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離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた
如月透子(きさらぎ とうこ)が新井蓮司(あらい れんじ)と結婚して二年―― その二年間、彼女は彼の専属家政婦のように働き詰めだった。尽く...
Chương (1)
第1章
如月透子(きさらぎ とうこ)が新井蓮司(あらい れんじ)と結婚して二年――
その二年間、彼女は彼の専属家政婦のように働き詰めだった。尽くして、尽くして、尽くしきって、心なんてすり減る暇もなく、ただただ塵にまみれていた。
そしてその二年が、彼への最後の愛情をすっかり削り取った。
初恋の女が帰国したとき、すべては終わった。
紙一枚の離婚届。それで二人は他人になった。
「蓮司……もし、愛なんてなかったら、あんたのこと……もう一度でも見ると思う?」
蓮司はあっさりと離婚届にサインした。
彼にはわかっていた――透子は自分を骨の髄まで愛していた。だからこそ、離れるわけがないって。
涙ながらに後悔して、きっと戻ってくる。そう信じていた。
……なのに。
彼女は本当に、彼をもう愛していなかった。
それから、昔のことが次々と明るみに出た。
真実が暴かれたとき――誤解していたのは、彼のほうだったと気づいた。
動揺した。後悔した。謝罪して、やり直したいと縋った。
でも、透子はもう迷惑そうに一蹴して、SNSで堂々と婿を募集し始めた。
蓮司は嫉妬に狂った。発狂するほどに、どうしようもないほどに。
やり直したい、そう思った。
けれど今回は……彼女に近づくことすら、できなかった。
第1話
如月透子(きさらぎ とうこ)が離婚を決めた日、二つの出来事があった。
一つ目は、新井蓮司(あらい れんじ)の初恋の人が海外から帰国したこと。
蓮司は億単位の金を注ぎ込んで、特注のクルーズ船で彼女を出迎え、二人きりで豪華な二日二晩を過ごした。
メディアはこぞって、二人がヨリを戻すと大騒ぎだった。
もう一つは、透子が大学時代の先輩の誘いを受けて、かつて二人で立ち上げた会社に戻ると決めたこと。
部長として、来月から新たなスタートを切る予定だった。
もちろん、彼女が何をしようと、誰も気にも留めない。
蓮司にとって、透子はただの「新井家に嫁いできた家政婦」に過ぎなかった。
彼女は誰にも知らせず、
ひっそりとこの二年間の痕跡を新井家から消し去り、
密かに旅立ちのチケットを手に入れた。
三日後には、
ここでのすべてと、蓮司との関係は完全に終わる。
――もう、赤の他人になるのだ。
【迎え酒のスープを届けろ、二人分】
突然スマホに届いた命令口調のメッセージに、透子は目を伏せ、指先が震えた。
今は夜の九時四十分。
蓮司はちょうど朝比奈美月(あさひな みづき)の帰国パーティーに出席している最中。
かつて彼は、決して透子に外で酒のスープを持ってこさせなかった。
彼女の存在を世間に知られるのが恥ずかしいからだと、家の中だけで飲んでいた。
だからもし、前だったら――
「やっと自分を認めてくれたのかも」なんて、喜んでいたかもしれない。
でも今は違う。
視線は「二人分」の文字に留まる。
――そう、これは美月のためのスープだ。
本物の「愛」の前では、彼は堂々と「価値のない妻」を見下し、さらけ出すことを恐れなくなった。
透子は静かに手を下ろし、キッチンに向かってスープの準備を始めた。
蓮司の祖父との契約も、あと29日で終わる。
カウントダウンの画面を一瞥し、ため息が漏れる。
契約が切れたら、やっと自由になれる――
二年も傍にいたのに、愛は一片も手に入らなかった。
所詮、それが現実だった。
もう、愛する力すら残っていない。
最後の一ヶ月。
「妻」としての仕事だけは、きっちり終わらせるつもりだった。
鍋の中、ぐつぐつと煮立つスープは、彼女が最も得意とする料理。
なにせこの二年、何十回とその男のために煮込んできたのだから。
ふと目を奪われ、胸の奥がじんわりと冷えていく。
三十分後、きっちりと蓋を閉めた保温容器に、スープを二人分詰め、タクシーでホテルへ向かった。
車内で、透子は朝届いた見知らぬ番号からのメッセージを見返す。
【透子、覚えてる?私、美月だよ。帰国したの。また会えてうれしいな。蓮司を奪ったことは気にしてないよ。私たち、ずっと親友だったじゃない?今夜、ご飯でもどう?】
蓮司から歓迎会の話なんて一言もなかった。
透子がそれを知ったのは、美月からの「お誘い」があったからだった。
その文章の行間から滲む「寛大で気にしてないフリ」に、透子は皮肉に口元を歪めた。
奪った……?
違う。蓮司の祖父が反対したんだ。
美月は二億の慰謝料を受け取って、海外に行ったはずだ。どこが「奪った」?
確かに、彼に対する欲はあった。
でも自分から奪いにいったわけじゃない。流れに乗っただけ。
「寛大で善良な女」?ふん。
昔なら信じていたかもしれない。
でも高校に上がってから、全てが嘘だと知った。
遅すぎたけれど――
あのとき、自分はすべてを失った。
人間関係も、居場所も。孤立無援で、陰湿ないじめの標的だった。
……そしてその裏には、美月の影があった。
今日のパーティーには、当時の高校の「友達」も多数出席している。
当然、みんな美月の味方だ。
透子は、あのパーティーに出るつもりはなかった。
どうせ招かれた理由なんて、歓迎じゃなくて公開処刑。
あの頃の「同級生」と顔を合わせる気分にもなれない。胸の奥がざわつく、ただただ不快だった。
だから、スープだけ渡したらすぐ帰るつもりだった。
目的地に着き、個室の前で深呼吸。心を落ち着かせてから、扉をノックする。
数秒後――
扉が開くと、現れたのは蓮司じゃなく、純白のドレスを纏った美月だった。
「透子、来てくれたんだ!みんな待ってたよ〜」
満面の笑顔にきらびやかなメイク。まるでプリンセスのような装い。
首元には、あのネックレス――「ブルーオーシャン」。
一昨日、蓮司が落札したばかりのもの。やっぱり彼女に贈ったのね。
「いえ、スープを届けに来ただけ」
透子は感情のない声で、淡々と答えた。
「え〜、二年ぶりなのにそんなに他人行儀?私は蓮司を奪われたこと、もう気にしてないのに〜」
美月は唇を噛んで、先に「傷ついたフリ」を演じ始める。
……その猫かぶりな態度にはもう、うんざりだった。
透子はスープを置こうと身体をずらす。
だが、美月はさりげなく手を伸ばし、保温容器の蓋に指をかけた。
「来たくないなら、私が蓮司に渡しておくよ〜」
あくまで「優しげ」に申し出てくる。
透子は眉をひそめた。
すんなり引くような女じゃないのに、あまりに「親切」すぎる……
とはいえ、彼女自身もこれ以上関わりたくなかった。
だから、容器を渡そうと手を伸ばした――その瞬間。
「――っ!」
容器が受け止められず、真っ逆さまに床へ。
ガシャン!
