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離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!
小林悠良(こばやし ゆら)は十八歳の頃から白川史弥(しらかわ ふみや)に付き従っていた。 ある事故で、彼のために自らを犠牲にし、失った聴...
Chương (1)
第1章
小林悠良(こばやし ゆら)は十八歳の頃から白川史弥(しらかわ ふみや)に付き従っていた。
ある事故で、彼のために自らを犠牲にし、失った聴力を取り戻した。
この喜ばしい知らせを伝えようと意気込んでいた矢先、彼が初恋の女性と甘く寄り添う姿を目の当たりにする。
彼は知っていた。
悠良がどれほど自分を愛していたかを。
自分のためなら命すら差し出すほど、怒ることもなく、ただ一途だったことを。
けれど今回は、悠良は何も言わず、静かに秘密保持契約書にサインした。
そして期限が来ると、彼の世界から完全に姿を消した。
彼女が消えたと知った史弥は、鼻で笑って一言。
「一週間もしないうちに、必ずおとなしく戻ってくる」
だが、三ヶ月が経った。
彼女はまだ戻ってこなかった。
焦燥に駆られた史弥は、狂ったように世界中を探し回る。
あれほど傲慢だった彼が、初めて頭を下げた。
「悠良、もういいだろ......もうやめよう?」
その後。
「悠良、戻ってきてくれ。なんだってするから......」
さらにその後。
「俺が死んだら、君は会いに来てくれる?」
再会のとき。
史弥は悠良の足元にひざまずき、震える手でお茶を差し出す。
「叔母さん、お茶をどうぞ」
第1話
「小林さん、一度決めたら、五年間、もしくはそれ以上戻れません。その間、外部には存在を隠し、誰にもあなたの居場所は分かりません。当社が開発した製品の性質上、ご了承ください」
「はい」
小林悠良(こばやし ゆら)は一瞬黙り、それから静かに契約書に署名した。
「では、10月20日までにすべての手続きを完了します。追ってご連絡いたします」
彼女はスマホをちらりと見た。
今日は10月1日──あと20日。
通りがかりの大型モニターの前で足を止める。
一週間前の記者会見の様子が流れていた。
白川グループの社長・白川史弥(しらかわ ふみや)が、妻のために3年をかけて、世界に一つだけの高級ウェディングドレスを自らデザインしたという。
「妻はウェディングドレスを着る機会がなかったことが心残りで......」
そのドレスは発表されるやいなや大きな話題となり、誰もが悠良を羨ましがった。
あんなにお金持ちで、しかも一途な男性に愛されているなんて。
通行人の女の子たちが、羨望の眼差しを向けて言う。
「あの二人ってまさに理想のカップルだよ。しかも白川社長って、奥さんの好きなものを全部覚えてるんだって。細かいことまで!」
「昔、奥さんが事故に遭って、医者が角膜移植を勧めた時も、白川社長は一瞬の迷いもなく手術同意書にサインしたって話よ。おかげで、目は無事だった」
「どんなに忙しくても、祝日や記念日には必ずプレゼントを贈ってくれるんだって。そんな男、今どき滅多にいないよね」
悠良は皮肉めいた笑みを浮かべた。
ああ......もし聴力がまだ戻っていなければ、こんな話を聞かされて吐き気を催すこともなかったのに。
数年前、彼が同級生たちと喧嘩をした際、彼女は飛んできた椅子から彼を庇い、その衝撃で耳が聞こえなくなった。
それ以来、彼女は周囲から異物扱いされ、嘲笑され、蔑まれ──
「つんぼの女」だと。
そんな時、史弥は彼女の前にまるで光のように現れ、無様な彼女を抱きしめた。
[そんなことはない。これからは、俺が君の耳になる。誰にも、君を傷つけさせたりしない。俺が命を懸けて守るから!]
彼女はあの時の言葉を、永遠の幸せだと信じていた。
しかし、それは儚く消える打ち上げ花火のように、終わってしまった。
つい数日前、聴力が戻ったことを知らせようとした彼女は、かつて彼女を半殺しにした「あの女」が戻ってきたことを知る。
悠良は拳を握りしめ、関節が白くなるほどに強く。
もう終わった関係なら、無理して縋りつくつもりはない。
これからは、彼の世界から消えてやる。
彼女は黙って、用意していた離婚届を箱に入れた。
目元の涙を拭い、タクシーを呼ぼうとしたそのとき、
見慣れた車が、彼女のそばにぴたりと停まった。
完璧にアイロンがけされたスラックス、脚を組んだ拍子に覗く艶のあるダービーシューズ、端正な顔立ちの男が心配そうに近づいてくる。
彼は素早く手話を使った。
[悠良、モールで待っててって言ったよね?こんなに寒い中、風邪でもひいたらどうする]
彼は彼女の両手を取って擦り合わせ、目の奥に一瞬、痛ましげな光を宿しながら車へとエスコートした。
悠良は皮肉な笑みを浮かべた。
心がきしむように痛む。
息ができないほどに。
ほら、愛なんて、演技でも成り立つってことよ。
史弥がシートベルトを締めてくれたとき、ふと彼の目に、彼女のそばに置かれた箱が映った。
[これは?]
悠良は伏し目がちに、込み上げる想いを抑えながら言った。
「記念日のプレゼントよ」
彼は口元に笑みを浮かべ、手を伸ばそうとしたが、
悠良は素早くその手を押さえた。
「記念日当日に開けて」
彼女にそう言われると、史弥はそれ以上は言わなかった。
男は優しく、彼女の鼻先をつまんで言った。
[分かったよ。じゃあ、まずはウェディングフォトの撮り直しからだ]
彼は、彼女のためだけにオーダーメイドしたあのドレスを、どうしても着せたかった。
いずれ金婚式になったときに、それを思い出として残したかった。
でも、彼女だけが知っている。
彼らには「いずれ」なんて、もう存在しないということを。
史弥。
記念日に、あの箱を開けたときの史弥の顔を、ぜひ見てみたい。
第2話
ウェディングドレス店に到着すると、店員が史弥と悠良を出迎え、まずは衣装に着替えるように案内した。
史弥が姿を現した瞬間、数人の店員の目が思わず奪われた。
すらりとした体格、日頃から鍛えているため無駄な贅肉は一切なく、まさに歩くモデルのようだった。
悠良がウェディングドレス姿で出てきたとき、史弥が椅子に座ってスマホを見ているのが見えた。
彼はきっちりとスーツを着こなし、ネクタイも丁寧に締めていた。
オーダーメイドのスーツは彼の抜群なスタイルを完璧に引き立て、漆黒の色合いがその雰囲気をより一層際立たせていた。
悠良は音もなく彼の背後に立ち、ちょうど届いたメッセージを目にした。
【史弥、お腹が痛いの......迎えに来てくれない?】
史弥はまだ返信していなかった。
すると、またすぐにメッセージが届いた。
【そういえば......今日は悠良さんとウェディングフォトを撮る日だったよね。ならもういいや、自分で帰るから】
そして、そのメッセージは取り消された。
悠良は冷ややかに笑った。
送信してから数分も経ってからメッセージを消す人なんているだろうか?
史弥は少し迷ってから返信した。
【様子を見てから行く。位置情報送って】
悠良はドレスの裾をぎゅっと握り締め、関節が白くなるほど力が入り、心臓が誰かに引き抜かれたかのような痛みに思わず胸を押さえ、息が詰まりそうになった。
やっぱり。
彼は、あの女を拒めないのだ。
彼女はゆっくりとしゃがみ込んだ。
異変に気づいた史弥が振り返ると、悠良の顔が真っ青になっているのを見て、慌てて立ち上がった。
[悠良、大丈夫か?どこか具合悪いのか?今すぐ病院に......]
