遥香と見間違えたからに違いない。 そのとき、不意にスマートフォンの着信音が鳴り響いて紗良の胸中に渦巻く思考を遮った。 画面に表示されたのは遥か南原に暮らす母の名前だった。 「紗良、あなたがどうしても戻らないって言うから……お父さんと一緒に北都に引っ越すことにしたわ」 遠く離れて暮らす両親が彼女のために譲歩し、合わせようとしてくれている。 その思いに触れた瞬間紗良の胸がぎゅっと締めつけられた。 「いいの、ママ。もう決めたから」 「お見合い、受けるよ。家に帰って、これからはずっとパパとママのそばにいる」 第2話 「紗良、あんなに北都に残るって言ってたのに、どうしたの、急に帰るって?何かあったの?」 紗良はもう説明する気力も残っていなかった。 目元の涙を拭いながら、しっかりした声で答えた。 「……ううん、何でもない。ただ、家に帰りたくなっただけ」 「そう……なら早く戻っておいで。みんなで待ってるから。お見合いのことも無理にとは言わないし、帰ってきたら一度会ってみて、気が合えば考えればいい」 そのあと、母はしばらく色んなことを心配そうに話し続けてようやく名残惜しそうに電話を切った。 紗良は涙を拭き、階段の踊り場から出た。 けれど、数歩進んだところで蓮司の友人たちと鉢合わせになった。 「紗良さん! やっと戻ってきた! 早く行ってあげてよ、蓮司さん、紗良さんのこと心配で眠れなかったんだから……」 紗良は何も言わず、静かに蓮司の病室へと向かった。 扉を開けると、ベッドに腰掛けていた蓮司が彼女に気づき安堵したように微笑んだ。 その周りには彼の仲間たちが揃っていて、みんな口を揃えて「紗良さん、こんばんは」と丁寧に挨拶してきた。 もしも、あのやり取りを耳にしていなかったら―― 紗良は彼らにこんな一面があるなんて、思いもしなかっただろう。 「紗良、お守り……本当にありがとう。大変だったでしょ」 蓮司がそう言いかけたとき、ふと紗良のズボンについた血に目を留めた。 次の瞬間、彼はベッドから飛び出すように立ち上がり紗良のそばへ駆け寄ると、そのまま彼女を抱きかかえてベッドに座らせた。 慌てて袖をまくりながら、じっと膝に目をやる。 「どうしてこんな怪我を……! 誰か、急いで医者を呼んでこい!」 仲間たちは一斉に走り出し、夜勤中の医者を呼びに向かった。 蓮司は紗良の傷口を、まるで触れたら壊れてしまいそうなように慎重に見つめていた。 ほんの少しでも触れれば、彼女が痛がるんじゃないかと、そんなふうに気を遣っているようだった。 だが―― 紗良の心の中には、冷めた笑いしか残っていなかった。 蓮司……これ、全部あんたのせいでしょ? 今さら取り繕ってどうするの。 まさか、自分でも信じかけてるんじゃないの? あたかも、何も知らなかったみたいに。 医者が紗良の膝に薬を塗っている間、蓮司がふと話しかけてきた。 話題をそらそうとしているのが見え見えだった。 「さっき、君が戻ってくる前に電話したんだ。でも通話中になってて。誰かと話してたの?」 紗良は少し目を伏せて、ゆっくりと首を振った。 そしてわざとらしくこう答えた。 「お母さん。結婚はいつするのって、催促されちゃって」 その一言で、病室の空気が一気に静まり返った。 仲間たちは顔を見合わせ、何も言わず気まずそうに目をそらした。 蓮司も少し黙ったあと、困ったように笑みを浮かべて言った。 「それは……君も知ってるだろ、紗良。俺、仕事が軌道に乗るまでは恋愛も結婚もダメだって家の方針でさ。もう少しだけ待っててほしい。新しいプロジェクトが終わったら、そのとき改めてうちの家族に紹介するから」 言葉の一つひとつは丁寧で、真剣にしか聞こえなかった。 けれど、紗良にはわかっていた。 