蓋が外れ、熱々のスープが床にぶちまけられる。
そして美月はわざとらしく一歩後ろに下がりながら、甲高く叫んだ。
「きゃっ!痛っ……足が……!」
次の瞬間、個室の中からいっせいに視線が集まる。
蓮司がすでに立ち上がり、素早く駆け寄ってきた。
「透子、お前は……スープ一つもまともに持てないのか?」
彼は半身をかがめ、脱いだジャケットで美月の足を拭きながら、怒りに満ちた声で透子を叱りつけた。
「私……」
透子が言葉を紡ぐよりも早く、
「蓮司、透子を責めないで。私が受け取り損ねたの」
美月がしおらしく庇ってみせる。
蓮司は床に落ちた容器の蓋を拾い上げた。
割れてもいない、傷もない――完璧に無傷。
「これ、どう説明する?美月が手を滑らせた?それとも最初から蓋を開けて持ってきた?」
彼は鋭く睨みつける。
透子は驚きで言葉を失った。
この保温容器は頑丈そのもので、普通に落とした程度で蓋が外れるなんてありえない。
けれど、現に蓋は外れていて、しかも傷一つついていない。
「私は開けてない。じゃなきゃ道中こぼれてるはずでしょ」
必死に言い返す。
「言い訳は結構。やったことはやったことだろ」
蓮司の声は冷たく切り捨てるようだった。
彼にとって透子は――金目当てで祖父を丸め込み、
美月を追い出し、無理やり妻の座を奪った女。
信じる理由なんて、どこにもなかった。
蓋を放り捨て、蓮司は美月を抱き上げようと身を屈めた……
そのとき――
視線の端に、赤く腫れた透子の足が映る。
スープを浴びたのは、美月だけじゃなかった。
むしろ透子のほうが広い範囲をやられていた。
眉をわずかにひそめる。何かが一瞬、胸をよぎった。
……でも、それだけだった。
すぐに視線を逸らし、口をつぐんだまま立ち上がる。
透子がどれだけ火傷していようが、自業自得だ。
他人を傷つけようとした報いだと思えば、同情する理由なんてない。
美月を横抱きにすると、彼女は恥じらいながらも、心配そうに言った。
「蓮司、透子の足……」
「気にするな。死にゃしない。勝手に病院行くだろ」
吐き捨てるように答えた。
「お前はモデルなんだ。足が命だろ。そっちが優先だ」
第2話
蓮司は美月を抱きかかえたまま、大股でその場を後にした。
通り際――
彼の肩が透子にぶつかる。
その衝撃で、透子はよろけてドアフレームに寄りかかる形に。
火傷した足とすねに激痛が走り、思わず壁に手をついて踏ん張った。
個室の中からは、様々な視線が飛んでくる。
蔑み、冷笑、嘲り――
でも、もうどうでもよかった。
ゆっくりと背を向け、壁伝いに体を支えながら、透子はその場をあとにした。
ようやくたどり着いた診療室。
看護師がやって来て、患部を見た瞬間、息をのんだ。
「なにこれ……こんなに酷く……っ!」
足の甲には、いくつもの水ぶくれが盛り上がっていた。
最大のものはまるで小籠包のように膨らみ、他も真珠の粒のように連なっている。
まさに、見るに堪えない有様だった。
「どうやったら、こんなに……?」
透子は痛みに耐え、歯を食いしばったまま、言葉を発せなかった。
顔の筋肉もこわばり、答える余裕なんてなかった。
看護師は薬を塗りながら、独り言のように言った。
「さっきも火傷した子がいたけど……彼氏が大騒ぎして、主治医まで呼んでたわ。ほんのちょっと赤くなっただけなのに、あれくらいならすぐ治るのにね」
その言葉を聞いた瞬間、透子の胸に苦さが広がる。
――あれは、きっと美月と蓮司。
彼は、美月が少しでも傷つけば、世界が壊れるかのように慌てる。
看護師でさえ、二人を恋人同士だと疑わなかった。
「もしあの子が、こんなに酷い火傷してたら、あの男どうなってたかしらね」
看護師の軽口が続く。
透子は自分の足を見下ろした。
膨れ上がった水ぶくれが、薄く透ける皮膚の下に光っていた。
……もしこれが美月だったら。
きっと蓮司は市内の名医を全員集めてでも、治療させたはず。
だけど、相手が透子なら――
一人で病院に行かせ、顔ひとつしかめもしない。
その違いは、あまりにも明白だった。
手元のスマホが震える。
画面には「蓮司」の名前。
今頃、美月のそばにいるはずなのに――なんで電話なんか。
透子はディスプレイを下にして、無言で机に伏せた。
ちょうどその時。
看護師が、最大の水ぶくれを針で潰そうと準備していた。
組織液が溜まりすぎて、自然治癒は望めなかったから。
そのタイミングで――
蓮司が診療室に姿を現す。
「なんで電話に出ない?」
彼の開口一番は、そんな一言だった。
透子はその声に驚き、思わず顔を上げる。
けれど、喧嘩する気も、話す気も起きなかった。
ただ静かに、事実を告げる。
「……マナーモードにしてた。気づかなかっただけ」
彼の視線がスマホへと落ちる。
確かに、スマホは伏せられていて、通知に気づけなかったのも無理はない。
その確認が取れた途端、彼の苛立ちは少しだけ収まった。
そこへ、看護師が振り返り、じっと彼を見つめる。
――さっき、別の女を抱えて大騒ぎしていた張本人。
疑いと皮肉の混じった目で問いかける。
「あなた、彼女と……どういう関係?」
問いかけに、蓮司が答えようとしたその時。
「蓮司、透子は大丈夫?」
美月の声が、背後から届いた。
その瞬間、「俺の妻」という言葉が、彼の喉に詰まる。
唇がかすかに動くだけで、音にはならなかった。
透子は、その一瞬の迷いを見逃さなかった。
乾いた笑みを浮かべて、自分から口を開いた。
「関係ないのよ、私たち」
その言葉に、蓮司は無性に腹が立った。
自分でもなぜ怒っているのか、分からなかったけれど。
「彼女は、俺の妻だ」
彼は睨むように言い放った。
「お前が無理やり嫁いできたんだろ?今さら外で他人面か?」
投げつけるような言葉。
その奥には、苛立ちと混乱が渦巻いていた。
透子は蓮司を見上げ、眉をわずかに寄せた。
戸惑いと、皮肉混じりの感情が入り混じる。
……認めたくなかったのは、あんたじゃないの?
ただ、言葉に詰まってるのが見えたから、助け舟を出してやっただけ。
後ろで、蓮司の「俺の妻だ」という言葉を聞いた美月が、一瞬きょとんとした顔を見せた。
でもすぐに、視線を透子へと向け、憂いを帯びた目で睨みつける。
艶やかなネイルが、ぎゅっと拳に食い込んでいた。
看護師が三人を見比べ、呆れたような声で言い放った。
「関係ない人は出てってください、治療の邪魔です」
「関係ない人」――
その言葉に蓮司が眉をひそめ、何か言い返そうとしたとき。
看護師が体を動かした拍子に、透子の足元が彼の視界に飛び込んできた。
……赤く腫れ上がった皮膚、大きな水ぶくれ。
その生々しい傷跡が、彼の胸にチクリと刺さった。
言葉を失い、彼は一瞬立ち尽くす。
反射的に、美月を外へ制し、自分も壁際へと移動する。
部屋の光を遮らないように――それだけを気にして。
ただ立ったまま、動けなかった。
目の前のその足が、脳裏に焼き付いて離れない。
脚の甲からふくらはぎまで、広がる赤い腫れ。
その上に膨らんだ水ぶくれが点々と並んでいる。
看護師が慎重に針を刺し、滅菌布で液を吸い取るたび、透子の足がぴくりと震えた。
「名義上の妻」
彼女はそう呼ばれていた。
祖父を通して強引に結婚させられた存在――そんな風に、ずっと思ってきた。
けれど今、目の前にいる透子は、
想像よりもずっと細くて、か弱くて……
「しばらくは靴を履かないように。
なるべく歩かず、薬は一日三回」
看護師が指示を出す。
透子は無言で頷き、立ち上がろうとする。
だが、足に走る激痛で、体全体がガタガタと震える。
その瞬間、蓮司がさっと駆け寄り、
躊躇なく彼女を抱き上げた。
「なっ……!」
バランスを崩した透子は、反射的に彼の肩にしがみつく。
でもすぐに我に返り、慌てて手を放す。
「……降ろして」
「しがみついとけ。落ちても文句言うなよ」
彼はあくまで淡々と言うだけ。
そのまま、両腕抱きから片腕抱きに切り替えた。
透子は再び落ちないよう、仕方なく彼の首に手を回す。
もう分かっていた。
この抱擁には、愛情なんて欠片もない。
彼にとってこれはただの「義務」か「後ろめたさ」か。
もしかしたら、祖父に知られて怒られるのが嫌でやっているだけかもしれない。
蓮司が透子を抱えて病室の外に出たとき、
美月が作り笑いを浮かべながら近づいてくる。
「透子、大丈夫?」
その声音が、透子には耳障りで仕方なかった。
何も言わず、目すら合わせない。
わざわざ相手の茶番に付き合う気などさらさらない。
そんな中、蓮司が口を開いた。
「美月、透子の足が酷くてな。自分じゃ歩けない」
美月は相変わらずの笑顔で、さも気にしてない風に言う。
「大丈夫よ、説明なんていらないわ。だって透子は蓮司の奥さんなんだから、抱っこして当然よ?それに怪我までしてるんだし」
その優しさめいた言葉に、透子の胸の奥が、さらに冷たく沈んでいった。
第3話
蓮司は一瞬言葉を飲み込んだ。
唇をきゅっと引き結び、結局なにも答えなかった。
それを聞いていた透子は、乾いた笑みを浮かべる。
……私は彼の「妻」なのに、まるで自分が浮気相手みたい。
蓮司は無言で前を歩き、美月は彼の横にぴったりついてくる。
透子が何も言わなくても、「あの女」はいつも通りの振る舞いを続けた。
「透子、痛かったよね……ごめんね?
蓮司が先に私を病院に連れてきたのは、モデルの仕事のこと考えてくれたからなの。責めないであげて?」
透子はうっすらと唇を歪め、冷たく返す。
「責めてないよ。だって、あんたが一番大事なんでしょ?」
事実を言っただけ。
けど、それが蓮司には皮肉に聞こえたらしい。
「何その言い方?確かに美月が手を滑らせたかもしれないけど、
お前が蓋をちゃんと閉めてなかったのも問題だろ」
……説明したって無駄だ。
何度弁解しても、この男が信じるわけない。
透子はただ、無言で彼を見上げるだけ。
その目に映るのは――感情のない、冷たい光。
その目を見た瞬間、蓮司はなぜか胸の奥がざわついた。
あの女が……少し、変わった気がした。
「もういいって。私も大したケガじゃないし。
蓮司も、透子をあまり責めないであげて〜?」
美月はタイミングを見計らったように口を挟む。
その顔はいつもの通り「寛容な女」を演じていた。
「それに透子も怪我してるんだから、そんなにキツく言わなくても……」
聞いていた透子は、吐き気すら覚えた。
――被害者は自分なのに、加害者にされて、
あの女は「寛大な女」みたいな顔して、堂々と話してくる。
「次は気をつけろよ」
蓮司がそう言ったとき――
次?
