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元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった
綾辻月子(あやつじ つきこ)が流産した時、入江静真(いりえ しずま)は初恋の人の帰国を祝っていた。 三年もの間、尽くして寄り添った月子を...
Chương (1)
第1章
綾辻月子(あやつじ つきこ)が流産した時、入江静真(いりえ しずま)は初恋の人の帰国を祝っていた。
三年もの間、尽くして寄り添った月子を、彼はただの家政婦か料理人くらいにしか思っていなかったのだ。
月子はすっかり心が冷え切り、離婚を決意した。
友人たちは皆、月子が静真にベッタリで、絶対に別れられないと知っていた。
「賭けてもいいぜ。一日で月子は大人しく戻ってくるさ」
「一日? 長すぎだろ。半日もあれば十分だ」と静真は言った。
月子は離婚した瞬間、もう後戻りはしないと決め、新しい生活に奔走し、かつて諦めた仕事に打ち込み、新しい人との出会いにも積極的になった。
日が経つにつれ、静真は家の中で月子の姿を見かけなくなった。
急に焦り始めた静真は、ある業界のサミットで、ついに人々に囲まれた月子を見つけた。
彼は我を忘れて駆け寄り、「月子、まだ懲りてないのか?!」
鷹司隼人(たかつかさ はやと)は突然月子の前に立ちはだかり、片手で彼を突き飛ばし、冷たく鋭いオーラを放った。「お前の兄嫁に手を出すな」
静真は月子を愛したことは一度もなかった。しかし、彼女を愛するようになった時には、彼女の傍には、もう彼の居場所はなかった。
第1話
入江静真(いりえ しずま)と結婚して以来、綾辻月子(あやつじ つきこ)は離婚なんて考えたこともなかった。
だって、彼女は静真に心底惚れていたから。彼の為なら死ねるくらいに。
しかし、彼の初恋の人が帰ってきた。
……
その時、月子は病院にいた。
医者の声は冷淡だった。「綾辻さん、今回の流産は子宮に深刻なダメージを与えています。今後妊娠の可能性は低いでしょう。心の準備をしておいてください」
月子の頭はガンと鳴った。
この子の為に、彼女は三年もの間、辛い妊活を続けてきた。そして二ヶ月前、やっと妊娠できたのだ。
今日の午後、外出中に突然車が飛び出してきて、彼女は転倒してしまった……
医者は眉をひそめた。「綾辻さん?」
「……はい、分かりました。先生、ありがとうございます」
月子は人前で弱みを見せるのが好きじゃなかった。瞬きをして、涙をこらえ、立ち上がってその場を去った。
背後で看護師たちの噂話が聞こえてきた。「こんな大変な事なのに、旦那さん、見かけないわね」
「本当よね。さっき子宮内容除去術を受けて、泣き崩れそうになってたわ。旦那さんに電話して、病院に来てくれるように頼んでたけど、結局来なかったみたい」
「ひどい!愛してないのがバレバレじゃない。こんなの、離婚するしかないでしょ!」
月子は遠くまで行っていたので、その後の言葉は聞こえなかった。
実際、静真は病院に来るのを拒否しただけでなく、電話でこう言ったのだ。「子供がダメになったなら仕方ないだろ。何泣いてんだ?