彼が自分を家族に紹介しようとしない、本当の理由は—— 自分が、“本命”じゃないからだ。 誰かの“代わり”にすぎないから。 それが明るみに出れば、あの九十九本の動画も、全部「別の人がやったこと」だなんて、もう言い訳できなくなるから。 それに蓮司の心の中では、二人の未来なんて最初からなかったのだ。 医者が紗良の膝に包帯を巻き終えると、蓮司は数日間の入院を強く勧めてきた。 足の状態をちゃんと見ておきたいから、と。 しかし今回病院に空きがなく、個室も満室だった。 だから蓮司は自分のベッドを紗良に使わせ、自分はソファで寝ることにした。 紗良はそれを黙って受け入れた。 夜が更け、蓮司が深く眠ったころ。 紗良はそっと彼のそばに近づき、机の上に置かれたスマホを手に取った。 蓮司は紗良に対して一切の警戒心を持っていなかった。 彼女が自分の機嫌を損ねるようなことを、絶対にしないと思っていたからだ。 だからロックも解除せず、簡単にスマホは開いた。 紗良はラインを開き、固定ピンで上に表示されていた相手を見た。 そこには「橘遥香(たちばな はるか)」と名前がつけられた女の子がいた。 ……やっぱり、この人なんだ。 続いて、紗良はスマホの中に「ロックされたフォルダ」を見つけた。 アルバムのタイトルには、こう書かれていた。 「できるだけ早く遥香を嫁に(96/99)」 そして、そこにはちょうど96本の動画が保存されていた。 中身までは見られなかったが、紗良にはもう分かっていた。 この三年間、自分が愛のために犠牲にしてきたすべてが…… 蓮司にとっては、ただ感情も何もない進捗バーだったのだ。 第3話 紗良が退院したその日、蓮司はお祝いの食事会を準備していた。 この三年間、彼はいつもそうだった。 紗良が何か一つ彼のためにやるたびに、数日後には必ず少しだけ優しくしてくれる。 それで彼女の気持ちを繋ぎとめて、甘い言葉で満たし、次のお願いも迷わず引き受けさせる。 そうやって、彼女は何度も何度も全力で尽くしてきた。 けれど今はもうすべて空っぽに感じるだけだった。 「もういい。お祝いなんて行きたくない。みんなで勝手にやって」 紗良は家に帰って荷物をまとめなきゃいけなかった。 飛行機のチケットも取らなきゃいけないし、蓮司のそばから離れる準備で頭がいっぱいだった。 そんな紗良の様子に、ようやく蓮司も違和感を覚えたのか彼女の額に手を伸ばした。 「どうしたの?体調でも悪いの?前はいつも喜んでたじゃないか」 紗良は一歩下がって、その手を避けた。 返事をしようとしたそのとき。 どこか甘ったるい、女の子の声が耳に届いた。 「蓮司、何してるの?」 声の方を見ると、紗良と体型のよく似た、美しい女の子が歩いてくるところだった。 蓮司は遥香を見た瞬間、すぐに手を引っ込めて大股で彼女の方へ歩いてきた。 「車で待ってろって言ったよな。風が強いんだから」 そう言いながら、自分の上着を脱いで遥香にふわりとかけた。 その横で女の子が黙ってそれを受け入れ、紗良の方を見て軽く手を振った。 「あなたが白川紗良さんよね? はじめまして。私、橘遥香。蓮司の幼なじみなの」 そう言いながら、遥香は紗良を頭からつま先まで、さりげなく見渡した。 紗良の体が、思わずこわばる。 この人が、蓮司が“必ず妻にする”と決めた相手。 自分が代わりに受けた苦しみのすべてを、彼女は知っているのだろうか。 そのとき、冷たい風が吹き抜けてきて、蓮司はすぐに遥香を抱き寄せた。 そしてもう片方の手で紗良の腕を引き、そのまま車に乗り込んだ。 車の中、前の座席では蓮司と遥香が楽しそうに話し続けていた。 後部座席の紗良は、まるで部外者のようにぽつんと座っていた。 二人の会話から、紗良は初めて知った。 遥香は昔、蓮司と付き合ってすぐに海外へ行ったらしい。 