いつも通り自分を気遣うその様子に、悠良は心の中で皮肉な笑みを浮かべた。
本当に自分の体調を心配しているのか、それともただ、早くあの女の元へ行きたいだけなのか。
彼女は感情を抑えた。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ......家まで送って」
[わかった。一旦戻ろう]
史弥は店員に簡単に事情を説明し、悠良を支えながら店を後にした。
その時、彼のスマホが再び鳴った。
画面を一目見ると、眉間にシワが寄る。
彼はスマホをしまい、少し焦った様子で悠良に手振りで説明した。
[悠良、会社で急な用事が入った。家では一緒にいられないかも。とりあえず、君を家に送ろう]
悠良は、その偽りの表情を見て、ただただ嫌悪感が込み上げた。
無理に笑みを作って答えた。
「じゃあ先に行っていいよ。私は自分でタクシー呼んで帰る。もう大分楽になったから」
史弥は悠良の手を握り、まるで彼女だけを愛しているかのような眼差しで言った。
[大丈夫。会社のことは少し遅らせても構わない。君の身体の方が大事だから]
そう言って、また手振りを加えた。
悠良はかすかに笑った。
「本当に大丈夫。だいぶ良くなったから。急ぎの仕事なら、早く行ったほうがいい」
史弥は、彼女の顔色が先ほどより良くなっているのを確認すると、うなずいた。
[じゃあ、気をつけて。こっちが終わったら、すぐに戻る]
悠良は頷き、彼が車で立ち去るのを見送った。
その直後、彼女もタクシーを止めた。
「運転手さん、さっき出たあの車について行ってください」
すでに空は暗くなり始めていた。
彼が車を降りると、美しい女性の影が彼の胸に飛び込んだ。
その顔を見た瞬間、悠良の瞳孔が強く縮んだ。
あれは、石川玉巳(いしかわ たまみ)!
史弥の初恋の人で、当時二人は狂おしいほど愛し合っていて、学校中の話題の中心だった。
その後、玉巳は何らかの理由で海外へ行き、二人は音信不通になっていた。
ふん......なるほど、初恋が戻ってきたというわけか。
玉巳は満面の笑みで史弥に抱きつき、潤んだ瞳で上目遣いに彼を見つめている。
楚々とした可憐さと艶っぽさを併せ持ち、男心をくすぐるその表情。
「来てくれるって信じてた。ずっと待ってたの」
史弥は彼女の全身を上から下まで眺め、さっきまでの険しい表情が嘘のように、目元がやさしく緩んだ。
「お腹痛いんじゃなかったのか?」
玉巳は唇に笑みを浮かべ、いたずらっぽく首を傾げて言った。
「あなたに会ったら痛みなんて吹っ飛んじゃった」
史弥の険しかった眉間が一気に緩み、深い眼窩と鋭い目元が、笑った瞬間に人を惹きつける魅力に帯びた。
「この小悪魔め。もう二度と嘘ついちゃダメだぞ。心配するだろ」
玉巳は唇を尖らせて、彼の手を握ってぶんぶん振りながら甘えた声で言った。
「だって......会いたすぎて我慢できなかったんだもん。ごめんね、悠良さんとのウェディング撮影の邪魔しちゃって」
史弥は親指で彼女の潤んだ唇をそっとなぞった。
「ちゃんと反省してるならいい。もうこんなことするなよ」
玉巳は突然、指先で史弥の襟元をつかみ、妖艶な眼差しで見つめた。
「来て。サプライズがあるの」
二人は指を絡め合い、海辺の小屋へと並んで歩いていった。
悠良は木の陰に隠れたまま、爪が掌に深く食い込んでいることにすら気づかず、熱い涙が頬をつたって落ちていった。
冷静に向き合えると思っていた。
だが実際にこの光景を目にしたとき、胸が引き裂かれるほど痛むことを初めて知った。
付き合い始めてからずっと、史弥は彼女を大切にし、感情面でも十分に満たしてくれていた。
どれだけ親密な瞬間でも、彼は理性を保ち、彼女が心を許しそうになったときも、彼はそっと抱きしめながらこう言った。
[君との初めては、新婚の夜にとっておきたい。君のためなら、我慢できる]
そして本当に新婚の夜でも、彼は彼女の気持ちを優先し、丁寧に、優しく導いてくれた。
彼は彼女の首筋に顔を埋めて囁いた。
[悠良、愛してる。だから約束して。絶対に俺のそばから離れないって]
その瞬間、たとえ史弥のために聴力を失ったとしても、後悔しないと思えた。
彼は、それだけの価値がある人だった。
でも今、彼はその約束を破り、他の女を愛し、ふたりの約束を裏切ったのだ。
第3話
史弥は一晩中帰ってこなかった。
深夜零時に「会社で忙しい」とだけメッセージを送り、彼女に「ゆっくり休んで」とだけ伝えてきた。
そのメッセージを見た悠良は、ただただ皮肉に思えた。
だが、彼女もようやく悟った。
今の自分には、史弥と玉巳のことに構っている余裕などない。
去る前に、彼女には果たすべき最も大事なことがある。
それは、母の遺志を果たすことだった。
会社に駆けつけると、同僚たちは奇妙な視線を彼女に向けてきた。
「オアシスのプロジェクト、もう結果が出たらしいけど......責任者は小林さんじゃないってさ」
「え、小林さんじゃない?このプロジェクト、ずっと小林さんが担当してたじゃん。もし本人が知ったら......ヤバいんじゃない?」
「新しく入ってきたコネ採用の社員に任せたらしいよ。朝の会議で役員が投票して決めたって」
誰かが入口の悠良に気づき、視線を逸らしながら急いで自分の席に戻っていった。
悠良が自分のデスクまで歩いていくと、机の上のものが全て片付けられていることに気づいた。
問いただす前に、か細い女性の声が響いた。
「悠良さん?」
その声に、悠良はゆっくりと振り返る。
目の前に立っていたのは、細身の体に真っ白なワンピースをまとった女。
艶やかな黒髪、整った小さな顔立ち、そして怯えたシカのような大きな目、男たちの庇護欲を自然にかき立てるタイプだった。
悠良の表情が、みるみるうちに硬直する。
石川玉巳。
淡いピンクの唇に微笑を浮かべ、耳を赤らめながら言った。
[悠良さん、お久しぶりです。これからはよろしくお願いしますね]
彼女の差し出してきた手を見つめ、そしてかつて自分のものであった机を一瞥した悠良は、机の表面を指先で軽く叩いた。
「これはどういうこと?」
玉巳は無垢な目をこちらに向け、手を宙で曖昧に動かしながら言った。
[ごめんなさい。史弥が私がハウスダストアレルギーって知って、悠良さんのオフィスを私に譲ってくれたんです。もし嫌だったら、戻してもらっても構いません。私、彼に話してきます]
悠良は皮肉な笑みを浮かべた。
滑稽な話だ。
玉巳がハウスダストアレルギー?
自分だってアレルギーなのに。
玉巳が話し終え、史弥のオフィスへ向かおうとしたとき、
「しなくてもいいよ」
悠良はそう言って彼女を止めた。
誰かを無理やり引き止めるのは好きじゃない。
もう心が自分にないのなら、見せかけの優しさに何の意味がある?