そんなもの、もうあるはずがない。
透子は小さく、冷笑した。
ちょうどそのときだった。
背後から「きゃっ」という悲鳴。
蓮司が振り向くと、美月が地面に座り込んでいた。
片足を抱え、顔を歪めている。
「美月!」
蓮司は焦ったように叫び、何のためらいもなく透子を放り出した。
「きゃっ……!」
衝撃に備える間もなく、透子は地面に叩きつけられた。
その場に倒れ込み、強く息を吸い込む。
痛みが、全身を駆け巡る。
だが、蓮司はすでに美月のもとへ駆け寄り、彼女を抱きかかえると診察室へと急ぐ。
その背中が見えなくなる直前――
蓮司はふと振り返った。
そこには、地面に手をつきながら、必死に立ち上がろうとする透子の姿があった。
眉間にしわを寄せながら、耳に届いたのは美月の泣き声。
「痛いよぉ……足首ひねっちゃったみたい……
どうしよう、あさってショーなのに……」
「大丈夫。すぐに診てもらおう」
蓮司はそう言って、もう一度振り返ることなくその場を後にした。
彼の背中が見えなくなってから、透子は必死に身体を起こそうとした。
だが、痛みによって腰すら真っ直ぐ伸ばせず、その場で小さくうずくまるしかなかった。
誰も助けてはくれなかった。
涙がにじみ、手を挙げてタクシーを止めた。
車内――
透子は自分の足元を見つめた。
さっき倒れたとき、尖った石にぶつかったのか、足の指から血がにじんでいる。
それだけじゃない。
尾てい骨も痛み、肘の皮膚も大きく擦りむけていた。
ハンカチで血を拭き取りながら、
大粒の涙がぽろぽろと落ちて、止まらない。
だけど、泣き声だけは我慢した。
噛み締めた唇の奥で、静かに耐える。
……あと、もう一ヶ月。
それだけ我慢すれば、やっと自由になれる。
そのとき、スマホが震えた。
画面に映ったのは――あの「知らない番号」。
【ごめんね透子。蓮司が私の足を診てもらうために送ってくれたの。
また透子を放ってしまって、本当にごめんね。
もう少しだけ、彼に付き合ってもらってもいいよね?】
透子はスマホの画面を見て、一瞥するだけでスルーした。
――彼らが別れて、もう二年。
それでも蓮司は、ずっと変わらず美月を愛している。
あの女がそこに立っている限り、彼は迷わず彼女を選ぶ。
アプリを切り替えると、そこには昨日届いたメッセージがあった。
送り主は――大学時代の先輩、桐生駿(きりゅう しゅん)だった。
【いつ帰国するの?】
彼には、結婚したことをずっと隠していた。
「海外に行った」とだけ伝え、実際にはずっと京田市にいた。
京田市――狭すぎず、広すぎずの街。
蓮司が結婚したことは世間にも知られていたけれど、相手が誰なのかは伏せられていた。
……それも彼の希望だった。
この二年間、透子は蓮司の生活の「陰」として存在していた。
家と蓮司のもとを行き来するだけの毎日。
社交の場に姿を見せることもなく。
【一ヶ月後に帰国予定。こっちのこと、全部片付けてから】
透子はそう返信した。
――すべて終わらせる。
蓮司との、すべてを。
すぐに駿から返事が届く。
【帰国したら、うちの会社で部長として来てほしい】
彼のその言葉は嬉しかった。けれど透子はその申し出には首を縦に振らなかった。
卒業してすぐに蓮司と結婚し、表向きは「専業主婦」だった。
でも実際は、「専属家政婦」。
大学で学んだことも、もうほとんど忘れてしまっている。
今の自分には、現場に戻るための努力がまず必要だった。
【そんな、もったいないよ。君は部長どころか、もっと上を任せられる人材だよ。
大学のとき、毎年奨学金を取って、大二でチームを率いて起業コンテスト金賞取ったの、忘れたの?】
その言葉を見たとき、透子の手が止まった。
……そうだ、自分は「人材」だったんだ。
目が止まったのは「人材」という言葉。
まるで夢から醒めたような気分だった。
そう、私はできる子だった。
もし先輩の起業を手伝わなかったとしても、きっと今ごろは有名企業の幹部として活躍していただろう。
でもこの二年――
自分は一体、何をしてきた?
恋に縋って、自分を犠牲にして、ひたすらへりくだって。
自分という存在すら、見失っていた。
返信を終えた透子は、画面が蜘蛛の巣みたいになったスマホをそっと閉じ、
シートにもたれて目を閉じた。
頭の中には、あの頃の記憶が浮かぶ。
大学時代、先輩に誘われて起業に参加した。
資金調達のために、透子が訪ねたのが――蓮司の祖父。
彼は出資を承諾した。
ただし条件が一つ。
――蓮司と結婚してほしい。
美月を家に入れたくなかったからだ、と。
その提案に、彼女は舞い上がった。
なぜなら、彼女は高校時代からずっと、蓮司のことが好きだった。
彼が美月と付き合っても、気持ちは消えなかった。
出資も手に入れて、好きな人とも結ばれる――まさに夢のような話だった。
でも今となっては、心底思う。
――後悔しかない。
あれは、天から落ちてきたご褒美なんかじゃない。
むしろ、腐った残飯だった。
タダほど高い代償はない。
本当に、大切なものは、何かを犠牲にしなければ得られない。
第4話
家に戻ったのは、夜の十一時を過ぎたころだった。
リビングの灯りは、最初からつけていなかった。
どうせ今夜も、蓮司は美月とどこかで甘い夜を過ごしているのだろう。
戻ってくるわけがない。
薬箱を手に取り、痛む身体を引きずるようにして、透子は自分の小さな寝室へと向かった。
――結婚して二年。
けれど実際は、まるで「形だけの婚姻」だった。
蓮司は、自分の「本命」を想い続けるため、透子には一度も触れなかった。
主寝室にすら、足を踏み入れさせてくれなかった。
でも、それでよかった。
今となっては、もし彼に触れられていたなら……想像するだけで、吐き気すら覚える。
手足の傷に簡単な消毒と薬を塗るだけで、もう限界だった。
薬箱を片付ける気力もなく、ベッドサイドにぽんと置いたまま横になる。
寝間着に着替え、そっと腰を下ろす。
その瞬間、尾てい骨に鋭い痛みが走り、思わず息を飲む。
できるだけゆっくりと体を横たえ、目を閉じた。
すべてをシャットアウトしようとするように――
間もなく、意識が眠りに沈んでいった。
一方その頃――
蓮司は、美月をホテルまで送り届けていた。
「蓮司、部屋まで……送ってくれる?」
助手席で、美月は潤んだ瞳を上目遣いに、甘く囁く。
けれど蓮司の視線は、運転しながらちらちらとカーナビに映る発信履歴を見ていた。
なぜだか、妙にイライラして、心がざわつく。
これは――二十件目の不在着信。
それでも透子は、一度も電話に出ていない。
その様子を見ていた美月は、車載画面に映る番号に目を留める。
名前は登録されていないが、どこかで見覚えのある番号だった。
スマホを取り出し、自分のメッセージ履歴を確認する。
――透子に送ったメッセージ。番号は……一致していた。
唇を噛みしめ、視線に嫉妬の色が滲む。
ホテルに到着し、車が止まる。
「ねえ蓮司……二年ぶりに会ったんだし、部屋まで一緒に……ね?」
そう言いながら、美月はそっと彼の手の上に手を重ねた。
指先が、シャツの袖口に滑り込む。
それは――明確な誘いだった。
蓮司にその意図が分からないはずがない。
けれど、彼はその手を静かに外し、無言で車を降りる。
助手席側のドアを開けて、彼女を迎えると、低い声で言った。
「……先に上がって。透子に連絡がつかないから、様子を見てくる」
美月は立ち上がり、正面から彼を見つめる。
唇を噛みしめ、悲しげな顔で言葉を投げた。
「……ねえ蓮司、私に隠してることある?
もしかして……透子のこと、好きになったの?