今忙しいんだ。邪魔するな!」
その後、月子は何度か電話をかけたが、彼は一度も出なかった。
この三年間、静真はずっと彼女に冷たかった。
正直、彼女はもう慣れていた。
三年前に月子が偶然入江会長の命を救ったことがあり、会長は彼女を気に入り、二人をくっつけた。そうでなければ、彼女のような身分で入江家の妻になることなんてできなかったのだ。
だから、そもそも静真は彼女と結婚したくなかったのだ。
今日、彼に連絡を取り続けたのは、生まれてくるはずだった子供のためだと思ったから……
やっぱり、期待するべきじゃなかった。
月子は気持ちを切り替え、タクシーで帰って休もうと携帯を取り出した途端、メッセージが届いた。
静真の親友、佐藤一樹(さとう かずき)から動画が送られてきたのだ。
月子は動画を再生する。
動画の冒頭は大きなバラの花束だった。少なくとも999本はあるだろう。多すぎて画面に入りきらない。
カメラが左に移動すると、静真の姿が現れた。彼の隣にはある女が寄り添っている。
夏目霞(なつめ かすみ)だった。
月子は瞳孔を縮め、指先にぐっと力が入った。
動画の中で誰かが囃し立てている。「霞さん、静真さんは今日のお前の帰国を知ってて、とっくに歓迎会を準備してたんだぞ!絶対、心を込めて準備したんだ!」
「ハグくらいしろよ!早く静真さんに感謝を伝えろ!」
「ハグだけじゃ足りないだろ!キスしろよ、前にもしてたんだし!お前らのフレンチキス三分の動画、俺まだ消してないぞ」
霞は首を横に振った。「今は立場上ちょっと……」
彼女が言葉を言い終わらないうちに、静真は自ら霞を抱き寄せた。「霞、おかえり」
その口調と仕草は、とても優しく、自然だった。
周りの人たちは黄色い声を上げた。「見て、静真さん全然気にしてないじゃん!」
「キスしろ!キスしろ!」
ここで、動画は突然終わった。
メッセージが取り消されたのだ。
【ごめん、間違えて送っちゃった】
取り消しが早かった。一樹は、彼女がまだ開いていないと思ったのだろう。それ以上何も説明してこなかった。
月子は長い間チャット画面を見つめていた。
見ているうちに、唇の端が上がった。
これが、静真の言う大事な用事だったのか……
月子は三年間、彼の心を温めようと努力してきた。なのに、静真が自分を愛してくれる日は来ず、舞い戻ってきたのは彼の初恋の人だった。
もはや、彼の心に彼女の居場所などあるはずもなかった。
愚かな夢を見るのは、もう終わりにしよう。
帰宅後、月子は荷造りを始めた。
この数年、生活も仕事もシンプルだったため、自分の物はほとんど買っていない。必要な服と証明書以外、持って行くものは何もない。26インチのスーツケース一つで十分だった。
30分もかからずに荷造りは終わった。
そして、静真の帰りを待った。
午前2時になって、ようやく玄関のドアが開いた。
静真がリビングを通ると、彼女と目が合った。
彼は驚いた様子もなかった。
たくさんの接待で遅くなる夜、月子はいつもこうして彼の帰りを待っていたのだ。
「手術を受けた後なのに、早く休まないのか?」静真の口調は冷淡で、心配している様子は全く聞こえなかった。
「あなたを待ってたの」
彼が玄関に入ってきてから、月子は彼の唇をじっと見つめていた。
男の唇の形は相変わらず魅力的だったが、端の方が少し腫れていた。
白いシャツの襟元には、あやしい口紅の跡がくっきりと残っていた。首筋にもそう。
本当にキスしたんだ。
もしかしたら、それ以上のことも。
月子の心臓は、突然激しい痛みを感じた。
結婚して三年、静真が彼女に触れた回数は片手で数えられるほどだった。それも、親戚にせかされて渋々といった感じだった。
彼は決して自分からキスしようとはしなかった。いつもいきなり本題に入り、優しさのかけらもなかった。その間、彼女はとても辛い思いをした。終わった後、抱きしめて欲しくても、彼はくるりと背を向けて浴室へ行くのだ。
彼女にいつも見せるのは、冷たい背中だった。
静真は彼女の隣にあるスーツケースに気づき、理解した。「一樹の動画、見たのか?」
「ええ、見たわ」近くに行くと、月子は彼の体から酒の匂いを感じた。
そして、吐き気を催すような香水の匂いも。
「私たち、離婚……」
彼女が言葉を言い終わらないうちに、静真は平然と言った。「もう知ってるなら、離婚しよう。最初から分かっていたはずだ。霞が海外に行っていなければ、お前と結婚なんてしなかった」
ここまで言われて、月子が反対する理由はない。「分かったわ」
「今日は遅いから、とりあえず休んで、明日出て行ってくれ……」
「大丈夫よ。離婚協議書にはもうサインしたわ」
月子はテーブルを指差した。
結婚式の夜、静真はこの離婚協議書を彼女に渡していたのだ。今日まで、月子はサインする決心がつかなかった。
今度は静真が驚いた。
思わず眉をひそめ、彼女の本心を測っているようだった。
「お酒を飲むでしょ。酔い覚ましスープを作ったわ。キッチンにある」月子は少し迷ったが、声をかけて注意した。
あれは癖みたいなものだ。静真に愛してもらう為に、彼の食事や生活の世話は、全て彼女が自ら行っていた。
料理があまり得意でなかった彼女が、料理の腕前を上げるまでには、かなりの苦労があった。
静真に食事を作る度に、買い出しから完成まで数時間かかり、指には切り傷や火傷の跡がいくつも残っていたのだ。
しかし静真は好き嫌いが激しく、どんなに美味しくても、一度も「美味しい」と言ったことがない。明らかに表情で美味しさを表している時でさえも。
静真はよく分かっていた。自分が褒め言葉をかければ、月子がどんなに喜ぶかを。彼はただ、彼女にその喜びを与えたくなかったのだ。
「私は行くわ」三年の夫婦生活、別れの時に、もう何も言うことはなかった。
静真は眉をひそめた。「今夜はここにいろ」
「いいえ」月子はスーツケースを引きずり、背を向けて出て行った。
静真は、自分の言うことを聞かない月子が気に入らず、少し不機嫌そうだった。
そして、玄関のドアが閉まった。
ちょうどその時、一樹から電話がかかってきた。「静真さん、家に着いたか?月子に聞いたか?動画見たのか?