玉巳は振り返り、その瞳には隠しきれない喜びが滲んでいた。
[悠良さんってやっぱり器が大きいですね。でも史弥のこと、誤解しないでください。私を会社に呼んだのは、悠良さんがいつも頑張りすぎてるから、手伝わせようって配慮だったんです]
悠良は指先をぎゅっと握ってから、そっと力を抜いた。
自嘲気味に口角を上げる。
史弥は本当に彼女を深く「愛して」いたらしい。
疲れを気遣って、わざわざ彼の初恋を連れてきてくれたなんて。
「白川社長のご判断なら、石川さんもその期待に応えるよう、頑張ってください」
そう言って悠良は玉巳の脇をすり抜け、史弥のオフィスに向かった。
ドアを勢いよく開けると、史弥が音に気づいて顔を上げ、数秒だけ彼女と視線が交差した。だがその瞬間、悠良の視線は彼のデスクに置かれた書類へと落ちる。
手を伸ばしてそれを取る。
史弥の落ち着いた瞳に、一瞬の動揺が走った。
[悠良......]
彼女が手にしたのは、オアシスプロジェクトの決定書だった。
票数は、悠良が10票、玉巳が12票。
そして最も重要な1票を、史弥が玉巳に投じていた。
ふふっ。
彼は、あの1票を玉巳に投じたのだ。
冷静すぎる彼女の様子に逆に不安を覚えたのか、史弥は近づいてきて、温かい掌で彼女の腕を包み込んだ。
[悠良......石川を会社に入れてプロジェクトに参加させるのは、上層部の決定なんだ。俺が社長でも口出しはできない。俺の立場を理解してほしい]
口の中に広がる苦み。
唇は血の気を失い、真っ白だった。
だが彼女は、騒ぎ立てなかった。
あまりにも静かで、だからこそ自分だけが知っている。
心はとっくに麻痺するほど痛んでいた。
悠良は力なく唇を引きつらせ、彼を見た。
その瞳は、かつて自分を深く見つめてくれていたはずなのに、今は見知らぬもののようだった。
深く息を吸い、顔を上げて言った。
「私が、オアシスプロジェクトをどうしても自分でやりたいって言ったら?」
史弥の眉がわずかに動く。
彼はその冷えた指先を温かい手で包み込み、辛抱強く彼女をなだめようとする。
[君にとって大事なプロジェクトなのは分かってる。母親の遺志だもんな。でも......ここは見方を変えてみよう。プロジェクトが成功すれば、彼女もきっと天国で喜んでくれるさ]
その言葉に、彼女は笑った。
彼女が望むものなら、なんでも与えてくれると思っていた。
けれど今、彼女が本当に欲しいものを、彼は別の女のためにあらゆる理由を並べて拒んでいる。
身体だけじゃない、心までも、もう自分にはないのだ。
鼻をすっとすすり、かすれた声で言った。
「誰がやっても同じなら、どうして私じゃダメなの?私の企画書、石川に負けてないはず」
史弥は少し困ったような顔をし、彼女の手を握り直した。
指先でそっと撫でるように。
[悠良、玉巳は......最近帰国したばかりで、ちゃんとした実績がないと仕事も見つけにくい。それにご両親の体調も良くなくて、いつ何があるか......彼女は君と同じ学校の後輩だし、君は優しい人だから、きっと理解してくれると思ったんだ]
悠良は思わず吹き出しそうになった。
その口ぶりがあまりにも整っていて、白々しい理由の数々が苦々しい。
以前は、史弥の優しさが自分だけに向けられたものだと思っていた。
だが今、彼の「優しさ」は誰にでも分け与えられるものだと知った。
玉巳がハウスダストアレルギー?
自分はそのハウスダストで呼吸困難を起こし、命の危険すらあるというのに。
史弥は悠良の沈黙に不安を覚えたのか、考えた末に言った。
[悠良、じゃあ......]
「もういいよ。私は諦めるから。史弥はまだ就任したばかりで、会社の実権も完全に握れてない。株主も多いし、これは史弥一人でどうこうできることじゃないもの」
そう言って、まるで分かってあげるかのような顔をして、そっと彼の手から自分の手を引き抜いた。
もし相手がもう自分を愛していないのなら、どれだけ自分がすがりついたって、彼はもう自分にこのプロジェクトを与えてはくれない。
ならば、無理に望む必要もない。
史弥は、悠良が納得したように見えたことで、安堵の息を漏らした。
[そういえば、前に君が言ってた『永遠(とわ)のネックレス』、もうすぐオークションに出るだろ?俺が落としてあげるよ]
悠良は口角をぎこちなく引き上げた。
「ありがとう。でも、あれ結構高いって聞いたけど」
もうすぐ去る身だ。
男は要らないが、金はあっても困らない。
金に背を向けるほど馬鹿じゃない。
[君が欲しいものなら、いくら高くたって、手に入れてやる]
彼女の返事に史弥の顔は綻び、優しげな笑みを浮かべながら彼女の頬をつまんだ。
そのまま身を屈めようとしたとき、
オフィスのドアが唐突に開き、玉巳が遠慮がちに声をかけてきた。
「白川社長、上層部がお待ちです。会議室にお願いします」
その瞬間、悠良の肩に置かれていた手がパッと離れる。
「分かった」
玉巳はおずおずと近づき、唇を噛んで、涙ぐんだ瞳で手話を交えながら言った。
「白川社長、悠良さん......もしかして、オアシスのプロジェクトで喧嘩してるんですか?もし悠良さんがそのプロジェクトを望んでるなら、私、譲っても大丈夫です」
悠良はその言葉に眉をひそめ、玉巳を見つめて言った。
「いえ、いりません。他人のお下がりには興味がないので。白川社長が同窓の義理を重んじるからこのプロジェクトを石川さんにまかせた。ぜひ頑張ってください、石川さん」
その一言で、玉巳の目にはさらに涙が溢れる。
彼女はおずおずと、史弥の袖口を引いた。
「白川社長、悠良さんはきっと、私のことを誤解してると思うんです。彼女に言ってあげて?悠良さんなら、プロジェクトを譲ってもいいって......」
悠良の視線は、玉巳が掴んだその手元へと落ちる。
史弥は、他人に触られるのが嫌いなはずだった。
玉巳もそれに気づいたのか、すぐに手を離した。
悠良もその視線を逸らした。
史弥は咳払いをして口を開く。
「さっき、悠良も納得してくれた。彼女はそんな心の狭い人間じゃない」
それから彼は悠良に向き直って言った。
[会議が終わったらまた連絡する。夜は、君の好きなフレンチに行こう]
そして彼は悠良の前を通り過ぎ、玉巳と一緒に会議室を出て行った。
オフィスのドアが閉まった瞬間、
悠良は玉巳の企画書を手に取り、ふと鼻で笑った。
誤字の修正すらされていなかった。
第4話
悠良は自分の企画書を持ってオフィスに戻ってきた。
彼女の顔色の悪さに気づいた三浦葉(みうら よう)が近づき、手振りで問いかけた。
[悠良、大丈夫?本当に奴にプロジェクト取られたの?]
悠良は葉の手首を握った。
「ちょっと来て」
二人は給湯室に向かい、悠良は真剣な表情で言った。
「大事なことなんだけど、葉の助けが必要なの」
[言って。力になれることなら、もちろん手伝うよ]
「LSが以前からこのオアシスプロジェクトを狙ってたって聞いたの。今はまだ着工してないし、このタイミングでより良い案を提示すれば、運営権はLSのものになる可能性がある」
その言葉を聞いた葉は驚愕し、慌てて手振りで訴えた。
[正気!?そんなことに関わったらバレた時点で機密漏洩になるんだよ!あんたのキャリアは終わりだよ!]