そして、今ようやく帰国したばかりだということ。 今日の祝賀ディナーも遥香の好きなレストランで、彼女の好物ばかりが用意されていた。 個室の丸テーブルには、すでに蓮司の仲間たちが座っていて、二人が来るのを待っていた。 遥香が姿を現すと、すぐに周りが盛り上がり始めた。 「遥香さん、海外行ってる間、オレたちSNSでしか話してなかったけど、ちゃんと顔覚えてる?」 「いやー、なんか前より綺麗になってない?」 「そりゃそうだよ。綺麗じゃなきゃ、蓮司さんがここまでゾッコンになるわけないって!」 皆が声を上げて笑い合い、場の空気は一気に華やいでいった。 だがすぐに、皆は自分たちが何を口にしたのかに気づき慌てて笑顔を引っ込めた。 そして、紗良の方を気まずそうにちらちらと見始めた。 遥香が小さく咳払いをして、紗良のところへ歩み寄り自分の隣に座らせた。 「ごめんね、紗良さん。私と蓮司、昔からの幼なじみで、みんなよくからかってくるの。気にしないでね」 紗良は力なく笑った。 「うん、気にしてないよ」 代わりの存在にすぎない自分に、気にする権利なんてない。 「それならよかった」 遥香は何かを思い出したように、蓮司の方に顔を向けた。 「そういえば、翔吾から聞いたんだけど。紗良さんとすっごく仲がいいって。こないだ病気のとき、紗良さんが蓮司のために仏ノ峰山を登って、九百九十九段も跪いて御守りをもらってきたって。本当?」 紗良の気持ちを気遣ってか、蓮司は小さくうなずいた。 「うん。御守りが百の災いを祓ってくれるって言ったら、その日のうちに行ってくれた」 遥香は大げさに驚いたような声を出した。 「そんなにすごいの? 私も欲しいなあ」 蓮司はにこやかに笑い、優しい声で答えた。 「欲しいなら、俺のをあげるよ」 そう言うと、すぐにスマホを取り出して誰かに電話をかけ、自宅にある御守りを持ってこさせた。 まもなくノックの音がして、使いの者が御守りを届けに来た。 蓮司はそれを受け取って、そのまま遥香に手渡した。 そのとき、来たばかりの人物が蓮司の耳元で何かをささやいた。 蓮司の表情がわずかに変わり、眉間にしわが寄っていく。 そして自然と視線が紗良の方へ向いた。 数秒ほど考え込んだあと、彼は静かにうなずいた。 「わかった。先に戻っていいよ」 使いの者が退出したあと、蓮司は紗良の手を取り、そのまま立ち上がった。 「紗良、隣の席にお客さんが来ててさ、ちょっとだけ顔出してくれない?」 第4話 紗良は行きたくなかったが、返事をする前に遥香が立ち上がった。 「私も一緒に行ってみようかな」 だが蓮司はすぐに彼女を座らせ、きっぱりと言った。 「お前は余計なことしなくていい。ここでちゃんとご飯食べてて。すぐ戻るから」 そう言って、紗良を連れて店の奥の個室まで歩いていった。 ドアを開けると、中にはなんと外国人の客ばかりが座っていた。 その光景に、蓮司でさえ一瞬言葉を失った。 けれど、すぐに表情を整えて、紗良を中に招き入れると流暢なフランス語で会話を始めた。 そのあと、蓮司はグラスいっぱいに注がれた酒を紗良に渡し、自分のグラスも手に取って乾杯を交わした。 仕方なく、紗良もそれに従い酒を口にした。 そうして何杯も飲まされるうちに、紗良の意識はだんだんと朦朧としてきた。 頭がぐるぐるしてきて、気がつけば見知らぬ外国人たちが次々と彼女に酒を手渡してくる。 彼らの言葉はまったく理解できず、ただ強引に飲ませようとしていた。 紗良は必死にあたりを見回したが、蓮司の姿はどこにもなかった。 「もう飲めません、出してください。帰りたい……」 紗良は英語で訴えながらふらふらと立ち上がった。 けれど、扉に手をかけたその瞬間、誰かに髪をつかまれ、強く引き戻された。 