悪かった。本当にわざとじゃなかったんだ。まあ、見たとしても、別に問題ないだろ?お前と彼女、しょっちゅう揉めてるし……」
「彼女と離婚した」
「え?離婚した?」
一樹はとても驚いた様子だった。「この動画のせいで?まさかだろ。彼女がお前と離婚するわけないだろ。月子が離婚するなら、俺、生配信でうんこ食う!」
「俺が言ったんだ」と静真は言った。
一樹はしばらく黙っていた。
静真が離婚を切り出すということは、何もなかったも同然だ。月子が静真にベッタリで、絶対に別れられないと、友人たちは皆知っていた。
「この前離婚って言ったの、一ヶ月前にも満たないだろ?月一の恒例行事みたいだな」
一樹はからかった。「前回、俺たちが彼女が半日で戻ってくると賭けて、案の定勝ったよな……今回は一日って賭ける。もし俺がまた勝ったら、飯おごりな!」
静真は、閉まった玄関のドアに視線をやった。家の外では車のエンジン音が聞こえた。
今日は月子はかなり決意が固そうだった。
しかし、静真は涼しい顔で眉を少し下げ、全く気に留めていない様子だった。「一日なんていらない。彼女は明日の朝には帰ってくるさ」
第2話
いつものように静真が離婚を切り出すと、月子は一旦外に出てしばらく時間を潰し、それから大人しく戻ってきて、静真にこれまで以上に媚びつくようになっていた。
今まで一度も例外はなかった。
今回ももちろん同じだ。
今日、いつもより積極的に出て行ったのは、きっと子供を流産してしまったせいだろう。
子供のこととなると……
静真の目に強い嫌悪感がよぎった。月子には自分の子を産む資格などない。妊娠できたこと自体が全くの偶然だ。
流産してくれてむしろ好都合だ。
……
離婚慰謝料は10億円だ。
キャッシュカードと離婚協議書は一緒に置いてある。
月子が三年前にサインしていれば、何の代償も払わずに手に入れることができたのに。
しかし、彼女が三年間妄想に耽っていたせいで、心血を注いだだけでなく、生殖機能まで損なわれてしまった。
まあいい。
後悔したって無駄なだけ。そんなこと考えても希望は見えない。人生は前向きに進むべきだ。
それに、お金があるに越したことはない。
月子はキャッシュカードを持って、深夜にタクシーを拾い、フリーリ・レジデンスの入り口で車を降りた。
ここは一平方メートルあたり最低600万円からの高級マンションだ。
広いワンフロアには二世帯しか入っていない。
そのうちの一つが月子名義の部屋なのだ。
その不動産は彼女の叔父のものだ。母親が亡くなってから、叔父は海外に移住し、このマンションを彼女に残した。
月子は一生使うことはないと思っていたが、人生とは計画通りにはいかないものだ。今、離婚することになり、すぐに住める場所があるのはありがたい。
7棟最上階1号室。
月子はスーツケースを引きずって中に入った。
午後に清掃業者に連絡して掃除してもらっていたので、部屋はとてもきれいだった。しかし、90坪近い部屋は、とても広く感じられた。
以前だったら、こんな広い家に一人で住むなんて、月子は寂しすぎると感じたはずだ。
しかし、静真の冷淡さに三年間耐えた今、何も怖くない。むしろ、かつてないほどの安らぎが心に生まれた。
月子はリラックスした気分になったが、同時に極度の疲労を感じ、すぐに洗面を済ませると、ベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。
チリーン。
午前6時、聞き慣れたアラームの音で目が覚めた。
アラームのタイトルには夫に朝食を作る時間よと書かれていた。
月子は一気に目が覚めた。
静真は普段8時に朝食をとる。しかし、彼は好き嫌いが激しく、簡単なものは食べないので、朝食の準備にも一、二時間かかってしまうのだ。
前日に彼が深夜まで接待で遅くなった場合は、月子は彼を寝かしつけてから、だいたい午前2時か3時頃にようやく自分の寝る時間になっていた。それでも、翌日は早起きしなければならなかった。
なのにせっかく作っても、静真が食べないこともあるから、その時は手の込んだ朝食が、全てゴミ箱行きになるのだ。
しかし、今はもう早起きする必要はない。
自分の苦労が無駄になる心配もない。
月子は朝食のアラームを削除し、アイマスクをつけて再び眠りについた。
眠れないと思っていた。
しかし、すぐに眠りに落ちてしまった。
……
午前8時、激しい頭痛と共に、静真は目を覚ました。
彼は、飲み過ぎた時に酔い覚ましを飲まないと、翌日頭痛になる癖があった。昨夜は疲れすぎて、酔い覚ましスープを飲むのを忘れてしまった。
最悪だ。
しかし、ナイトテーブルには、ウコンドリンクが置いてあった。
静真は気にせず唇を歪めた。
あんなにあっさり出て行ったのに。
結局戻ってきたのか?