[それに、業界の人から聞いたことあるけど、LSの社長って相当ヤバい背景あるらしいよ?ネットで調べても深い情報出てこないって。そんなところに行ったら、罠に嵌められて逆にやられるかも......]
計画の一端を聞いただけでも、葉は背筋が凍る思いだった。
だが、ここまで来た悠良に、もう後戻りの道はなかった。
「これが、母が亡くなる前に残した唯一の願いなの。私は成し遂げなきゃいけないの」
もう、残された時間は少ない。
葉は大学時代から悠良を知っていて、彼女が一度決めたことを覆さない性格をよく理解していた。
しばらく考え込んだ後、ため息をついて言った。
[わかった。悠良のためなら命懸けでも付き合う。でも絶対に慎重にね。もしバレて、白川社の奥さんがライバル企業に肩入れしたなんて話になったら、とんでもない騒ぎになるよ]
「大丈夫よ」
悠良は葉の手をしっかりと握り、感謝の気持ちを込めた。
給湯室を出ると、悠良は自分の荷物を静かに片付け始めたが、その途中で物を落として割ってしまった。
かがんで見てみると、それは二人のツーショット写真だった。
交際を始めた頃に撮ったもので、頭を寄せ合い、あどけない笑顔を浮かべていた。
あの頃は本当に幸せだった。
お互いさえいれば、どんな困難にも立ち向かえると信じていた。
今となっては、それもただの笑い話に見えてしまう。
悠良は壊れた写真立てを拾い上げ、ごみ箱に捨てた。
ちょうどその頃、葉からメッセージが届いた。
【持てる全ての人脈を使って、十五分だけ時間を取ったわ】
【ありがとう。十分すぎるほどだよ!】
生きるか、終わるか──
すべてはこの一度に懸かっていた。
悠良は企画書を持ってLSへ向かう。
葉は彼女の肩を叩き、激励した。
[あんたの才能で彼を落とすんだよ。無理だったら、色仕掛けで!]
その冗談に悠良も思わず吹き出した。
「もし相手がゲイだったらどうするの」
「えっ......」
葉は一瞬返答に詰まった。
悠良は軽く手を振って別れを告げ、ビルに入り、エレベーターへ。
だが、いざ一人になると、突然自信が揺らぎ始めた。
LSの社長・寒河江伶(さがえ れい)は掴みどころのない人物で、ほとんど表に出てこないらしい。
その一方で、会社の業績は白川をはるかに上回っている。
そして創立者の方も、わずか2〜3年で無名の会社を業界トップに押し上げた伝説の人物でもある。
オフィスの前に立ち、悠良は深呼吸してからノックをした。
中から冷たい声が響いた。
「入れ」
悠良は息を整えて、ドアを開けた。
目に飛び込んできたのは、冷たい印象の黒白グレーの色調。
男の冷たい目鼻立ちは、容易に他人を寄せつけない空気をまとっていた。
彼はまだ部下に指示を出していたが、悠良の視線は彼から外せなかった。
圧倒的な存在感を放っていた。
史弥の冷淡さとは違い、伶の容貌はより攻撃的で、目元の厳しさも際立ち、骨格のはっきりとした顔立ちは緊張感を与えた。
悠良は、室内に他の人がいるとは思っていなかった。
そっとソファに腰を下ろす。
彼は仕事に集中していて、彼女の存在にまったく気づいていない様子だった。
悠良も焦らず、静かに待った。
部下が報告を終えて立ち上がろうとした時、伶は冷たい声で言った。
「誰が人を中に入れたのか調べろ。関係者は全員クビだ」
部下は一瞬固まり、ソファに座る悠良をちらりと見て、頷いた。
「かしこまりました」
悠良の胸が大きく波打った。
LSの社長が厳格で容赦しない人物だとは聞いていたが、噂以上の現実に震えが走った。
契約書に署名する間に、もう人が一人クビになっているのだから。
彼に追い出される前に、悠良は来意を告げた。
だが彼は顔を上げようともしなかった。
彼女は聞いていると信じて、自分の考えを話し続けた。
全てを語り終えると、ようやく彼は書類から目を上げた。
その目は鋭く深く、見つめられるだけで圧力を感じさせた。
不思議なことに、悠良は彼とは初対面のはずなのに、どこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
彼女は用意していた言葉を口にした。
「寒河江さん、もし私が御社にオアシスの運営権を取らせることができたら、今後三年で御社の成長は飛躍的なものになります。オアシス周辺の土地も、さらに活用の可能性が......」
「白川家の若奥様、これはご主人と喧嘩でもしたのか、それとも御社の新しい戦略?」
伶は書類を脇に置き、鋭い目で悠良を見つめた。
悠良は彼の言葉に一瞬詰まったが、気迫は失わなかった。
「疑念があるのは当然です。でも、私は御社に運営権を取ってほしいと思ってます。このプロジェクトを私ほど理解している人間はいません」
伶はペンを置き、長身の体を椅子に預けて目元を上げた。
「うちを巻き込むおつもりで?」
悠良は唇を固く結び、説明を試みた。
「報酬は要りません。ただ、条件を一つだけ。運営権が取れたら、設計の内容は私に任せてください」
伶の視線は鋭さを増し、身をわずかに前に傾けた。
「君にも分かってるはずだ。この私に交渉を持ちかけるってことが、どういう意味か」
「ええ。両方から嫌われるかもしれない。もしこのことが外に漏れたら、私は白川から責任を問われるし、寒河江さんは私をスパイだと疑っても不思議じゃない」
伶は少し楽しげに笑った。
「一つ、気になることがある。オアシスの案件はすでに白川社に落ちた。にもかかわらず、君はなぜ動く?」
悠良は視線を伏せ、少し陰りを見せた。
「個人的な事情があるんです。詳しくは言えませんが、私にとってこのプロジェクトは特別なんです」
「聞いたところによると、オアシスの担当者は君じゃなくて、コネ入社した新人らしいが?」
伶は指を組み、目に冷たい光を宿らせながら、わざと間を取って言った。
「まあ、いずれにせよ、うちには関係ない話だ。私は君のプライベートのために、わざわざ面倒事に首を突っ込む気はない」
第5話
悠良が階段を降りてくると、葉はまだ彼女を待っていた。
彼女の姿を見るなり近づき、手振りで話しかける。
[どうだった?]
「ダメだったわ。噂どおり、まったく取り付く島もない」
それどころか、もう少しで自分のことがバレるところだった。
ドアを開けて出て行こうとしたとき、伶の低い声が耳に入った。
「白川奥様は昔、ご主人のせいで両耳が不自由になったと、聞いたことがある。どうやら、もう治ったようだな」
彼がこの秘密を守ってくれる保証はない。
だが、悠良には分かっていた。
彼に頼んだとしても、伶は絶対に聞き入れてくれない。
葉は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね......役に立てなくて」
「気にしないで。むしろ私の方が迷惑を掛けたよ」
悠良は先ほど伶が部下に言っていた言葉を思い出し、思わず身震いした。
そう言いながらも、葉が呆然と立ち尽くしているのを見て首を傾げた。
悠良は手を振って彼女の前で確認する。
「どうしたの?ぼーっとして」
葉はぎこちなく首を回し、信じられないといった表情で彼女を見つめる。
「私、今手振りしてなかったのに......聞こえてたの?」
悠良は慌てて彼女の口を塞ぎ、小声で言う。
「シー!こっちに来て」
彼女は一連の経緯をざっくりと葉に話した。葉は嬉しさのあまり、手足をバタバタさせた。
「なんで早く言ってくれなかったのよ。私、さっきアホみたいに手振りしてたのに!」
葉は手話もあまり得意ではなかったが、悠良は賢いので、たとえ相手が正式な手話で話していなくても、口の動きから大体の意味を読み取ることができた。
「このことは誰にも言わないで。史弥にも。あと、協力してくれた人にも伝えて。多分あの人、仕事を失うことになる」
悠良の声はどんどん小さくなっていき、伶の言葉も伝えた。
葉はがっくりと肩を落とす。
「終わったわ......寒河江伶って本当に容赦ないんだね。あんたの計画、もうダメかも......」
......