酔った外国人たちは、紗良のスカートに手を伸ばそうとし、まるで遠慮のかけらもなかった。 「やめて! 触らないで!」 紗良は思わず悲鳴を上げ、近くの酒瓶をつかんで振りかざした。 「近づかないで、出て行って!」 だが彼らにはその言葉は通じず、逆に面白がったようにさらに近づいてきた。 このままでは危ない——そう悟った紗良は、最後の手段に出る。 彼女は歯を食いしばり、その酒瓶を自分の頭に思い切り叩きつけた。 「ガンッ!」という鈍い音が響き渡り、数人の外国人たちは顔を引きつらせた。 紗良の視界が真っ暗になり、意識が薄れていく中、天井の監視カメラが赤く点滅しているのが見えた気がした。 目を覚ました紗良は、自分が自宅の寝室のベッドに寝かされていることに気づいた。 ズキズキと頭が痛み、頭にはしっかりと包帯が巻かれている。 そのとき、ドアの外から何人かがひそひそと話す声が聞こえてきた。 紗良は力の入らない体を支えながら、そっとドアの方へ近づいた。 リビングでは、蓮司が苛立った様子で怒鳴っていて、数人の仲間が縮こまりながら立っていた。 「蓮司さん、今回も紗良が接待に付き合ってくれて、これでまた一つ動画が撮れました。顔も映ってないですし、残りはあと二つですよ。なんで怒ってるんですか?」 蓮司はテーブルをバンと叩き、怒鳴った。 「お前らが連れてきたあの外国人どもは何なんだ! 手加減も知らずに、あやうく取り返しのつかないことになるところだっただろ!」 その中の一人が口を開いた。 「でもだからこそ、リアルな効果が出たんですよ。蓮司さんも、お父さんとお母さんにあの99本の動画を見せて、納得させようとしてるんでしょ? それで早く遥香さんと結婚できるように」 「……蓮司さん、まさかとは思うけど……紗良のこと、好きになったんじゃないですよね?」 「黙れ!」 蓮司は腰に手を当てながら、苛立たしげにリビングをぐるぐると歩き回り、眉をひそめて答えた。 「ただ今回はやりすぎたと思っただけだ。今後あいつが協力しなくなったらどうするんだ。あともう少しなんだから、無駄なことはするなよ」 「それならよかったです。じゃあ……次の撮影はいつにします? あと2本で達成ですよ、楽しみすぎる!」 蓮司は唇をきゅっと引き結び、しばらく黙って考えていたが、やがて低い声で答えた。 「しばらくは、紗良の気持ちを落ち着かせるのが先だ。撮影の件は、少し待て」 その会話を聞いていた紗良の頭には、ただ重たい鈍い音が響き続けていた。 もうこれ以上は何も聞きたくなかった。 蓮司もその仲間たちも恐ろしすぎる——。 体を震わせながらベッドに戻った紗良は、布団を頭からかぶり自分をぎゅっと包み込んだ。 第5話 ここ数日、蓮司はこれまで通り紗良に優しくしようと必死だった。 オークションで高価なジュエリーを競り落とし、何でもない日に盛大な花火を打ち上げ、次々とサプライズを仕掛けてくる。 それでも紗良の気持ちは一向に晴れなかった。 そんなある日、紗良が寝室を出るとリビングには蓮司と遥香が並んで座っていた。 遥香は笑顔で立ち上がり、紗良の腕を取ろうとしたがさっとかわされてしまう。 少し困ったように笑いながら言った。 「紗良さん、前のことがトラウマになってるんじゃないかって……でも安心して。私、あなたに何かするつもりなんてないよ」 「今日は私の誕生日パーティーなの。蓮司から、最近あなた元気ないって聞いてて……少しでも気晴らしになればと思って、ぜひ来てほしくて」 蓮司も後ろから声をかけた。 「行こうよ紗良。遥香だって、わざわざ迎えに来てくれたんだ」 「それに、最近の君、ちょっと様子がおかしいよ。ずっと航空券を調べてたり、荷物も整理してたし……引っ越すつもりなのか?」 その言葉に紗良の心臓がドクンと跳ねた。 