静真はそのウコンドリンクを飲み干し、頭痛が少し和らいだ後、一樹にメッセージを送った。【俺の勝ちだ】
一樹は呆れながらも感心せざるを得なかった。【月子は一回くらい強気に出ればいいのに。甘やかしすぎだろ!】
そう言うと彼は、【悔しい!】
【くそっ、考えるとますます腹が立つ!静真さん、早く俺にも俺を死ぬほど愛してくれる女の子を紹介してくれ!頼むから、お前の幸運を俺にも分けてくれよ】と返信した。
静真は口角を上げながら【ウザい】と送った。
そして携帯を放り出して、洗面所に向かった。
しかし階下に降りると、見慣れた忙しそうな姿が見当たらなかった。
「どこだ?」彼は冷たく声をかけた。
高橋が朝食を運んで、キッチンから出てきた。「静真様、おはようございます。朝食の準備ができました!」
静真は眉をひそめた。「なんでお前がいるんだ?」
「はい、私です」
「あの水もお前が用意したのか?」
高橋は頷いた。「昨夜奥様から、今日は家にいないので、早く来るように言われました」
静真は一瞬言葉が出なかった。
彼の顔色が悪いので、高橋は少し怯えた。「静真様、まずは朝食をどうぞ……」
静真はしばらくその場に立ち尽くした後、渋々朝食を食べに行った。
しかし、食卓には牛乳一杯、トースト二枚、目玉焼き一個、そして小さな箱に入ったチーズだけ……
月子は普段、彼に和食の朝食を作ってくれていた。7、8種類の小鉢料理が美しく盛り付けられ、とても豪華で、毎日違うメニューだった。
あまりに違いすぎる。
一度鎮まった怒りが、再び込み上げてきた。
静真は冷たい声で尋ねた。「こんなものしか作ってくれなかったのか?」
高橋は彼の問いに、全身の毛が逆立つ思いがした。「……申し訳ございません!静真様の朝食はいつも奥様が作っていたので、お口に合うか分かりません」
「分からないなら、電話で聞けばいいだろう!」
高橋は震える声で言った。「電話しましたが、繋がりませんでした……」
それを聞いた静真はまた言葉を詰まらせた。
やってくれるな、月子。
しかし、静真は少しも心配していなかった。月子は必ず戻ってくる。
多分、お昼には会社に押しかけてくるだろう。
これは彼女のいつものやり方だ。
しかし、このハプニングで静真はすっかり食欲を失い、踵を返しその場を立ち去った。
バタン。
彼は勢いよくドアを閉めた。
高橋は何が何だかわからなかった。
どうしたんだろう?