私が足を見せてたときだって、ずっと彼女に電話してたじゃない」
その問いに、蓮司は即座に首を振る。
「あり得ない。あいつは……お前を何度も傷つけた女だ。
愛するわけない」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
そして続ける。
「ただ、あいつがじいさんにチクったら面倒だから、それを防ぎたいだけだ」
そう言えば、理屈は通ると思った。
それが「正しい説明」だと信じ込もうとするように。
美月は、その言葉に満足げに微笑んだ。
――やっぱり、彼の心はまだ自分のもの。
「じゃあ……信じさせてよ、蓮司」
そう囁きながら、彼の唇にそっと指を伸ばす。
「キスして?」
蓮司は、美月の顔をじっと見つめた。
美月はすでに彼の首に腕を回し、今にもフレンチキスを仕掛けようとしていた。
――けれど、蓮司が彼女の唇に落としたのは、ただの額への軽いキス。
まるで蜻蛉が水面をかすめるような、淡い接触。
美月はそのキスに不満げだった。
自ら顔を近づけ、唇を求めようとする。
けれど――蓮司はそれをすっと避けた。
「蓮司……なにそれ……?」
瞳には再び涙がにじむ。
「やっぱり、もう私のこと愛してないの?
あのとき私が蓮司を置いていったこと、まだ恨んでるの?
でも、あれは私のせいじゃなかった……おじいさまが――」
切なげに弁明しようとする美月の言葉を、蓮司は途中で遮った。
「違う。考えすぎだ……ここはホテルの前だ。
外でそんなことして、もしパパラッチにでも撮られたらお前のキャリアに響く」
そう言って、美月の腕をそっと外し、一歩距離を取った。
拒まれた美月の顔には、明らかな落胆の色が広がる。
――どうすれば、また彼の心を掴めるのか?
まさか、本当に透子のことを……?
蓮司はもう車に戻っていた。
泣き顔の美月を見ながら、静かに告げた。
「明日の昼、一緒に食事しよう。
今日はお疲れさま。部屋で休んで」
美月は頷いて笑みを見せた。
気丈に振る舞いながらも、優しく言った。
「うん、明日ね。運転気をつけて……愛してるよ」
けれど蓮司は、その言葉に返せなかった。
唇がわずかに動いたが、「俺も」とは言えなかった。
ただ頷いて、車を発進させる。
――「俺も愛してる」
かつては、何度でも、何百回でも言えたはずの言葉。
なのに今回は、喉の奥で詰まって出てこなかった。
……たった二年の空白。
それだけで、こんなにも変わるものなのか?
車が見えなくなったあと、美月は拳をきつく握りしめた。
その目には、冷たい執念の光が宿っていた。
その頃、蓮司はまた透子に電話をかけていた。
けれど通じないまま、イラ立ちだけが募っていく。
アクセルを踏み込みすぎて、速度計は危険域寸前。
一歩間違えば違反になりかねない勢い。
……病院周辺をぐるりと回ったが、透子の姿はなかった。
――なら、家に帰ったかもしれない。
そのまま自宅のガレージに車を滑り込ませ、
エレベーターを駆け上がるように上がっていく。
指紋でドアを解錠し、いつも通りの光が目に入るはずだった――
……だが、部屋の中は真っ暗だった。
透子はいつだって、自分のために灯りを残してくれていた。
どれだけ遅く帰っても、明かりが灯り、彼女はソファでうたた寝していた。
彼が帰る音がすれば、すぐに目を覚まし、
酒を抜くためのスープを用意してくれた。
けれど今日は違った。
――この二年で、初めての「真っ暗なリビング」
蓮司の胸に、妙なざわつきが走った。
「……帰ってない?」
とっさに電気をつけると、玄関の靴に視線が止まる。
透子の靴。しかもスリッパが一足、足りない。
帰ってはいる――でも、なぜ灯りを消したまま?
なぜ、電話に出ない?
怒りと混乱に駆られ、蓮司は靴も脱がずに客間へ向かう。
ドアノブをひねる――開かない。
拳でドアを叩き、大声で怒鳴る。
「透子!出てこいよ!
二年も「新井家の嫁」やってきて、自分が何者か忘れたのか?
どの面下げて、そんな態度取ってんだよ!」
第5話
部屋の中――
透子はすでに眠りに落ちていた。
だが、突然のドアの叩きつけと怒鳴り声で目を覚まされ、眉をひそめながらゆっくりと身を起こす。
照明をつけ、足を引きずるようにしてドアへ向かう。
「透――」
蓮司がまたしてもドアを叩こうとした瞬間、扉が開き、空振りに終わる。
「何なのよ……帰ってきたと思ったら、深夜にドア殴って何様のつもり?」
その声は冷たく、不機嫌がにじんでいた。
透子のその態度に、蓮司の怒りがさらに燃え上がる。
手を伸ばして、彼女の腕をガシッとつかんだ。
「何って……俺が家に帰ってきただけだろ?それが何かおかしいか?」
その言葉に、透子の表情が一変する。
さっきまでの怒りの気配が引っ込み、苦しげに目を伏せた。
蓮司はてっきり、自分に怒鳴られて黙ったのだと思い込む。
――だが違った。
透子のもう片方の手が、彼の手首を押しのけようとしていた。
そのとき――
ようやく、蓮司は気づく。
自分の掌に伝わる、異様な感触。
反射的に手を離すと――
手のひらには、血の跡が残っていた。
彼が無意識に強く握ってしまったせいで、
透子の傷口が開いてしまっていた。
その痛みに、透子の目からは自然と涙がこぼれる。
彼を睨みつける目は、怒りと悲しみに満ちていた。
「……ケガしてたのか?」
蓮司が慌てて彼女の腕を見ようとしたその瞬間、
透子は冷たく身を引く。
「それ、今さら?――全部、あんたのせいでしょ」
その声に、蓮司の動きが止まる。
あの時、彼女を道端に投げ捨てた――その光景がフラッシュバックする。
視線を下ろすと、
透子の肘は擦りむけて血が滲んでいた。
さらに、足元には赤く膨れた水泡と、包帯ににじむ血の痕。
何か言わなければ――
そう思った蓮司が口を開きかけたその時、
透子は無言でドアを閉めようとした。
「どいて、ドア閉めるのに邪魔なんだけど」
だが、彼の手が引っかかっていて、扉は閉まらない。
蓮司は、謝罪の言葉を飲み込むようにして――
代わりに吐き出したのは、全く別の言葉だった。
「……なんで電話に出なかったんだ?
こっちは――」
言いかけたところで、透子の唇が皮肉に歪む。
ふぅん、それでこんな夜中にドア叩いて怒鳴り込んできたわけ?
理由が電話って、ほんと大事な用件だったのね。
ベッドの脇に歩いて行きながら、彼女は壊れたスマホを手に取る。
「地面に落として、画面がバッキバキに割れたの。
壊れて電源も入らない。これで満足?」
彼女が差し出したスマホの画面は、もはや粉々。
蓮司は何も言えず、ただ見つめるしかなかった。
「透子……」
ようやく名前を呼んだその瞬間――
バタン。
ドアが無情にも閉められた。
そして、蓮司はその場に取り残される。
しばらくそのまま立ち尽くし――
静かに、背を向けて歩き去っていった。
部屋の中――
再びベッドに横たわった透子は、イライラとした気持ちで目を開けた。
先ほど蓮司が言っていた「電話」のことが気になって、壊れたスマホの電源を入れてみる。
すると、着信履歴には――30件以上もの不在着信が。
「……はあ?」
苦笑すら浮かばない。
あれだけ美月を抱えていたくせに、何十回も電話してくる意味は?
――病気じゃないの?