まさか……気づいた? 蓮司は、あと2本の動画を撮らせるまでは紗良を引き止めるつもりだ。 もし今、逃げようとしていることがバレたら、北都で影響力のある蓮司の力をもってすれば、自分が簡単に逃げ出せないことぐらい想像がつく。 紗良はぎゅっと唇を噛み、そして答えた。 「考えすぎだよ。ちょうど私も気分転換したいと思ってたし……行こう」 少なくとも今日は、遥香の誕生日。 蓮司が彼女をどれほど大切にしているかを思えば、さすがに今日は何か仕掛けてくることはないはずだ。 遥香はにっこり笑い意味深にウインクした。 「よかった、実は今日のパーティーで大事なことを発表しようと思ってて、紗良さんにもぜひ聞いてもらいたいの」 そうして紗良は車に乗せられ、豪華なバースデーパーティーの会場へと連れて行かれた。 会場には遥香の大好きなピンクのバラが一面に飾られ、ふわっと甘い香りが漂っていた。プロの楽団による演奏もあり、どこを見ても完璧に仕上げられている。 遥香は慣れた様子でさらりと言った。 「この会場も、全部蓮司が準備してくれたの。たかが誕生日なのに、こんなに盛大にしちゃってさ。紗良さんの誕生日なんて、もっとすごかったんじゃない?」 紗良は目を伏せ、静かに笑うだけだった。 誕生日なんて、この三年間、自分の誕生日は水の中にネックレスを探しに飛び込んだり、吹雪の中で朝ごはんを買いに走ったりする日だった。 蓮司は、彼女の誕生日を大切にすることよりも、どれだけ自分のために無茶をしてくれるかを記録することに必死だった。 そうすれば、早く家訓を果たして、遥香を迎えることができるからだ。 紗良の表情が冷め切っているのを見て、遥香も面白くなさそうに別の仲間たちとお酒を飲みに行ってしまった。 蓮司は紗良のそばにいるものの、目線はずっと遥香に釘付けになっていた。 誰かと少しでも触れ合おうものなら、眉をひそめ、手に持ったグラスを無意識に強く握りしめていた。 やがて会場が賑わいを増し、全員が集まったタイミングで遥香がマイクを手にした。 「今日は来てくれて本当にありがとう。それと、パーティーの準備をしてくれた親友の蓮司にも感謝します」 親友という言葉に、遥香は少しだけ力を込めた。 その視線が挑発的に紗良の方へ向けられる。 「そしてもうひとつ、大事なお知らせがあります。私……結婚することになりました!」 第6話 会場のあちこちからざわめきが上がり、蓮司の仲間たちは皆、戸惑った表情を浮かべた。 そして当の蓮司は、完全に固まったまま、手が震え、グラスの酒が服にこぼれても気づかないほどだった。 遥香は右手を上げ、中指に輝くダイヤの指輪を見せながら話し始めた。 「婚約者がプロポーズしてくれたの。両親も気に入ってくれてて、もうすぐ結婚する予定なの。優しくて、本当に素敵な人よ。みんな祝福してくれるよね……?」 紗良の隣にいた蓮司から、鋭い冷気のような気配が伝わってくるのを感じた。 その直後、彼は我慢の限界に達し、舞台へ駆け上がると、遥香の手からマイクを奪い、強引に彼女を引きずり下ろした。 その瞬間、会場は静まり返った。 事情を知る一部の人々は、冷やかしの目で紗良に向けられた。 「ちょっと、トイレに行ってくる」 紗良はすぐさまその場を離れた。 少し歩いた先で、角の方から激しい口論が聞こえてきた。 怒りを含んだ、聞き覚えのある声――蓮司だった。 「説明しろよ。誰の許可で結婚なんてしてるんだ? その指輪、誰にもらったんだよ。遥香、お前俺をなんだと思ってる?」 遥香は落ち着いた口調で返した。 「それ、こっちのセリフでしょ。三年前、あなたが『家訓をクリアするために代役を立てる』って言ったから、私は信じて海外に行った。でもあなたはまだその子と一緒にいる。