彼女は急いで月子に電話したが、何度かけても繋がらない。
高橋は少し不思議に思ったが、考え直してみると、おそらくまた静真が離婚を切り出したのだろう。
しかし、前まで月子はいつも自分に静真の様子を聞いては、タイミングを見計らってすぐに家に帰ってきていた。
電話に出ないのはさすがに初めてだ。
高橋は考えた。月子はおそらく駆け引きを覚えたのだろう。家を少し長く空けることで、静真に自分がいないと不便だと感じさせようとしているのだ。
なかなかやるじゃないか。
何と言っても、静真が月子に対して愛情を持っていないことくらい、誰もがわかっていることなのだから。
それに、静真は大変優秀な男性なので、外でも誘惑がたくさんあるし、月子がもっと努力しないと、彼の心を掴むことなんてできないだろう。
……
その日は土曜日で月子の仕事が休みだったから、昼までぐっすり眠った。
買い物に行く時間がないので、豪華な出前を頼んだ。
食事の後、月子は技術フォーラムを見て回った。かつての知り合いの中には、業界のリーダーになっている人もいた。
しかし、恩師の情報は見つからなかった。
月子の記憶が正しければ、恩師は研究に明け暮れているはずだ。
月子にとって一番印象深いのは、恩師が自分を見つめる視線だ。それは、記憶の中の母親のように温かいものだった。
なのに、自分は彼女を裏切ってしまった……
月子の目頭が熱くなった。少し迷った後、電話をかけた。
「彩乃、会いたい」
一条彩乃(いちじょう あやの)は月子の大学の同級生で、以前は彼女の電話を受けるととても喜んでいた。
しかし、今はあまり嬉しそうではない。
「10回誘って、9回ドタキャンされるなんて。友達とはいえ、これ以上振り回されるのはこっちだってたまったもんじゃないな」
彩乃は冷たい声で言った。「よく考えて。本当に私に会うつもり?」
月子は結婚後、家庭に入った。
意図的に友情を疎遠にしたわけではないが、友達をないがしろにしてしまったのは確かだ。
ここ数年、彩乃はずっと仕事に打ち込んでいて、彼女の経営する一条テクノロジーは、すでに業界で頭角を現し、新星として注目を集めている。
かつての親友との差がますます開いていくにつれ、月子は自信を失い、自分から連絡を取る回数はさらに減っていった。
月子は深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。「私、離婚するの」
彩乃は少し沈黙した後、簡潔に言った。「時間と場所を教えて」
……
月子は離婚協議書を持って市役所に離婚の申請に行った。J市の市役所職員は、30日間の手続期間が過ぎれば、離婚届を受け付けられると言った。
手続きが終わったのは3時前で、彩乃と待ち合わせているカフェに早く着いてしまった。
コーヒーを一杯注文し、半分ほど飲んだ時、月子は突然カップを強く握りしめ、全身が硬直した。
まさか一日も経たないうちに、静真に会うとは思ってもみなかった。
第3話
静真がスーツ姿で玄関に現れると、その気品あふれる佇まいとモデルのようにすらりとした身なりは、カフェの客たちからこっそりと寄せられる感嘆の眼差しを集めていた。
静真の傍らには、30代前半の清廉な雰囲気の男が立っていた。彼もまた風格があった。
月子はその男が誰なのかをすぐに分かった。
田中浩(たなか ひろし)。A大学コンピュータ科学科の教授だ。フォーラムを見たことがあるから、彼女は彼がAIデータ駆動による安定性について研究していることを知っていた。
彼らの後ろには、静真の秘書の鈴木渉(すずき わたる)が書類を抱えて立っていた。
入江グループはK市におけるIT業界の先駆者だ。浩との接触はおそらく仕事関係の付き合いだろう。
月子は静真に会いたくなかった。
だが、今席を立って出ていけば、もっと目立ってしまう。見られないように祈るしかなかった。
しかし、現実は甘くなかった。
次の瞬間、静真の視線が、正確に彼女をとらえた。
目が合った。
静真はまるで彼女を見知らぬ人であるかのように、冷ややかな視線を送り、すぐに目をそらした。
彼は彼女の存在を気にしていないようだった。
渉も視線の先を見て月子に気づいたが、特に反応を示さず、振り返って後ろにいる二人に声をかけた。「個室はこちらです。田中先生、入江社長、どうぞ」
月子は少しほっとした。
ところが、彼らは足を止めた。
浩が突然尋ねた。「入江社長、窓際に座っている女性をご存知ですか?失礼ながら、社長と鈴木さんも彼女に視線を向けていらっしゃったので、私も少し気になりまして」
静真は月子が会社に現れることは想定していたが、まさかこんな所で会うとは思ってもいなかった。
それでも、特に驚きはしなかった。
しかし、だからといって彼女に会いたいわけではない。
静真は冷淡な声で「家の家政婦だ」とそっけなく答えた。
浩は少し驚いた。