透子は苛立ちと呆れを抱えながら、再び電源を切った。
もう、これ以上考えるのもバカらしい。
ゆっくりと目を閉じ、再び眠りに落ちる。
一方、主寝室では――
蓮司が簡単にシャワーを浴びたあと、ベッドに横たわったところだった。
スマホの画面が光る。
送信者は、美月。
【透子、もう大丈夫?ちゃんと帰れた?……蓮司、あまり責めないであげてね】
その文章を読んだ瞬間、彼の中にわずかに芽生えかけていた「罪悪感」は一気に消え去る。
――もしあいつが最初から美月を火傷させるようなマネさえしなければ、
こんな面倒にもならなかった。
【気にするな。お前も早く休め。おやすみ】
その返信を送信し、スマホを置いた。
ホテルでは、美月がそのメッセージを見て、満足げに笑っていた。
蓮司が透子に対して嫌悪感を抱いていると確認できて、
胸の中に広がるのは、安堵と優越感。
時計の針は、すでに午前0時を回っていた。
部屋の明かりを落として眠りにつこうとした蓮司だったが、
ほどなくして、胃の不調に目を覚ました。
高校時代から持病だった慢性胃炎。
その頃は美月が薬や食事に気を配ってくれていたが、
大学に入ってからは落ち着いていた。
だが、社会人になり、飲み会が増えるにつれて再発。
この二年間、透子は毎晩彼のために、スープを作ってくれていた。
そのおかげで、夜中に胃が痛むことも少なかった。
――なのに今日は……なにもない。
キッチンに足を運ぶも、鍋の中は空っぽ。
冷蔵庫にもスープはなし。
あの夜、スープはあの個室でぶちまけられた――
そのことを思い出すと、何故か少しだけ惜しく感じる。
……それと同時に、なぜもっと用意していなかったのかと、理不尽な苛立ちも湧いてきた。
思わず透子を起こして作らせようとしたが、足が止まる。
唇を噛み、ひと呼吸おいて黙り込む。
代わりに彼は、薬箱を探しに動いた。だが――見つからない。薬箱は、どこにもなかった。
ふと、透子の部屋の前で見かけた――
あのベッドサイド。そこに薬箱があった気がする。
……仕方ない。
蓮司は静かに、部屋のスペアキーを取り出す。
指先がドアノブを回すと、「カチリ」と小さな音がして扉が開いた。
まるで泥棒のように、足音を忍ばせて部屋に入る。
部屋には微かな香りと、薬品の匂いが混じり合っていた。
ベッドの上で、彼女は体を横たえていた。
薄い掛け布団は、端を少しだけ覆っているだけだった。
蓮司は特に目を向けることもなく、薬だけ取ってすぐに部屋を出ようとした。
だが、起き上がる瞬間――
視界の隅にふと入った光景に、思わず動きが止まる。
ドアの隙間から差し込む光が、ベッドの上、彼女の腰にぴたりと落ちていた。
上着の裾が少しめくれていて、その下には広がるような青紫の痣。
暖かな光の中でも、その痛々しさは隠しきれなかった。
蓮司は、数秒間その場でじっと立ち尽くした。
だが、それ以上は何も言わず、薬を持ったまま部屋を出て、静かにドアを閉めた。
……ただの打撲だ。命に関わるような怪我でもない。
そもそも、彼女が美月に嫉妬していなければ――
自分で足を火傷するような真似をしなければ――
あの日、彼が彼女を抱き上げることもなければ、転ぶこともなかったのだ。
第6話
夜が明け、朝の光が差し込んだ。
蓮司はろくに眠れず、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
胃薬は飲んだものの、慣れきった透子のスープの代わりにはならず、鈍い痛みは残ったまま。
アラームが鳴る前に、彼はベッドを抜け出した。
部屋のドアを開けたその瞬間――
向かいのドアも同時に開き、中から出てきた透子とばったり鉢合わせる。
「……何してる?」
思わず声をかけた。
「朝ごはん」
透子は淡々と答えると、足を引きずりながらキッチンへ向かった。
蓮司はその場に立ち尽くす。
今まで彼が起きたときには、すでに朝食が出来上がっていた。
彼女が毎朝五時から用意していたことなど、一度も気にしたことがなかった。
よろめくように去っていくその背中を見て、思わず声をかけた。
「……もういい。作らなくていい」
その言葉に透子の足が止まる。
振り返った彼女の目には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
二年間、熱を出しても起きて料理をさせられてきた。
それが、初めて「作らなくていい」と言われた。
一瞬、良心が芽生えたのかと錯覚しかけたが――
「夕飯も要らない。美月と外で食べる」
……その一言で、すべてが崩れた。
蓮司は振り返ることなく、そのまま家を出ていった。
透子はドアの方を見つめたまま、ふっと唇を歪めた。
――良心なんて、あるわけない。
勝手に自分で都合よく思い込んだだけ。
食事の準備をしなくていい?
それはむしろ、ありがたい。
もう、誰かの世話を焼くことにも疲れ果てていた。
再び短い睡眠をとり、朝の八時過ぎに目を覚ます。
身体の傷の処置をするため薬箱を開けると――胃薬が消えていた。
眉をひそめ、ふと朝ドアを開けた時に鍵がかかっていなかったことを思い出す。
……昨夜、かけ忘れた?
胃薬は前にも一度なくなったことがあった。
あれこれ考えても仕方ない。
透子は薬を片付け、ノートパソコンを抱えてリビングのラグに座った。
午前中は学習サイトにログインして、大学時代の講義内容を復習。
午後からは実践に入り、コードを書いたり、デジタルペンでキャラクターや背景のデザインを行った。
この二年間、表に出ることは許されなかったが、
基礎的なスキルは欠かさず磨いてきた。
たまに依頼を受けて小さな仕事をこなし、地道にフォロワーも増えていた。
気づけば日が傾き始め、
透子が水を汲みに立ち、夕飯を注文しようとしたとき――
「カチッ」
玄関のロック音。
振り返った先、ドアが開き――
そこにいたのは、満面の笑みを浮かべた美月だった。
「透子、お見舞いに来たよ〜!怪我、大丈夫?」
その背後には蓮司が控えており、手にはスーパーの袋。
透子は無言で顔を背ける。
――あんたのせいでこんなことになったのに、よくも顔を出せたもんだね。
まるで、悪意を包んだ親切のふり。
「透子……」
無視された美月は、しおらしく声を絞り出す。
「何その態度だ?美月はお前を心配して来たんだぞ。
ご飯まで作ってやろうってのに、感謝の気持ちもないのか?」
蓮司が眉をひそめて口を開く。
透子はゆっくりと振り返り、冷笑を浮かべる。
「ご自由に……こっちは食欲ないから、遠慮しとく」
透子は無言でリビングの机に置いていたノートパソコンを片付けに向かった。
その様子に蓮司は苛立ちを隠せないでいたが、
美月が彼の腕にすり寄ってきて、甘えるように揺すった。
「蓮司~、透子ケガしてるんだし、もうちょっと優しくしてあげて?
一緒にご飯作ろ?できたら呼んであげよ〜」
その猫なで声に、透子は思わず目を細める。
わざとらしい甘ったるさに吐き気すら覚えるが、無視してPCを抱えて部屋に戻ろうとした。
そんな透子を、蓮司が通りすがりに呼び止める。
「お前、パソコンで何してる?」
「……暇だから、ドラマでも見ようかと」
顔も向けず、ただ素っ気なく返す。
「じゃあその板は?」
「手首のサポート。手が疲れるから」
――嘘。
蓮司にもそれは分かっていた。
だって、「サポート」にケーブルなんてついているわけがない。
それでも、透子の態度があまりに冷たくて、彼の中でまた訳の分からない苛立ちが膨れ上がる。
「蓮司~、こっち来て〜!葉っぱちぎって〜」
キッチンから美月の甘え声が響いてくる。
蓮司は軽く返事をして、台所へ向かった。
それを聞いた透子は、扉を閉めながら、鼻で笑った。
――ふん、蓮司がキッチンに立つ日が来るなんてね。
今までは、透子がすべてを用意し、
彼の手元まで運んでいた。
箸一膳すら自分で動かしたことのない男が、今は「葉っぱちぎって」だなんて。
――結局、好きな女のためなら、男はなんでもやる。
部屋の扉はある程度防音が効いているはずだった。
でも、美月のしゃべり声は途切れず響いてくる。
きっとわざと大きな声を出しているんだろう。
それに――
食器をガチャガチャと派手に鳴らしては、わざとらしい悲鳴まで聞こえる。
ここ、自分の家だったよね?
今じゃ、他人に占領されて、完全に乗っ取られてる感じ。
透子は静かに動画講座を再生し直そうとした。
けれど――
「キャアッ!」
突然の甲高い悲鳴。
うんざりした透子は、イヤホンを装着した。
だが、数秒後には――
「ドンドン!」
ドアが激しく叩かれ始める。
「透子、出てこい」
蓮司の声。
拳を握りしめながら、透子は心の中でカウントを始めた。
――あと28日。あと28日だけ我慢すればいい。
深呼吸を数回して、静かに立ち上がり、ドアを開ける。
開いた瞬間、蓮司が開口一番に言った。
「お前、飯作れ。
美月が慣れてないらしくて、皿割ってケガしかけたんだ」
……意味が分からない。
透子は眉をひそめた。
――皿を割ったのは美月。
ケガしかけたのも美月。
なのに、なぜ自分が飯を作らなきゃならない?
「……私もケガしてるけど」
冷ややかな声で返す。
蓮司はそこでようやく、透子の足元に視線を落とした。
包帯の巻かれた足先と、時折にじむ赤い滲み。
朝、少しは「気遣い」のような言葉をかけてきたのに――
結局今は、こんな言葉だった。
「……手はケガしてないだろ。
立ってるだけならできるだろ」
第7話
透子は顔を上げ、蓮司をじっと見つめた。
拳をぎゅっと握りしめながら――
心の中では冷笑していた。
……はあ?
あの女のために「食事」を用意するために、
怪我してる自分が厨房に立てって?
どこまで人としての感情が欠けてるの?
「……デリバリー頼めば?
最悪、レストランの出前でもいいじゃない。
お金、困ってないんでしょ」
静かな声で、言葉を突きつける。
蓮司はわずかに唇を引き結び、視線を透子の足元から逸らした。
スマホを取り出そうとしたその時――
「そもそも私、透子のお見舞いに来たんだもん。
ご飯作ってあげたくて来たのに、デリバリーなんて誠意ないじゃない〜」
美月がすかさず「清純無垢」な声で割り込んできた。
「……じゃあ、あんたが作れば?」
透子は淡々と、鋭く返す。
「えっ、でも……国内のコンロとか慣れなくて〜、
さっきお皿割っちゃって、蓮司がすっごく心配してくれたの……」
パチパチと瞬きをしながら、しれっと言う。
「じゃあこうしよっか、透子。
私がサポートするから、料理は任せて?