三年経ってるのに、まだ終わってないの?」 蓮司は焦って言い返した。 「違う、99本の動画を撮るのは簡単じゃないんだ。今やっと97本。もう少しだけ時間をくれれば、すぐに両親に紹介するから! 遥香、他の男と結婚なんてやめてくれ」 遥香が腕を振り払うと、指から指輪を外して蓮司に投げつけた。 「本当のことを言うとね、この指輪、偽物よ。プロポーズなんてされてない。ただ、あんたの本音を引き出すためにやっただけ。でももう待ちたくない。はっきり答えて、私はあとどれだけ待てばいいの?」 蓮司は拳をぎゅっと握りしめたまま、最後まで答えを出せなかった。 ゴールは目前のはずだったのに。 けれど、99本の動画を撮り終えたら紗良を切り捨てる――その現実を考えると、胸の奥に重くのしかかるものがあった。 紗良はこれまで、蓮司の前ではいつも遠慮がちで、決して目の前の彼女のように強気な態度を取ることはなかった。 長年そばにいた紗良を、蓮司も少しは哀れに思っているのかもしれない。 だからこそ、計画が終わったら何かしらの形で補償してやろうと思っているのだろう。 だが、自分が将来娶る相手はやはり橘遥香なのだと彼の中では決まっていた。 そう考えながら、蓮司は低い声で言った。 「計画を早めるよ、君と結婚する……」 その言葉を聞いて、遥香はようやく笑顔を取り戻し、甘えるように彼の頬にキスをした。 その様子を目の前で見ていた紗良は、すでに顔面蒼白で体も震えていた。 前回、外国人たちに無理やり酒を飲まされたあの恐怖の記憶が今でも鮮明に蘇る。 残りの二回がどれほど恐ろしいものになるのか、想像するだけで震えが止まらない。 紗良の頭の中は真っ白になり、足元もおぼつかないままその場を逃げ出すと自宅へと駆け戻った。 一時間ほど経った頃、蓮司から電話がかかってきた。 「今どこにいる?」 紗良はとっさに嘘をついた。 「体調が悪くて先に帰ったの。ちょっと熱っぽいから……数日は会わない方がいいと思う。うつしちゃうかもしれないし」 電話の向こうで、一瞬沈黙が流れた。 紗良はそのまま電話を切り、すぐに部屋のドアに鍵をかけた。 翌朝、紗良は会社に出向き退職手続きを済ませた。 段ボール一箱に詰めた荷物を抱え、北都を今夜のうちに離れようと決意してビルを出る。 すると、思いがけず会社のビルの前に蓮司が立っていた。 車のドアにもたれかかりながら、微笑を浮かべて紗良を見つめていた。 その瞬間、紗良の手が震え持っていた段ボールが倒れて中身がばらまかれてしまう。 蓮司はすぐに近づき、落ちた物を拾い集めながら言った。 「熱があるんじゃなかったの?家で大人しくしてると思ったのに……会社で片付けなんて。まさか退職する気?」 紗良はしばらく黙ったあと、唇を噛んでうなずいた。 「うん、もう続けられない」 蓮司は荷物を手際よくまとめ、トランクに放り込むと、軽い口調で言った。 「辞めたくなったならそれでいいよ。俺が養ってあげる」 「さ、気分転換しに行こう。退職祝いだ」 彼は紗良の腕を取り、そのまま運転席側のドアを開けて彼女を乗せる。 「今日はちょっと手首が痛くてね。君が運転してよ。道案内は俺がするから」 そう言って助手席に乗り込み、運転を任せた。 車を走らせてしばらく経った頃、蓮司が急に「ちょっとコンビニ寄ってくる」と言い残し、車を降りた。 「ここで待っててね」と言い残して。 だが、いくら待っても彼は戻ってこなかった。 そのとき突然、車内のブルートゥーススピーカーから音声が流れ始めた。 「よーし、98回目始めるぞ。翔吾、そっちのカメラ映ってるか?」 第7話 紗良の体がビクッと震えた。助手席の隅にある小型カメラが赤く二度点滅したのを見て、心臓の鼓動が一気に速くなる。 慌ててドアノブに手を伸ばしたが、いつの間にかロックされていた。 