本当のところ、彼がわざわざ質問したのは、静真が誰かに注目したからではなく、A大学研究室で彼女を見かけた記憶があったからだ……
しかし、A大学は国内でもトップクラスの大学だ。A大学を卒業した学生が、どんなに落ちぶれても家政婦をするとは考えにくい。
それに、A大学で見たあの学生は天才中の天才だった。田中研究室は現在、技術的な難点に直面しており、もし彼女のような人材が研究室に加われば、現状を打破できるかもしれない。
しかし、どういうわけか、数年前に突然姿を消してしまった。
彼はすべての卒業生の記録を調べたが、ごく平凡な学生ばかりで、あの天才学生に該当する者はいなかった……
浩は、あの天才学生の才能があれば、数本の論文を発表するだけで学会を揺るがし、A大学史上最年少の教授になることも可能で、コンピュータ科学硏究院の殿堂入りも夢ではないと評価していた。
まさに前途洋々だった。
浩は少し残念そうに思いながら、「では、行きましょうか、入江社長」と声をかけた。
静真は月子に再び視線を向けることなく、個室へと入っていった。
月子の爪がコーヒーカップに当たった。
不快な音が響いた。
かつて一樹が家に遊びに来て、彼女の作った料理を食べて、それはそれは絶賛し、彼女と同じくらい料理上手な女性と結婚したいと宣言したことがあった。
そのとき静真は「じゃあ、女の料理人を嫁にもらえばいいじゃないか」と冷たく言った。
人を好きになると、本当に馬鹿になってしまうのかもしれない。
その時月子は特に何も感じなかった。
だけど今思えば、本当に馬鹿げた話だ。
3年間も尽くした結果、自分は料理人や家政婦のレッテルを貼られただけの存在だった。なんて惨めなんだろう。
月子は急に胸が苦しくなった。こんな風に後から気づかされることで、その真実はまるで無数の針のように胸の奥に突き刺さり、絶え間ない痛みとなって襲ってきているようだ。
コンコン。
静真が個室に入った後、渉が彼女のテーブルに近づき、ノックした。
月子は思考を遮られ、顔を上げた。
渉は不機嫌そうな顔で冷たく尋ねた。「ここで何をしている?社長の行動を二度と調べるなと警告されたはずだ」
以前、入江会長が病気になったとき、月子は静真に連絡が取れず、仕方なく彼の秘書を探し結果、結局彼をバーで見つけた。
だがその時静真は泥酔していて、彼女が彼を支えようとしたら、ソファに押し倒され、激しくキスされた。
その瞬間、月子は驚きと喜びを感じた。
静真はいつも彼女に冷たかった。そんな彼が初めて自分からキスしてくれたことに彼女は感激していた……
しかし次の瞬間、彼の口から「霞」という言葉が聞こえた。
月子は全身が凍りついたように感じ、必死に抵抗した。しかし静真が酔いから覚めると、彼は結婚以来初めて激怒し、1ヶ月間家に帰らなかった。そのうえ、警告をするかのように、今度こんなことがあれば例え、入江会長の顔を立てたとしても必ず離婚すると脅してきていた。
月子は当然、二度とする気はなかった。
何があっても、二度と彼の行動を調べたりしなかった。
秘書の渉は、月子の静真への想いを理解していた。
だから質問した後も、彼女にそんな度胸はないだろうと思った。
月子は二度と静真の機嫌を損ねることなどできないはずだ。
突然大胆にもここまでついてきたのは、何かショックを受けたのだろうか?
渉はすぐに理解した。「霞さんの帰国で、こんな間違いを犯したのなら、霞さんが社長にとってどれほど大切な存在か、よく考えるべきだ。こんなことをして、意味がないとは思わないのか?」
霞は博士号を取得して帰国し、面接を経て浩の研究室に採用された。
浩は業界の権威であり、彼の研究員は皆、業界のトップレベルの人材で、人工知能の最先端応用技術を研究している。
霞の世界は月子にはとって程遠い存在だろう。
それもそのはず、渉からしてみれば、もし自分が月子の立場だったら、きっと身の程をわきまえるだろう。でなければ、霞に会った時に、その歴然とした差に恥をかくのは自分自身だしな。
しかし、月子にはそのような自覚がないようだった。
月子と渉の関係は、常に険悪だった。
理由は特にない。ただ、彼が静真の秘書であるというだけで、上司の態度がそのまま彼の態度に反映され、冷たく皮肉っぽい言葉を浴びせられてきた。
月子はこれまで静真のことしか頭に無く、渉にはいつも丁寧に接していた。彼が冷淡な態度を取り、嫌味を言っても、彼女は特に気に留めなかった。
だが今はもう、そんな我慢をする必要はない。
月子は反論した。「どうすれば意味があるっていうの?あなたの理屈で言えば、朝から彼にべったりくっついて、彼が何をするにもこっそりついていくほうが、よっぽど簡単で便利じゃない。それこそ、あなたの言う、嫉妬に狂ったストーカーってやつじゃない」
渉は驚いて彼女を見つめた。
月子はいつも自分にはおどおどしていたのに、どうして急に強気に出るようになったんだ?