盛り付けとか手伝うよ、それで『私が作った』ってことにしていい?」
満面の笑顔――
でも透子には、その裏の「狙い」が手に取るように見えた。
……今日は、どうしても自分に「負け」を味あわせたいらしい。
「……いいよ。私が作る」
さっさと終わらせて、食べさせて、
さっさと消えてくれればいい。
「え〜一緒にやろうよ〜。ねっ?」
美月はそのまま蓮司を見て、ウィンク混じりに甘える。
「蓮司〜、お皿並べて〜!ジュースも出して〜」
堂々と指示を飛ばし、まるで自分がこの家の「女主人」であるかのように振る舞う。
一方で透子は――ただの料理係、家事手伝いのように扱われている。
そう振る舞う美月の姿に、
以前なら、透子はきっと胸が締めつけられて、嫉妬してた。でも今は違う。ただ、淡々とした顔で見つめるだけ。
美月が帰国したその瞬間から、蓮司が彼女に駆け寄った時点で、透子の中の何かは完全に壊れてしまっていた。
背後から聞こえるのは、あの二人の甘ったるい声。透子は一度も振り返らなかった。蓮司は本当に、美月の言うことをよく聞く。テーブルの準備をしてる二人の空気は、まるで恋人そのもの。
美月は腕を絡ませて甘えた声を出す。それも全部、透子に見せつけるためだ。蓮司が愛してるのは自分だって、示すために。
そんな中で、蓮司はそっと彼女の手を振りほどいた。
「ごめんね〜、蓮司の隣にいると、昔付き合ってたときのこと思い出しちゃって〜。つい腕組んじゃうんだよね〜」
美月が唇を噛んで、ヘラヘラ謝る。
「気にすんな」
蓮司はそう返しながら、ちらりとキッチンの中へ視線を送る。透子は一歩も動かない。まるで、さっきの会話なんて一言も聞こえてないように。
そのあと、美月がキッチンにやってきた。野菜を洗いながら、あれこれ世間話をしつつ、透子に蓮司の好みを語り出す。
――まるで、蓮司を喜ばせる方法を覚えろとでも言いたいのか。
その態度に、蓮司の中に苛立ちが芽生える。
「教えてくれなくていい。私、彼に二年間ずっとごはん作ってたから」
もう我慢できなかった透子が、ピシャリと返す。
蓮司の好みなんて、誰よりも知ってる。美月に教えられるまでもない。
一見優しげなアドバイス。でもその実、三年間付き合ってた過去を自慢してるだけ。
その言葉に、美月は傷ついたような顔を作って、蓮司を見つめながら、ちょっとしおらしく言った。
「ごめんってば〜、忘れてた〜。蓮司って、もうとっくに透子のごはんに慣れちゃってるもんね〜」
「そんなわけあるか!」
蓮司が即座にかぶせてきた。ムキになったように声を張り上げる。
「アイツの料理なんて、食っても死なない程度だ。味なんて、紙噛んでるみたいなもんだ!」
その一言に、透子は握っていたヘラを強く握りしめた。
――紙噛んでるみたい?
二年間、毎日蓮司のために作ってきたごはん。その評価が、それだけ?
もう言い返す気にもならない。どうせ全部、犬にでも食わせたと思えばいい。
一方で、美月は蓮司の言葉にぱっと顔を明るくして、またあれこれ話し出す。
蓮司が冷たく言い放つ。
「話すだけムダだろ、あいつには知る資格なんかない」
「え〜?だってさ〜、透子に蓮司のことお願いしなきゃじゃん?」
振り返った美月は、舌を出しておどけたあと、ふいに寂しげな顔になる。
「もう〜、私と蓮司がどうにかなることなんてないし?誰がそばにいても、私、蓮司には幸せになってほしいな〜って思ってるだけだよ?」
蓮司はじっと透子を見つめていた。何とも言えない苦しさが胸を締めつける。
かつて、自分が心から愛した女が、今目の前にいる。けれど――今の自分は、もう別の誰かと家庭を築いてしまっていた。
「離婚しよう」
突然、透子が顔を背けてそう言った。口調はひどく冷たかった。
蓮司は固まったまま、透子をまっすぐ見つめる。
「離婚すれば、美月にも希望がある。あんたも彼女と、ずっと仲良くできる」
透子は静かに、でもはっきりとそう言って、蓮司の目を見据えた。
その冷静な声。突き放すような表情。どれも見たことのないものだった。まるで自分が、透子にとってのただの「他人」になったような錯覚。
以前の透子の目は、いつも自分だけを映していた。どれほど厳しく叱責しようと、嫌気がさそうとも、彼女はただひたすら次はもっと……と慎み深く努力を重ねていた。しかし今の透子は——
「離婚?もともとお前、俺と結婚するために仕組んだんだろ?都合よく言ったりやめたりできると思ってんのかよ!」
蓮司が思わず怒鳴った。無意識に、怒りと戸惑いが混ざった声が出た。
透子は、そんな蓮司を冷めた目で見つめたまま、また口を開く。
「美月が好きなんでしょ?だったら、離婚すれば彼女と結婚できるじゃない」
本当は、契約満了の最後の数日に言うつもりだった。でも、ちょうどこんな話の流れになったのなら、早く言って手続きした方がいい。そう思っていた。
まさか、蓮司が拒否するなんて思わなかった。しかも、怒りながら。
それが理解できなかった。
「離婚なんてさせねぇよ。いいか、死んでも自由になれると思うな。お前は一生、俺のもんだ」
蓮司の目が、凍てつくような冷たさを帯びる。まるで獣のようなその目で、低く唸るように吐き捨てた。
透子は唇をかみしめ、胸の奥が締めつけられるような悲しみに襲われた。
――まさか、そんな理由で離婚しないなんて……
自由を奪って、彼のそばで使い捨てのようにこき使いながら、浮気して、美月とイチャイチャするのを見せつけるつもりだったのか。
透子は、背を向けたまま、こらえきれず目頭が熱くなる。
蓮司は、一体どれだけ私を憎んでいるんだろう。二年間、何の役も立ってないわけじゃない。少しは報われてもいいはずなのに。
なのに――
ここまで、私を憎みきっていたなんて。
その様子を、横で美月がじっと見ていた。
まさか、蓮司が離婚を拒むなんて思ってなかったし、ましてやあんなに怒鳴るなんて。言ってることは冷たいのに、透子を手放したくないようにも見える。
美月は全身を強張らせ、怒りと不安で震えていた。もしかして、本当に――蓮司が透子を好きになってしまったんじゃ……
「蓮司、お願い、怒らないで。全部私が悪いの。私が、変なこと言ったせいで……二人を引き裂くつもりなんて、なかったのに……」
泣きそうな声で、美月が必死に言い訳をした。
第8話
美月のか弱くて可哀想なその様子に、蓮司はハッと我に返った。すぐに駆け寄って、優しく声をかける。
「美月のせいじゃないよ。泣くな」
美月は鼻をすすりながら泣き続け、蓮司は彼女をそっと支えてリビングのソファへと連れていった。彼の声は、まるで子どもをあやすように甘く、優しかった。
――その声。
キッチンにいた透子の耳には、妙に刺さる。
こんな優しい声、あんたが私に向けたことなんて、一度もなかった。
……でも、もうどうでもいい。望んでなんかない。ただ、一刻も早く――ここを出たい。
気持ちを整え、再びフライパンを握る手が動き出す。
離婚って、想像以上に難しい。蓮司ならきっとすんなり署名すると思ってた。でもこの調子じゃ、別の方法を考えるしかなさそうだ。
愛されないのは仕方ない。でもそれが、あんたの「復讐」になるとはね。全部、二年前に私が欲をかいたツケなんだろう。
――リビング。
美月はしばらくの間、蓮司にあやされ続けていた。男の胸に身を預けながら、そのぬくもりを感じる。
まるで、昔と何も変わっていないみたいだった。
……でも、じゃあなんで離婚しないの?透子の方から言い出したのに。
美月は蓮司の顔を見上げる。でも結局、言いたいことは飲み込んだ。今、それを言ったら「キャラ」が崩れるから。
蓮司は彼女の背中を優しく撫でながらも、その目はどこか宙をさまよっていた。
透子が離婚を言い出した。その事実が、思いのほか胸に刺さる。あんなに冷たい顔で、淡々と――まるで、もう何の未練もないみたいに。
何かが、確かに崩れていく感覚。でも、それでも彼は必死に理性を取り戻し、拳を握る。
透子は俺を愛してる。きっと離婚なんて本気じゃない。ただ俺の気を引きたかっただけだ。
――それから30分ほどが過ぎて、透子が料理をだいたい仕上げたころ。
美月がまたキッチンに現れた。わざとらしい笑顔を浮かべて近づく。
「透子〜、私もお皿運ぶ〜」
「いらない」
透子はきっぱり、冷たく言い放った。
それを聞いて、美月の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。ちらっと視線を流し、端に誰かの衣の端を見つけた美月は、わざとらしく皿を手に取ろうと前に出る。
その皿には熱々の角煮。さっき仕上げたばかりで、まだ湯気が立ってる。なのに美月は、透子の前を無理に腕を伸ばして取ろうとした。
透子がとっさに身を引こうとした、その瞬間――
皿が美月の手から滑り落ちた。
角煮が直撃したのは、透子の足。
「っ……!」
とんでもない熱さに、涙がこみ上げた。でも、まだ声も出してないうちに――
「きゃあああああっ!!」
美月の悲鳴が響き渡る。
「手切れた!血出てる〜!!」
蓮司は反射的にキッチンへ飛び込んできた。彼の目に映ったのは――
透子が包丁を持ち上げて、美月の手にぶつけようとしているような場面だった。
「透子!殺人は犯罪だぞ!刑務所行きたいのかよ!!」
蓮司は怒鳴り声を上げ、透子を乱暴に突き飛ばした。
そのとき、透子は熱さで立っているのもつらかった。そこに不意の衝撃。体は壁の角にぶつかり、そのまま崩れ落ちた。
元々痛めていた尾てい骨に、また衝撃が加わる。
――痛い、もう、限界だ。
ついに、透子はその場で泣き出してしまった。
蓮司は美月を抱きかかえたまま玄関まで来ていた。そこに――
「ううっ……うぅっ……血が、いっぱい……!」
透子の泣き声が背中越しに響いた。
思わず振り返る。目に入ったのは、透子の全身と足元に散らばった料理の残骸だった。
でも、その声に我に返った蓮司は、美月の泣き声でまた現実に引き戻される。
「うっ……怖いよぉ、痛いのほんとに苦手なの……」
美月は涙をポロポロ流しながら、蓮司にしがみつく。
蓮司は急いで彼女をソファに座らせ、救急箱を探し出し、応急処置を始めた。
傷口を見たその瞬間――小さな、爪跡ほどの引っかき傷。血もすでに止まっていた。
「うぅっ……私ほんとに痛がりでさ……ケガとかほんと無理なの、蓮司も知ってるでしょ?」
涙ぐみながら、美月は甘えるように言った。
蓮司はそっと絆創膏を貼ってやり、そのまま彼女を抱きしめる。
「知ってる……お前、昔からそうだったよな。孤児院にいたころ、いろんなヤツにいじめられて……」
あの頃の美月は、世界で一番傷つきやすい存在だった。蓮司は、できることならあの時代に戻って守ってやりたいと、今でも思っていた。
二人がそうして抱き合っているときだった。
透子が、キッチンの扉にすがるようにして、よろよろと出てきた。
その姿を見た瞬間、涙が一層滲んで止まらなくなった。
――殺人?