「録画はできてるけど、音声が入らないっす、章さん、まだ調整できます?」 「もう無理だ、録画できてりゃ十分だろ」 紗良の全身は恐怖で硬直した。蓮司が彼女を閉じ込めた理由は、一体何? そのとき、歩道から一人のすらっとした男性が近づいてきて、紗良の前に停まっていた車に乗り込んだ。 ブルートゥーススピーカーから再び声が響く。 「おっ、瀬川奏真(せがわ そうま)来たぞ。今回は紗良に車ぶつけさせて、蓮司さんのライバルに一発かますってわけだ。これも犠牲の一つってことだな。マジ頭いいよ、蓮司さんは、ハハ!」 「録画スタート、こっちは準備OKだ!」 紗良の額を冷や汗がつたう。録画って何?交通事故?そんなの無理に決まってる。 その瞬間、車が突然勝手に動き出し、物凄いスピードで前の車に突っ込んでいった。 ガシャンという衝撃音と激しい揺れのあと、運転席のエアバッグが膨らみ、紗良の意識は真っ白になった。 ――目を覚ましたとき、見えたのは真っ白な天井だった。 体を起こしてみると、自分が病院に運ばれていたことに気づく。 ぼんやりしていた記憶が徐々に鮮明になり、あの恐怖の瞬間が蘇る。心臓が再び激しく脈打った。 そのとき、病室のドアがノックされ、同じ患者服を着た男性が入ってきた。 紗良はすぐに彼の顔を思い出した。事故のとき、前の車に乗っていた人物――奏真だった。 彼は腕に包帯を巻き、少し青白い顔をしていたが、整った顔立ちは変わらず鋭い目が紗良をじっと見つめた。 「君の彼氏から聞いた。車の故障で事故になったって。わざとじゃないんだろ?だから責任は問わないよ。安心して」 紗良は一瞬その言葉の意味がわからず聞き返す。 「……それって……」 「つまり、機械のトラブルで起きた事故なら、僕たちどっちも被害者ってこと。君が気に病む必要はないよ。ただ、どうしてるかなって気になって」 そう言って、奏真はしっかりと紗良の様子を見つめたあと、最後に言った。 「ちゃんと起き上がれてるなら、大きな怪我はないみたいだね。しっかり休んで。また会おう」 そう言って、彼は静かに部屋を後にした。 残された紗良はしばらく呆然と彼の背中を見送っていた。 紗良は、彼が部屋を出て行ったあともしばらく呆然としていた。 しばらくして、ベッドの脇にある電話が鳴る。画面を見ると母親からだった。 「……もしもし、ママ」 声を出した瞬間、自分でも驚くほどに嗄れていた。 「紗良、どうしたの? 声がガラガラよ。風邪でもひいた?」 その一言で、紗良の鼻の奥がツンとした。 「……ううん、平気。すぐに帰るから、心配しないで」 電話越しに母親が長くため息をついた。 「いつでも帰ってきていいのよ。でも一番大事なのは、あなたの体だからね」 「そうそう、前に話した縁談の相手、今ちょうど北都にいるの。何かあったらすぐ連絡してって言ってたわよ。ママ、彼の連絡先送っておくね。瀬川くん、ほんとにいい子だから」 「……うん、わかった」 母親は紗良の声の疲れを察したのか、それ以上何も聞かず、「ゆっくり休んでね」とだけ言って電話を切った。 でも紗良にとって、その「疲れ」はただの疲労ではなく、もっと深い絶望だった。 蓮司は、本当に遥香を愛してるんだろう。 そうでなければこんな短時間で事故を仕組んで、映像をねつ造して、第98本目の「犠牲の映像」を撮るなんて、できるわけがない。 私の命なんて、彼にとっては最初からどうでもよかったんだ。 紗良はうつむいて、虚しく笑い、頭を横に振った。 そのとき、病室のドアがノックされた。入ってきたのは——蓮司だった。 第8話 蓮司は、魂が抜けたような紗良の様子を見て、すぐに彼女の手を強く握りしめた。 「ごめん、紗良。あの車が故障するなんて思ってもみなかった。