しかし、彼はすぐに理解した。
月子は昨日流産したが、入江社長はずっと霞と一緒にいた。
自分の子供のこととなると、どんなにおとなしい女性でも少しは変わるものだ。だから彼女はこんな風になっているんだ。
とはいえ、月子の強気も長くは続かないだろう。
渉は無表情で言った。「お前と口論するつもりはない。社長はお前に会いたくないんだ。帰ってくれ」
月子が強気に出れば出るほど、静真の邪魔になる。
彼女にとって何のメリットもない。
こんな子供っぽい真似をする必要もない。
「私、静真と離婚したの。これから私が何をしようと、あなたたちに関係ないでしょ。もう構わないで」
そう言うと、月子は背を向けて立ち去った。
渉は彼女の後ろ姿を見ながら、呆れて笑いたくなった。
彼は月子が理解できなかった
入江社長は何度も離婚を切り出してきたが、本当に離婚した試しがあっただろうか?
自分に腹を立てても、何になるというのだ。
それに、強がるにしてももう少しうまくやればいいのに。結婚指輪を左手の薬指にはめたまま、見え透いた嘘をついている。余計に滑稽に見えるだけだ。
……
月子は店を出てから、彩乃に連絡した。「会う場所を変えよう」
本来は、彼女と会った後に行くつもりだった。
もう待てなかった。
ジュエリーショップ。
店員がピンセットを使って、月子の左手の薬指にはめられた結婚指輪を切断した。
ここ数年、子供ができなかった彼女は、姑から様々な薬を飲まされ、少し太ってしまった。いつの間にか、指輪が抜けなくなっていた。
切断された指輪はもはやただの屑となり、プラチナの相場で買い取られた。
月子は派手なものが好きではなく、結婚指輪にはメレダイヤが埋め込まれていたが、メレダイヤにはほとんど価値がないため、買取価格は4万円にも満たなかった。
彩乃はその価格を聞いて、あまりにも呆れて思わず笑ってしまった。「結婚指輪まで売るとは、今回の離婚騒動、なかなか本気みたいだね」
これまでの3年間の月子の様子から、彩乃は彼女が静真と離婚する決意を固めたとは全く信じていなかった。
第4話
月子は反論せず、薬指に残る消えない跡を見ながら、「この跡、本当にみっともないわ。もっと早く外すべきだった」と言った。
彩乃は彼女の言葉を聞いて、月子が今回は本気だと理解した。
すぐに百パーセント吹っ切れるとは言えなくとも、彼女がこれまでのどんな時よりも真剣だということは分かった。もう皮肉る必要はなかったが、性格上、どうしても我慢できなかった。
「あなたのいう愛の価値は、私の一回の豪華な食事ほどでもないわね」
月子は説明せず、「ちょうどいい、じゃあ、あなたにご馳走でもするわ」と言った。
彩乃は動かず、眉を上げて彼女を見つめた。「私の時間は貴重なの。はっきり言って。何の用か。この食事に付き合う価値があるかどうか見極めるから」
月子は言葉を失った。
彼女は数秒沈黙した後、「以前中断した論文を書き直すつもりで、あなたの研究室を借りてデータを処理する必要があるの」と言った。
この業界の変化は速いから、変えなければならないところもたくさんあった。
過去のことで後ろめたさがあったのか、月子は電話でそれを直接言う勇気がなかった。
彩乃の性格なら、きっと「何を今更」と怒鳴るだろう。結婚していなければ、大学在学中に論文は発表できていたはずなのだ。
案の定、彩乃は珍しいものを見るように彼女を見つめた。「急にどうしたの?」
だけど、月子は真剣に「本気よ」と言った
彩乃は彼女を見つめた。
月子は常に業界に身を置いていた。最近、A大学の浩の研究は、各テクノロジー企業から高い注目を集めている。
彼が今取り組んでいるプロジェクトの重要な難点を、月子が3年前に既に克服していたことは、ほとんど誰も知らない。
そして、完全なLugi-Xは彼女の会社にある。
しかも月子はLugi-X言語大規模モデルの唯一の開発者であり、彼女が克服した無数の難点のどれを取り上げても、一つの研究室を停滞させることができるほどのものだ。だから彩乃にとって、月子は紛れもなく最高の天才なのだ。