悠良は家に戻ると、史弥が彼女のためにオーダーメイドした超高額のウェディングドレスをすぐに売りに出した。
彼女の中ではもう答えが出ていた。
オアシスプロジェクトを担当できるかどうかに関わらず、これからの人生にはお金が必要だ。
今の彼女はもう小林家の令嬢ではない。
平凡な一般人として生きていくためには、どうしてもお金が要る。
ネットに出品してもすぐには売れないだろうと思っていたが、意外にも三十分後には誰かが即決で超高額で落札してきた。
すぐに入金され、金額は1億円。
口座に入ったその金額を見て、悠良は嬉しそうに眺めながら、このお金をどう使うか思案し始めた。
そのとき、部屋のドアが勢いよく開いた。
史弥が汗を滲ませながら入ってきて、彼女の前に膝をつき、必死に手振りで伝えてくる。
[ウェディングドレスをネットで売ってるのを見たよ。あれは俺が君のためにデザインしたものなんだよ?俺は......何か怒らせるようなことしたかな?]
史弥の目に浮かぶ不安な表情を見て、悠良はかつてはこの目に真実を見抜いてきたと信じていた自分を思い出す。
でも今では、その目に映るのは偽りばかりだった。
彼女は無理に笑みを浮かべて言う。
「別に。ドレスなんてただの物だし。前にも言ったでしょ?孤児院があって、そこに寄付したくて」
史弥は半信半疑な様子。
[本当?オアシスプロジェクトが石川に渡ったから怒ってるんじゃないの?]
悠良は何も気にしていないふりをして、彼の手を軽く叩いた。
「そんなことないわ。玉巳とは同じ学校の仲だったし、助け合うのは当然よ。あんまり深く考えないで」
史弥はそれを聞いて、ほっとしたように表情を緩めた。
[よかった。君は器の大きい人だって信じてた]
[大丈夫だ。このプロジェクト、俺が責任持って見届けるから、問題は起こさせないよ]
悠良はそれを聞いて、思わず笑い出しそうになった。
史弥の目には、自分が大切にしていたものすら、あっさりと手放せるくらい「寛大」な人間に映っていたのだ。
このプロジェクトを彼から取り戻すのはもう無理だ。
だからこそ、悠良は伶に突破口を求めるしかなかった。
ちょうどそのとき、史弥のスマホが鳴った。
彼は画面をちらっと見て、すぐに切ろうとした。
だが、悠良の目にはしっかり映っていた。
発信者は石川玉巳。
彼女の透明感ある顔に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「誰から?なんで出ないの?」
史弥はスマホをポケットに戻し、ぎこちなく笑った。
[会社からだよ。でも今は君を機嫌直してもらうほうが大事だから]
彼はそう言いながら、彼女の額に優しくキスをした。
悠良は言う。
「出なよ。大事な用事かもしれないし」
彼は本当は出たかった。
玉巳が何度もかけてくるから。
悠良の頭を軽く撫で、ドアを指さして「電話取ってくる」というジェスチャーをした。
彼女は静かにうなずいた。
彼が出て行くのを見送りながら、悠良の目から光が消えていく。
彼にとっては何気ない一言でも、彼女にとっては命を懸けるほど重要な約束だった。
「俺がいる限り、このプロジェクトは絶対に君に任せる」、そう言ったのは、彼だったはず。
でも今では、「上の判断だから」の一言で、彼女の大切なものを玉巳にあっさりと渡した。
スマホの震動音が思考を引き戻した。
葉からのメッセージだった。
【小耳に挟んだんだけど、今夜のチャリティーオークションに寒河江が招待されてるらしい。本人が来るかは不明だけど】
【彼、こういう場に滅多に顔出さないって聞いたから、もし行くなら運試しって感じかな】
伶が来るかどうかは分からない。
だが、悠良は行くと決めていた。
運が良ければ。
彼女はすぐに返信した。
【情報ありがとう】
その直後、史弥が電話を終えて戻ってきた。
焦ったように彼女の前に膝をつき、言う。
[これから接待があって、一緒にご飯行けないかも。終わったらできるだけ早く......]
「いいよ、仕事優先で。別の日に行こう」
ちょうど良かった。悠良も今夜は別の用事がある。
もし彼が本当に夕食に誘ってきたら、断り方に困るところだった。
史弥は彼女の額にまたキスを落とし、言った。
[ありがとう。今夜のオークションで君が気に入ってたあのブレスレット、俺が落としてくるよ]
「うん、行ってらっしゃい」
悠良はにこやかに答え、そっと彼の接近を避けた。
その手、その口が、玉巳にも触れたと思うだけで吐き気がする。
だが、史弥は悠良の異変にまったく気づかなかった。
まるで彼の心はすでにどこかへ飛んでいってしまったようだった。
無理に引き寄せた愛に甘さはない。
悠良には、そんな腐った果実など必要なかった。
彼が出て行くと、悠良は立ち上がってクローゼットから服を取り出し、軽くメイクをしてすぐに外へ出た。
チャリティーオークションの会場に到着すると、彼女は招待状を取り出した。
以前、ブランドから白川社に招待があったおかげで入場できたが、そうでなければ入り込むのは難しかった。
中に入って一通り探したが、伶の姿は見当たらない。
代わりに目に入ったのは、見慣れた二つのシルエット、史弥と玉巳だった。
玉巳は史弥のネクタイを整えながら、甘い目で彼を見つめていた。
悠良は冷笑する。
これが「接待」?
だが、それより衝撃だったのは次の出来事だった。
給仕が赤いベルベットの箱を史弥に手渡した。
彼はゆっくりとそれを開き、中のものを取り出して、玉巳の手首に自らつけた。
悠良の瞳が揺れる。
足元が鉛のように重くなる。
あのブレスレットは、彼女にとって特別な意味を持つもの。
彼女が初めてデザインした作品。
母の治療費のため、仕方なく売った品だった。
史弥はそのブレスレットがオークションに出たら必ず買い戻すと約束してくれた。
なのに。
あの言葉は、ただのその場しのぎだった。
どんなに「君を愛してる」と言われても、
裏では他の女と熱い視線を交わし、何事もなかったように寄り添っている。
彼女は唇を強く噛みしめ、乱れる呼吸を必死に抑えた。
血が滲んでいることにも気づかない。
彼女の目の前で、玉巳は嬉しそうに笑いながら彼の胸に飛び込んだ。
「ありがとう、史弥!」
その後、玉巳の潤んだ瞳に少しの不安が浮かぶ。
「でも......悠良さんが知ったらきっと......」
第6話
「大丈夫、彼女はそんなに器の小さい人じゃないよ。これは君への入社祝いってことで。悠良は仕事がすごくできる人だから、彼女についていけば、いろいろ学べるはずだ」
史弥の口ぶりは終始、悠良を気遣うものであった。
少し離れたところにいた悠良はその言葉を耳にして、心がすとんと沈んだ。
器の小さい人じゃない?史弥にとって、自分は何もかも譲れる存在なのだ。
プロジェクトも、自分のデザイン作品も、母の遺志さえも。
今や、夫までも譲ってしまった。
鏡を見なくても、自分がどれほど惨めかはわかる。
どうして自分をこんなにもみじめにしてしまったの?