怪我させて、入院までさせて……でも安心して。あの車はもう廃車にした。もう二度とあんなことは起きないって約束するから」 紗良はその言葉を聞いて思わず笑いそうになった。 廃車にしたのは、真実を隠すためじゃないの? もしあの日、ブルートゥースの不具合であの会話を偶然聞いていなかったら、きっと自分はまた彼の言葉を信じていたに違いない。 でももう、彼の口から出るどんな言葉も信じる気にはなれなかった。 蓮司は続けた。 「紗良、医者によると擦り傷程度で、すぐ退院できるってさ。だから明日、退院の手続きして、それからクルーズに行こう。少しでも償いになればと思って……どうかな?」 紗良は目を見開き、信じられないように手を引いた。 「蓮司……私、まだ治ってもいないのに、翌日すぐにクルーズって……そんなに急ぐ必要あるの?」 その問いを口にしたとき、紗良の唇はかすかに震えていた。 そんなに急いで、99本目の映像を撮りたいの? 蓮司はその反応に驚いたようで、しばらく黙ってから慌てて言い直した。 「紗良、そんなつもりじゃないよ。ただ、少しでも君の気分が晴れたらって……もう船も予約してあるし、きっと楽しめると思う。お願い、断らないでくれないか」 紗良はそっと目を閉じ、無言で首を振った。 心の中にあった最後の期待が、完全に崩れ去った。 彼は本当に、もうすぐ遥香を迎えるつもりなんだ。 少しして、紗良は静かに答えた。 「……わかった」 その従順な返事を聞いた蓮司の胸に、何とも言えないざらついた感情が残った。 たった今、紗良のあの問いかけに、蓮司は一瞬自分の計画がバレたのかと疑った。 しかし、すぐにその考えは打ち消した。 この三年間紗良は何も気づかなかった。今回もきっと同じだ。 明日が最後の一回。すでにすべての準備は整っている。クルーズ中に事故を装い、無事に99本目の映像を撮影する。 それが済めば、任務は完了だ。紗良に別れを告げ、遥香と結婚する。 さっき感じた胸のざわつきは、きっと紗良との別れが近づいているからだろう。ただの未練、ただの慣れだ。 でも、すべてが終わったら、なるべく傷つけないように優しく別れよう。補償もちゃんと用意するつもりだ。 あとは——明日だけだ。 少し考え込んだあと、蓮司は優しく紗良の額にキスを落とした。 「紗良、じゃあゆっくり休んで。明日、迎えに来るから……一緒にクルーズ行こうな」 そう言って、彼は丁寧に毛布を直し、立ち上がって病室を出ようとした。 その時—— 「蓮司……ねぇ、知ってた? 私、本当に、本当にあなたのこと……愛してたよ」 その声に、蓮司は一瞬立ち止まり、振り返って笑みを浮かべた。 「なんだよ急に。俺も紗良のこと、ちゃんと愛してるよ」 「だから、安心して休んで。明日ね」 蓮司の背中が病室の扉の向こうへと消えた。 紗良は、そっと目を伏せ、携帯を手に取った。 母から送られてきた連絡先——瀬川へ電話をかける。 「……もしもし、瀬川さん? 母があなたなら助けてくれるって言ってた。本当ですか?」 その問いに、即座に答えが返ってくる。 「ええ。あなたに必要なことがあれば、何でも言ってください」 紗良は深く息を吸い、静かに口を開いた。 「明日の朝までに、誰にも気づかれずにここから出たいんです。助けてくれますか?」 ——翌朝5時。 黒スーツの護衛たちが病室へと現れ、紗良を秘密通路から病院外へと連れ出す。 空港に向かう車中、紗良は最後のメッセージを携帯で打った。 【蓮司、あなたに98回も騙された。99回目は、他の誰かを使って】 送信ボタンを押すと同時に、彼の連絡先をすべて削除する。 離陸準備を進める飛行機に乗り込むと、紗良は窓の外を見つめる。 機体が滑走路を進み始めた。 向かう先は、南原——帰るべき、家だった。