蓮司は、私が美月を殺そうとしたって言った。
……どこの誰がそんなの見たって言うの?
私は美月がどうやって手を切ったかさえ知らないのに。ただ、足に落ちたあの熱々の角煮で、昨日できた水ぶくれの上を思いっきり打たれただけ。
足を引きずり、腰をかがめて、透子はふらふらとトイレへと向かった。
蓮司はその足音に気づいて、ちらりとそちらを見た。でも、背中が見えなくなるまで立ち上がろうとはしなかった。
――バスルーム。
透子はシャワーを捻った。ぬるま湯にしようと思ったのに、傷に触れた瞬間、その温度は沸騰水のように痛かった。
歯を食いしばって、冷水に切り替える。残ったスープの汚れや肉片を洗い流していく。
砕けた皿で潰れた水ぶくれ。その傷に流れ込む水とソースが、皮膚を鋭く刺激する。身体が勝手にビクッと反応するほどだった。
でも――
その痛みよりも、心の方が、よっぽど痛かった。
蓮司に思いっきり突き飛ばされた瞬間が、何度も脳裏に浮かんだ。
――もう、好きじゃないと思ってたのに。
いや、違う。
私は、蓮司のことを……憎み始めてる。
どうして、どうしてこんなに私を苦しめるの?
なんで美月まで巻き込んで、一緒になって私を痛めつけるの?
私って……そんなに、罪深いの?
涙がぽたぽたと床に落ちて、透子は震える声ですすり泣いた。
そのとき――後ろから、誰かの気配。そして、声がした。
「おい、お前……」
その一言を聞いた瞬間、透子は怒りで爆発した。
「消えろ!!ここから出てけって言ってんのよ!!」
叫びと同時に、シャワーの水が蓮司に向かって飛んだ。
彼は反射的に腕を上げて防御しながら、怒りで顔が真っ赤になる。
「はぁ!?お前、何ブチ切れてんだよ!?頭おかしいんじゃねぇの!?」
だが返事の代わりに飛んできたのは――洗面器、シャワーヘッド、果てはトイレブラシまで。
さすがに蓮司も追い詰められ、必死に後退。最後にはドアを思いっきり閉めて、捨て台詞を吐いた。
「マジでてめぇ、イカれてんだろ!!」
ほんの少し、気になって様子を見に来ただけだったのに。怒鳴られ、水ぶっかけられて、挙げ句の果てにトイレブラシまで投げられるとは。
蓮司は、本気で――透子をぶん殴りたくなっていた。
第9話
「蓮司、大丈夫?透子はどうなったの?」
バスルームの前、美月が心配そうな顔で、ぐちゃぐちゃになった蓮司を見つめる。
「大丈夫だ……着替えてくる」
蓮司は苛立った声でそう言い放つ。
美月がバスルームのドアに手を伸ばそうとすると、蓮司にガシッと手首を掴まれた。
ガラスのドアを睨みつけながら、吐き捨てるように言う。
「入るな。あのイカれ女、水ぶっかけてくるぞ。マジで精神病院送りにしたほうがいい」
「透子、きっとわざとじゃないよ?そんなに怒らないで……」
美月は優しく宥めようとするが、返ってきたのは蓮司のもっとひどい罵声だった。
――その会話は、バスルームの中まで全部聞こえていた。
透子は膝を抱えて座り込み、唇を噛みしめ、拳を握りしめる。怒りが、じわじわと体の奥から湧き上がってくる。
蓮司、ほんと最低。
美月、あんたも同じくらい胸くそ悪い。
――お似合いだよ、ホント。クズとクズの奇跡のマッチング。永遠に結べばいい。
あの時、好きになんかなるんじゃなかった。二年前、蓮司を選んだ自分を呪いたい。
もう全部、報いなんだ。
冷たい水がずっと足の傷に当たり続けている。でも、心の方がずっと冷たくて、痛くて、痺れてる。
涙はもう、枯れ果てていた。
――主寝室。
蓮司がシャツを着替えていると、扉がそっと開いた。
入ってきたのは、美月だった。
彼女を見て、思わずシャツのボタンを急いで留める蓮司。
美月はゆったりと歩み寄り、潤んだような目で甘く微笑みながら、ふわっと囁く。
「何照れてるの?私、蓮司の身体、前から全部知ってるじゃん」
……それは事実だった。でも、それでもどこか気まずくなった蓮司は、目をそらして言う。
「外で待ってろよ」
でも美月はそれを無視して、すっと目の前に立ち、彼のネクタイに手を伸ばす。
「これね、昔、蓮司のために覚えたんだよ。いつか毎朝こうしてあげたくて……」
その言葉は少し切なげで、どこか寂しそうだった。
蓮司は彼女を見下ろし、目が合う。
美月の目には、嫉妬と寂しさ、そして期待がにじんでいた。
「……この2年、透子がネクタイしてたの?」
「してない。あいつには触らせたことない」
即答だった。
「この部屋は俺の部屋だ。あいつとは、ずっと別の部屋だ」
蓮司が補足するように付け加えると、美月の目がふわりと細くなって、嬉しそうに笑った。
部屋の中を見回して、女の気配が一切ないのを確認し、さらに満足げな顔になる。
唇を近づけ、そっと口づけを落とす美月。
彼女の指先が、蓮司の喉仏をなぞる。喉がピクリと動くのを感じて、美月はくすりと笑った。
蓮司は動かない。そのまま立ち尽くしていた。拒まないが、応じることもなかった。
――こんな時、頭の中に浮かぶのは、目の前の女のはずなのに。
蓮司の鼻先には、美月の甘い香水の香りが広がっている。
……なのに。
思い出すのは、透子の部屋で嗅いだ、あの淡い、自然な香りだった。
一瞬、理性が戻った。
――俺、何やってんだ。
なんであんな女のこと、思い出してる?