「なるほど。白川奥様がどうして急に仕事の話を言い出したのかと思えば、ご主人に新しい女ができたわけか」
突然、耳元で皮肉めいた男の声が響いた。
悠良は驚いて思わず後ろに下がったが、かかとを滑らせて体勢を崩し、後ろへ倒れ込んだ。
瞳孔が一気に開き、頭の中で様々な可能性がよぎったその瞬間、腰にしっかりとした手が回され、彼女の体を支えた。
その時は、伶にも少しは同情心があるのかと安心した。
しかし次の瞬間、男は唇の端を皮肉っぽく持ち上げ、腰に添えた手をすっと引いた。
悠良は愕然とした。
この男、まさか人をからかっているのか。
とっさのことに、自分でもどこにそんな力が残っていたのか分からなかったが、地面に落ちる直前、彼女は伶のスーツの裾を掴んだ。
男の深い瞳に一瞬驚きが走ったが、仕方なく彼は再び悠良の腰を支え、彼女を引き戻した。
突然胸元に飛び込んできた彼女に、伶は顔色一つ変えずに見下ろす。
しっかりとした胸板に当たり、悠良は思わず眉をひそめた。
彼の瞳は底が見えないほど深く、そこには面白がるような色が浮かんでいた。
「私をクッション代わりにするおつもりで?」
悠良はこの男にどうしても好感が持てなかった。
さっきの悪ふざけもあって、思わず彼を押しのけて距離を取る。
わざとだったなんて、認められるはずがない。
「つい反射的に......すみませんでした」
もしこの男が面白半分でからかってこなければ、あんなヒヤリとすることはなかったのに。
指先をぎゅっと握りしめて、自分に冷静さを保てと言い聞かせる。
オアシスプロジェクトはこの男次第なのだ。
今は、彼が自分の大事な大事なクライアントだと思うしかない!
悠良は深く息を吸い込んで、澄んだ顔に笑顔を浮かべ直した。
「これで信じていただけましたか?私は白川から送り込まれたスパイなんかじゃありません。本気で御社と仕事がしたいだけです」
伶はズボンのポケットに手を入れたまま、けだるそうに答える。
「が、もしこれが君と彼が謀った、私を嵌める罠だったら?」
悠良は唇をきゅっと引き結んだ。
この男、警戒心が強すぎる。
こんな人と結婚する女性は、異性と話すことすらできないのでは?
彼女は忍耐強く笑顔を保ったまま、伶を見つめる。
「そこまでする必要はありませんし、それに寒河江さんほどの方なら、調べるのも一言ですむでしょう?」
玉巳と史弥の過去は、南波大学では誰もが知っている話だ。
少しの沈黙の後、伶がようやく口を開いた。
「はっきりさせておこう。このプロジェクトがLSの手に入ったら、白川史弥はいずれ必ず君にたどり着く。もしそれが外に漏れたら、LSにとっては大騒動になる」
ここで伶はわざとらしく言葉を切り、その高い体を悠良に近づけた。
温かい唇が彼女の丸い耳たぶをかすめ、低く笑う。
「その時には、『君が寒河江社長と結託してる』なんて噂されるかもな。その濡れ衣、背負う覚悟はあるのか?白川奥様」
白川奥様という言葉が一語一語、重くのしかかる。
悠良の体がこわばる。
彼女は、伶の言いたいことが分かった。
今の行動は、自ら火に飛び込んでいるようなものだ。
だが、彼女にとってはこのプロジェクトを仕上げてから去ることが最優先。
その後の評価や噂は、どうでもよかった。
悠良の重たい表情が、徐々に和らぐ。
「それなら寒河江さんにお任せします。商人にとって、プロジェクトで確実に利益が出れば、それで十分でしょう?」
彼女には分かる。
この男は史弥を恐れるようなタイプではない。
伶の中には、恐れ知らずの冷酷さがあるのだ。
伶は視線をそらし、またいつものけだるい雰囲気に戻って彼女に声をかける。
「おい」
悠良は顔を上げた。
「え?」
伶は彼女の頭越しに向こうを見つめながら、からかうような口調で言う。
「君のご主人、こっち見てるみたいだぞ?」
悠良は全身をこわばらせ、ぎこちなく振り返った。
案の定、史弥の視線がまっすぐに彼女を捉えていた。
二人の間に、一瞬の沈黙が走る。
悠良を見つけた時の史弥の目に、一瞬驚きが宿った。
しかし次の瞬間、彼女の隣に立つ伶を見て、表情が曇った。
玉巳は史弥の表情に気づかず、軽やかに近づいて悠良に声をかけた。
[奇遇ですね。悠良さんが来ると分かってたら、私、史弥について来たりしませんでしたよ。あでも、誤解しないでください。私、白川社長に同伴者いなかったから、仕方なく付き添っただけで......]
玉巳はどこか落ち着かない様子で、手を動かしながら説明した。
話すうちに頬が赤くなり、不安そうな目で悠良を見上げる。
悠良は、まるで悪役になったかのような気分だった。
自分がこの子をいじめてるように見える。
そのとき史弥が我に返り、悠良の手を取って言った。
[家でゆっくり休めって言ったじゃないか。なんでわざわざここに......?]