蓮司は自分を罵るように奥歯を噛みしめ、そのまま美月の首筋に手を伸ばし、グッと引き寄せて――強引に、激しくキスを返した。
そのキスはまるで波に呑まれるような荒々しさだった。
美月にとっては歓喜と高揚。でも蓮司にとっては、ただの怒りと発散だった。
自分でも、何に怒ってるのかなんてわからない。
しばらくして、キスが終わった。
美月は息を切らし、蓮司も呼吸が乱れていた。
美月は腕を絡めるようにして彼の首に手を回し、もう片方の手でシャツの裾をめくる。潤んだ瞳が語りかける、次のステップを。
でも――
蓮司はふいに顔をそらし、彼女の身体をそっと押し退けた。
「腹減ったろ?外で食おう。家の中にあのイカれ女がいるとか、マジで空気悪すぎ」
チャンスを逃した美月は、ほんの少し不満げな顔をしたが、表には出さず、微笑みながら蓮司のコートを手伝って着せてあげる。
二人が玄関に向かう途中、蓮司はふと廊下の方に目をやる。まだ、バスルームのドアは閉じたままだった。
「蓮司〜、焼き肉食べたいな〜。ねぇ、連れてって?」
「いいよ。新しくできた韓国料理の店がある。行ってみよう」
そう言って視線を戻し、二人で家を出た。
バタン、と玄関のドアが閉まる音が響いたあと――静寂だけが残った。
やがて、バスルームのドアが開いた。
全身びしょ濡れの透子が出てくる。その目は、冷たい氷のように澄んでいた。
部屋へと戻り、無言でタオルを手に取り、濡れた髪と身体を拭いて服を着替える。
そして足を引きずりながら、静かに部屋を出た。
――病院へ行くために。
キッチンを通りかかったとき、ドアが開いていて、中にはテーブルの上に並んだ五品の料理。
どれも温かさはもう失われていた。
誰の手もつけられていないまま。
透子は、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
ふん……結局、私に作らせといて、一口も食べないんだ。
最初から、ただ苦しめたかっただけ。
透子は割れた画面のスマホを取り出し、管理会社の清掃サービスに電話をかける。
キッチンの片付けを頼んで、タクシーに乗り込んだ。
病院へ向かう途中、清掃スタッフから確認の電話がかかってくる。
「奥様、こちらの料理、処分してもよろしいですか?見た目も綺麗ですし、もったいないかと思いまして……」
「ええ、全部捨ててください。もしもったいないと思うなら、野良犬にでもやってください」
透子は淡々とそう告げて、電話を切った。
――犬に食わせたほうが、蓮司よりはマシ。
第10話
病院に着いた頃には、透子の足は真っ赤に腫れあがり、あちこちに傷が残っていた。
医者は彼女の足を診ながら、思わずため息をついた。
「こんなになるまで放っておくなんて……あなた、自分の体を大事にしなさい。水ぶくれが全部潰れてたら、感染したら大事になるよ?」
透子は俯いたまま、黙って医者の言葉を聞いていた。ただ、自分の傷だらけの足をじっと見つめるだけ。
――別に、大事にしたくないわけじゃない。
ただ……
あの人たちが、私を壊す気でかかってるだけ。
診察を続けていた医者が、ふと尾てい骨や腰を見て青あざを発見、さらには腕にも打撲痕、目は泣き腫らして赤く腫れ、何も喋らず、一人ぼっちで来院している――
その姿に、思わず表情が曇った。
「腰のレントゲンも撮ろう。あと、今日は帰らないで入院しなさい。こりゃしっかり治さないとダメだ」
「……ありがとうございます」
透子の声はかすれていて、聞き取りにくいほどだった。
その後、入院の手続きを手伝ってくれたのは看護師さんだった。
透子は仰向けになれず、うつ伏せで病床に伏せるしかなかった。足は枕で高く持ち上げられ、焼けた傷口に当たらないように工夫されていた。
看護師が薬を塗り終えると、ヒンヤリとした感覚がじんわり広がっていく。熱を奪ってくれるその感触が、ほんの少しだけ、彼女の苦しみを和らげた。
時計を見た。
――午後7時半。
透子はスマホの電源を切り、目を閉じた。身体も、心も、限界だった。
あの二人が今どこで何をしてるかなんて、考えたくもない。
幸せにデートしてる?笑い合ってる?愛し合ってる?
――もう、どうでもいい。
ここには、あの人たちは来ない。ようやく、ちゃんと眠れる気がした。
――その頃。
午後8時。蓮司は美月を連れて焼肉を食べていた。
午後9時。二人は高級ブランドショップを巡って、蓮司は山のようにプレゼントを買い込んだ。
午後10時。蓮司は江辺の観覧車を貸し切り、二人が頂上に到達したその瞬間、夜空に花火が打ち上がる。
鮮やかな光が空を染め、その中で二人は唇を重ねた。
その夜、川辺にいた観光客たちはその光景に目を奪われ、「どこの御曹司が彼女にプロポーズしてるんだろう?」と、羨望の声を漏らしていた。
「ねぇ蓮司〜、帰りにごはん持って帰ろ?透子、家に置いてきちゃったでしょ。彼女、きっとすごく傷ついてるよ。絶食してたらどうしよう……」
助手席で、美月がしおらしく心配そうに言った。
……もちろん、本当の目的は、蓮司と一緒に家に戻って、さっき未遂に終わった「あれ」を続けること。
「は?あいつ料理作ってたろ?生きてる限り飯食うだろ」
透子の名前が出た途端、蓮司の表情が暗くなった。
「そもそも、あんな性悪女、心配する価値もねぇよ。昨日はお前を火傷させて、今日は包丁で殺しかけてきたんだぞ?俺が間に合ってなきゃ、今ごろお前どうなってたか……!」
怒気をはらんだ声で、蓮司が吐き捨てる。
美月はしばらく黙っていた。
やがて、少し声を震わせて、そっと言った。
「でも……私たち、小さいころから孤児院で一緒だったんだ。あの子がどうしようもないってわかってても、やっぱり――私の、たったひとりの家族だから」
その言葉に、蓮司の胸がきゅっと痛んだ。
こんなにも優しい美月が、透子に傷つけられながら、それでもまだ「家族」として想っている――
……それなのに、透子は。
「……あんな女に、その資格はない。これからは、俺が――お前の家族だ」
蓮司が無意識に口走ったその言葉に、美月はびっくりして顔を向けた。
目に浮かんだのは、抑えきれない嬉しさと期待。
けれど、すぐに表情を落として、涙ぐんだ声で囁いた。
「でも……ダメだよ。透子は、今、蓮司の奥さんでしょ……私、奪えないよ……」
「奪ったのはあいつだろ!お前から全部を!」
蓮司の声がひときわ大きく響く。
「本来、『新井夫人』の座は、お前のものだったんだ!」
その叫びに、美月はしおらしくうつむきながらも、心の中ではニヤリと笑っていた。
――離婚話は透子のほうから出ている。蓮司が応じていないのは「復讐」のためだと知っているけど……
それでも、透子に「奥さん」の肩書きを残しておくなんて、絶対に許せない。
なら、蓮司自身に言わせるように仕向けなきゃ。
「私は……蓮司が想ってくれてるだけで十分。透子は、ちゃんと結婚してるんだから」
美月は健気そうに、優しく、悲しげに言った。
蓮司は何かを言いかけて、ぐっと飲み込み、ハンドルを握る手に力を込めた。
……数秒、沈黙が続く。
でも、蓮司はそれ以上の言葉を出せなかった。
美月は、唇を噛んだ。その目には、じわっと滲む悔しさと怒り。
「ねぇ、ちょっとここで停めてくれる?透子、前にここの料理すごく好きだったから……一緒に食べるのもいいかなって」
わざとらしく、話題を変えた。
蓮司の思考が切り替わる。美月の思いやりのある態度に感心しつつ、ふと頭をよぎったのは――
キッチンで透子を突き飛ばした、あの瞬間。
自分がやった仕打ち。そしてそのあと見た、透子の背中。
どこかモヤモヤを抱えながらも、蓮司は車を停めて店へ向かった。
……でも。
美月の思惑は外れた。
食事を買った蓮司は、そのまま美月をホテルまで送り届けただけだった。
「今日はゆっくり休めよ。じゃ、また明日」
優しく前髪を整えてあげながら、蓮司はそう告げた。
笑顔で見送る美月――だがその内心では、悔しさで奥歯を噛みしめていた。
高級ヒールのかかとが、ギシギシと音を立てるほど。
――そして、蓮司の車は家の駐車場へ。
エレベーターに乗り、食事の入った袋を見下ろす。
あの「狂った女」のために、こんなもん持って帰ってくるなんて……美月が言わなかったら、絶対やらなかった。
――放っておいて、餓死すりゃいいのに。
玄関を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
「透子!何だよ、電気もつけずに……死んでんのか!?」
怒鳴り声を上げても、返事はない。
一気に苛立ちが募る。
電気をつけ、食事をキッチンに置いた時、床が綺麗に拭かれているのが目に入る。
――じゃあ、家にはいたんだな。
ますます怒りが沸騰した蓮司は、足早に客室の前へ。
ガンガンとドアを叩きながら、声を張り上げる。
「開けろ!おい、透子!聞こえてんだろ!!」
……だが、返事はない。
ついにブチギレた蓮司は、ポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
「てめぇ、なに中で――」
言いかけた言葉が、空気の中に溶けた。
――部屋は、空っぽだった。
「……はは、いい度胸してんな」
拳を握りしめ、蓮司の顔に怒りが滲む。
「勝手に家出とか……いいだろ。好き勝手やってくれよ」
彼の怒気は、この瞬間、最高潮に達していた。