その一言に、彼女は彼の言葉が心配なのか非難なのか分からなくなった。
彼女は表情を変えずに言った。
「前に言った大学の卒業制作よ。今日が撮影初日って聞いたから。史弥は会社のことで忙しいでしょうし、だから自分でタクシーで来たの」
玉巳はそれを聞いて、とっさに手を後ろに隠そうとした。
しかし悠良の視線が彼女の手首をとらえ、驚いたように言った。
「石川さん、そのブレスレット、どうしてあなたがつけているの?」
玉巳は隠す間もなく、悠良に手首を掴まれ、水色のブレスレットが完全に露わになった。
伶は椅子の背にもたれ、腕を組んで余裕の表情で一部始終を眺めていた。
空気が一気に重くなる。
悠良は突然声のトーンを上げて、史弥の顔を見据えた。
「わかった。これってサプライズだったのよね?こっそり落札して、私に驚かせようとしたんでしょ?」
史弥は一瞬戸惑ったが、彼女の言葉に合わせるしかなかった。
[ああ、そうだよ。ちょうど接待のついでに立ち寄って、つけてもらって見てみようと思って。ずっと前からこのブレスレット、気にしてたんだから]
悠良はにこやかに目を細めて笑った。
「ちゃんと覚えててくれたのね。石川さん、わざわざ代わりに試着してくださってありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
玉巳の顔が青くなったり白くなったりして、怒りをこらえていたが、悠良が手を差し出すのを見て、仕方なくブレスレットを外した。
しばらく迷ってから、それを悠良の手のひらに置く。
悠良は満足げにそれを自分の手首にはめ、わざと史弥と玉巳の前で軽く揺らしてみせた。
「どう?似合う?」
[とっても似合うよ]史弥はいつものように優しく答えた。
「あれ?寒河江社長じゃないですか?悠良さんが寒河江社長と一緒にいるなんて......うちの会社って、LSとは取引してたっけ?」
ここで玉巳が、ふわりとした声で急に訊ねてきた。
第7話
問題なく進行されていたはずなのに、突然の火の粉は伶と悠良の元に飛び火した。
悠良の心臓は、つり上がるように強く締めつけられた。
業界の人間なら誰でも知っているが、白川社とLSは宿敵関係にあり、雲城(くもじょう)の中で互角に渡り合えるのはこの二社しかない。
そんな中、彼女がライバル会社の人間と親しげにしていれば、疑いの目を向けられるのも無理はない。
けれど、演技力さえしっかりしていれば、問題ない。
彼女はあくまで落ち着いた様子で答えた。
「さっきうっかり寒河江さんの靴を踏んでしまって......礼儀として謝っておくのは当然でしょ?別に大したことじゃないわ」
伶は軽薄な調子で受けた。
「そうだったよ、白川奥様はちょうど謝ろうとしてたんだけど......残念ながら白川社長が来ちゃったってわけ」
史弥は伶を睨みながら、眉間に皺を寄せて、不機嫌そうな顔をしていた。
「れ......」
「せっかく来てくれたんだ。だったらこの謝罪は白川社長が奥さんの代わりにすればいい。俺、あんまり女性を困らせるのは好きじゃないんだ」
史弥が口を開きかけたところで、伶が容赦なく遮った。
悠良はそれを聞いて、目を丸くして伶を見た。
この男、よくもそんな白々しいことを言えるな。
さっき転びそうになったのは誰のせいだと思ってるのか。
今になって「女性を困らせるのは好きじゃない」なんて、どの口が言うのか。
史弥は黙ったまま、目元がどんよりと曇っていた。
どういうわけか、悠良には今日の史弥がやけに様子がおかしく見えた。
特に伶と顔を合わせてからというもの、明らかに不安定だ。
少しして、伶は眉間を揉みながら、うんざりしたように催促した。
「白川社長は奥さんを命より大事にしてるって噂だけど......あれは嘘だったのか?」
ただの軽口のように聞こえるはずの一言も、伶の口から出ると異様な威圧感を放つ。
かつての悠良なら、すぐにでも史弥を庇っていたはずだ。
彼女は身内を守ることに関してはとにかく徹底していて、自分が責められるのは構わなくても、大切な人が傷つけられるのは絶対に許さなかった。
でも今の彼女は、ただ静かに見守っていた。
史弥がどう選ぶのか、それを見届けたかった。
彼のプライドは人一倍高い。
華やかに成功した男が、競合相手に頭を下げるなんてあり得るのか?
それに周囲には見物人も多く、この様子が明日には話題になることは目に見えている。
場の空気はどんどん張り詰めていった。
すると玉巳が、おずおずと口を開いた。
「寒河江社長、たいしたことじゃないですし......靴のことなら、弁償しますから......」
伶は切れ長の目尻を上げて、皮肉気に言った。
「まさかお嬢さんは、白川社長の次のお相手?」
その一言で、玉巳の顔色はぐっと曇った。
史弥は彼女を庇うように後ろに引き寄せた。
「紹介が遅れた。彼女はうちの新しい社員、石川玉巳です」
伶は手元の腕時計を弄びながら、そっけなく返した。
「ああ、そう」
玉巳の目は、まるで驚いたウサギのように真っ赤になり、今にも泣き出しそうな顔で史弥の背中にしがみつく。声は涙に濡れたように震えていた。
「......史弥......」
史弥は顎をぐっと引き締め、拳を握っては開き、深く息を吸ってからようやく口を開いた。
「妻が過ちを犯した以上、夫として責任を取るのが筋だ。どのような謝罪をすればいい?」
ちょうどその時、ウェイターが通りかかった。
伶は手を軽く上げて指示する。
「このシャンパン一本、全部飲んでくれたら......今回の件は水に流すよ」
玉巳は慌てて手を伸ばして止めに入る。
「だめです、史弥はお酒に強くないんです。寒河江さん、私が代わりに飲みます!」
そう言ってシャンパンを手に取ろうとするが、史弥がそれを奪い取った。
彼は眉をひそめる。
「やめろ。君はアルコールアレルギーだろ」
その言葉を聞いた悠良は、ぐらりと体を揺らし、後ろに二歩ほどよろめいた。
喉が詰まり、息が苦しい。
彼は、玉巳が酒に弱いことは覚えていたのに、自分がハウスダストアレルギーだということは忘れていた。
椅子の背に手を添える彼女の指先は、血が引いたように真っ白になっていた。
史弥はそのままシャンパンを煽るように飲み干した。
玉巳は涙ぐみながら、心配そうに彼を見つめている。
伶は、その様子をまるで芝居でも見ているかのように椅子にもたれて見物し、飲み終えた史弥に拍手を送った。
「さすがは白川社長、いい飲みっぷりだ」
そう言い残し、伶は無造作に手をひらひら振ってから両手をポケットに突っ込み、オークション会場を後にした。
史弥は今にも吐きそうなくらいに気持ち悪そうだったが、それでも無理やり顔を上げて、顔面蒼白の悠良を見た。
ふらつきながら彼女の前まで来て、手を握りしめて言った。
[寒河江伶は善人じゃない。これからは......近づかないように]
彼が立っているのもやっとだと見て、悠良は急いで彼の腕を支えた。
「まずは帰って、酔い止めでも飲んで」
史弥は横を向いて、玉巳に言った。
「タクシーで帰れ。着いたらメッセージをくれ」
玉巳は甘えるように頷いた。
「うん......」
そして悠良の方へ向き直り、手を差し出しながらにっこりと微笑む。
[悠良さん、史弥のことよろしくお願いしますね。お酒に弱くて、飲みすぎると翌朝いつも胃を痛めるんです。お粥、作ってあげてください]
その言葉に、悠良の呼吸が止まりそうになる。
だが正面からの返答はせず、ただ淡々と返す。
「ありがとう、石川さん。それと、今後は公共の場では白川社長と呼んだ方がいいよ。万が一、石川さんのことを愛人と誤解されでもしたら困るでしょう?」
言い終えると、彼女は玉巳に反論の余地を与えることなく、史弥を支えて会場を後にした。
玉巳は二人の背中を見つめながら、唇をきゅっと噛みしめる。
目には強い悔しさがにじんでいた。
悠良が史弥を支えながら外へ出たとき、視線の端に映ったのは、少し離れた場所でブガッティにもたれかかる伶の姿だった。
タバコをくわえ、電話をしている彼がふとこちらを振り向く。
その瞬間、鋭く冷たいその目と視線がぶつかり、悠良の心臓は一拍跳ねたように強く動いた。
慌てて目を逸らし、車のドアを開けて史弥を中に乗せる。
車は伶の車とすれ違うようにして走り出した。
悠良は後部座席に座りながら、背中に何かが刺さるような違和感を感じた。
冷たいものが背筋を這う。
伶は、なぜあんなにも史弥に対して敵意をむき出しにしていたのか?
誰が見ても、明らかにターゲットにしていた。
史弥は長年ビジネス界で戦ってきた男だ。
誰かの前であれほどまでに狼狽える彼を、悠良は今まで見たことがなかった。
もしかすると、二人の間には、自分の知らない何かがあるのかもしれない。
シャンパン一本を空けた史弥の身体は、完全に酒にやられていた。
車内には強いアルコールの匂いが充満し、悠良は思わず顔をしかめる。
反射的に、軽く嘔吐感が込み上げた。
急いで窓を開けて空気を入れ替えると、ようやく気分が少し落ち着いた。
家に戻ると、使用人の森と一緒に史弥を部屋まで運んだ。
森は史弥の様子を見て驚いたように言った。
[奥様、私、酔い覚ましスープを作ってきますので......旦那様のこと、お願いします]
「ええ、わかったわ」
悠良は、唇が乾ききって皮まで剥けている史弥を見て、水を取りに行こうと立ち上がった。
その瞬間、
「行かないで......離れないでくれ......俺、絶対金持ちになる......絶対、君を嫁にもらうから......玉巳......」
その言葉を聞いた悠良の心は、一晩かけてかき乱された感情が、一気に崩れ落ちるような音を立てて沈んでいった。
ずっと思っていた。
彼が会社を継ごうと努力しているのは、自分のためだと。
幼い頃の傷を癒すために、より良い未来を与えようとしてくれているのだと。
彼がどれだけ辛い時でも、彼女はそばにいた。
徹夜だって接待だって、胃から血を吐くほど飲まされても、決して文句一つ言わなかった。
でも、今になって彼が言った。
自分がここまで頑張ってこれたのは、玉巳のためだったと。
じゃあ、自分はなんだった?
第8話
史弥は一晩中まともに眠れず、頭はぼんやりし、体全体がべたつくような不快感に包まれていた。
目覚めると、胃の中は空っぽで、刺すような痛みが周期的に襲ってきた。
寝返りを打つと、隣が空いていることに気づき、こめかみを揉みながら呟いた。
「悠良......」
そのとき、ドアが開いて、森が立っていた。
「白川様、目を覚まされましたか」
史弥は布団をめくりながら尋ねた。
「悠良は?」
「奥様は朝早くから会社へ向かわれました」
彼は起き上がり、服を着て食卓へ向かった。
だが、テーブルの上にはパンと牛乳しかなく、自然と眉間にしわが寄った。
「お粥は?」
森はうつむいて答える。
「申し訳ありません、白川様。私はお粥を作れませんし、奥様は仕事が忙しいので、もう作る時間がない......適当に召し上がってくださいとのことでした」
史弥の胸中には得体の知れない苛立ちがこみ上げてきた。
彼は酒を飲んだ翌朝、必ずと言っていいほどお粥を口にしてきた。
どれだけ忙しくても、たとえ夜中の四時や五時に起きてでも、彼女は自らお粥を煮てくれていた。
今回が初めてだった。
酔い覚めの朝、食卓がこんなにも空虚に感じたのは。
胃の痛みが再び襲い、彼は無意識に腹部を押さえ、身をかがめた。
「胃薬を持ってこい」
森は慌てて家中を探し回る。
「白川様、胃薬はどこに置いてあるのでしょうか」
そのとき初めて、史弥は我に返った。
これまでは胃痛が起きる前に、悠良が常に薬をテーブルに置いてくれていたのだった。
彼は手を軽く上げて言う。
「悠良に電話して聞いてみろ」
森はすぐに電話をかけたが、何度かけても応答はなかった。
何度か試した末に、彼はスマホを仕舞った。
「奥様は出られませんでした」
胃の痛みに加え、冷えた食卓が彼の苛立ちに拍車をかけた。
「もういい。外で胃薬と粥を買ってきてくれ」
「はい」
だが、外で買った粥など悠良の手作りには到底及ばない。
彼女は彼の胃の弱さを気にかけ、いつも深夜三時に起きていた。
そうして長時間かけて丁寧に煮込んだ粥こそが、柔らかく香り高い味になるのだ。
森が買ってきたのは、雲城で最も高級なレストランの粥だったが、史弥は二口ほど食べただけで、もう食欲を失ってしまった。
「まずい」
......
その頃、悠良はカフェでコーヒーを飲みながら、朝食を優雅に楽しんでいた。
彼女はスマホに表示された着信画面を見て、唇の端に冷たい笑みを浮かべる。
彼女が史弥に尽くす理由は、彼の心が彼女にあるという前提があってこそ。
だが今や、彼は体も心も他人のものとなっている。
彼女にそんなことをする義理などなかった。
あと十日もすれば、この腐りきった関係に終止符を打てる。
とはいえ、今の彼女にとっての問題は、伶を説得しなければならないことだった。
この男はまるで鋼鉄のように硬く、少しも妥協しない。
伶は典型的な商人で、結果しか見ない。
私情など一切挟まない。
そんな彼の心を動かすには、満足のいく条件を提示するしかない。
何があろうと、最後の瞬間まで、彼女は諦めないつもりだった。
腕時計の時間を確認した悠良は、残りのコーヒーを飲み干し、会社へと向かった。
オフィスに入ると、社員たちが玉巳を囲んで、羨望の眼差しを向けていた。
「玉巳、そのネックレスすごく綺麗ね。確かオークション限定のコレクション品だったよね?かなり高価なはず」
玉巳は取り囲まれながら、透き通るような白い顔に幸せの笑みを浮かべていた。
首元のネックレスを大切そうに撫でながら言った。
「うん、彼氏が買ってくれたの。他の人にあるものは、うちの子にもって言って」
その言葉に女性社員たちはさらに大騒ぎ。
「愛が深いのね、彼氏さん」
彼のことを話すときの玉巳の目には、少女のような照れが浮かんでいた。
「妊娠したら、もっと大きなプレゼントがあるって言ってくれたの」
少し離れた場所でそれを耳にした悠良の体は、錆びついたかのように動かなかった。
ある社員が彼女に気づき、慌てたように挨拶する。
[小林さん、おはようございます]
悠良は思考を引き戻し、淡々と応えた。
「おはよう」
社員の一人が駆け寄ってきて言った。
[小林さん、玉巳さんのネックレス見ました?すっごく綺麗なんですよ]
悠良の視線は自然と玉巳の首元に向かった。
唇の端が引きつる。
このネックレス、オークションで出ていた「永遠」じゃないか?
史弥、やけに両方に気を使っているようね。
どちらも満足させようとして、白川社の案件も抱えてるのに、疲れないのかしら?
悠良は率直に言った。
「綺麗だね。でも昨日のオークションには石川さんの彼氏はいなかったよ?今度機会があったら紹介してね」
玉巳は目を三日月のように細めて微笑む。
[機会があればね]
悠良は視線をネックレスに定め、その冷たいチェーンを指先で軽くなぞった。
「これ、かなりの高値だったはず。石川さんの彼氏も業界の方?お名前は?もしかしたら知っているかもしれない」
社員たちも興味津々に身を乗り出す。
「そうですよ、業界の方なら、小林さんなら絶対にご存じでしょう。教えてくださいよ」
「ねぇ、教えて教えて」
さっきまで笑顔だった玉巳の表情が、名前に言及された途端に少しずつ曇っていく。
悠良は鋭い目で彼女の微かに緊張した顔を見据えた。
「どうしたの?もしかして、言いにくい?」
この一言で、周囲には様々な憶測が広がった。
もし誠実な交際相手で、しかもこんなに裕福なら、名前を言うのに恥じる理由はないはずだ。
何かしら隠しているのでは、と、誰もが薄々感じ取った。
そのとき、不意に鋭い男性の声が背後から響いた。
「朝っぱらから、何を集まってる?仕事はどうした?」
「白川社長が来た......!」
全員が慌てて自席へと戻った。
史弥はポケットに手を突っ込んだまま現れ、酔いの残る顔にはやや疲れが見えるものの、端正な顔立ちは隠しきれない。
鷹のような鋭い眼差しを向けながら、彼はゆっくりと二人の前に歩み寄り、悠良に視線を向けてスマホを掲げた。
[なんで電話に出なかった?]
悠良は無意識に玉巳に目をやり、淡々と応じた。
「気づかなかったの。さっき皆で話してたのよ、石川さんの首元の『永遠』。彼氏からの贈り物なんだって。史弥は何か知ってる?」