しかし、その天才は恋愛体質で、結婚した挙句、今はお茶くみをする秘書の仕事をしている。
業界で活躍せず、才能を無駄にするなんて、彩乃には理解できない。
「3年も中断していたのに、その論文にまだ価値があると思えるの?」
そう聞かれ、月子は「いくつか変更するつもり。先生が戻ってきたら、研究の方向性を確認して、承認を得たら続けるわ」と言った。
だがその前提として、先生が彼女に会ってくれることだ。
しかし、彩乃は心配そうに「じゃあ、待つことになるわね。先生は国のために身を捧げて研究に没頭しているから、そう簡単には出てこられないわよ」と言った。
だけど、月子は焦ってはいないようで「ゆっくり待てるわ」と言った。
静真に愛されることに固執しなくなった今、自分に最も不足していないものは時間だ。
彩乃はさらに何か言いたかったが、月子が業界から数年離れていたとしても、彼女が研究しようとしていることに、自分の技術では何のアドバイスもできないことをよく理解していた。
天才の世界は、そもそも常軌を逸している。
だから、彩乃はもう彼女を止めず「この食事、付き合ってあげる」とだけ言ってあげた。
彩乃は口は悪いが、本当は優しい。表面上は仕方なく付き合っているように見せているが、実際は全て演技だ。そうでなければ、月子に付き添って来たりもしなかっただろう。
月子は軽く笑った。「一条社長、ありがとう」
……
一樹は、1時間前に交際を始めたばかりの人気インフルエンサーの彼女と買い物をしていたが、そこで知り合いに遭遇した。
追いかけようとしたが、既に姿はなかった。
彼はそのジュエリーショップに入り、彼女に好きなものを選ばせながら、店員に尋ねた。
話を聞いているうちに、興奮してきた。
静真の野郎、自分を騙しやがった。
もし月子が今まで通り静真にベタ惚れで朝早くおとなしく帰っていたなら、結婚指輪を売ったりしないだろう?
彼は少し考えると、すぐに友達を誘い出した。
夜になると、いつものように皆で盛り上がっていた。
そこへ静真がようやく到着した。
一樹は彼を見るなり、わざと大声で言った。「なあ、月子が急に結婚指輪を売ったって、どういうつもりだと思う?」
毎回の集まりで、皆で月子のことをからかうのが定番だった。最初は静真が気にしないか心配していた。
もし静真が少しでも眉をひそめたら、きっと誰もそんな冗談は言わなくなるだろうけど、それは余計な心配のようだった。
静真は全く気にしていないようで、面と向かって囃し立てても問題なかった。
しかし、今日は皆が何も言う前に、静真が静かに口を開いた。「俺に見せるための芝居だ」
月子がカフェで言ったことを、渉が全て静真に伝えていたのだ。
静真が驚かなかったはずがない。
しかし、彼は渉と同じ考えだった。月子はショックを受けてあんなことをしているのだ。
結婚指輪を売ったのも、彼女の作戦の一つだ。
「芝居?月子ならやりかねないな。
でも、その手は静真さんには効かないよな。結婚してから、静真さんが結婚指輪をしていないことなんて、みんな知ってるし」
一樹は続けて暴露した。「特別な場ではしてるだろう、例えば入江会長の前とかは絶対しないといけないよな……」
静真は不機嫌そうに彼を一瞥した。
一樹はすぐに咳払いをした。「そうだった、そうだった!一度もしてない!一度もだ!」
こう言うと、静真の顔色はようやくましになった。
一樹は口元を歪め、更に尋ねた。「……その後、月子が他のジュエリーショップにも行ってたのを見たんだが、多分新しいペアリングをプレゼントするつもりだと思うんだけど、どうだ、もらったら付けるつもりはあるのか?」
静真は聞いていないふりをした。
彼は長い指を弄りながら、目に幾分優しい色が浮かんだ。
静真はその名の通り、見るからに冷たく気高い禁欲タイプだから、そんな彼が眉間に優しい表情を浮かばせるのは非常に珍しいのだ。
一樹はすぐに近寄って覗き込むと、彼は霞とチャットをしていた。
しかし、すぐに画面をロックした。
静真は顔を上げ、邪魔されたというように不機嫌な様子を見せた。「俺を呼び出したのは、そんなつまらないことのためか?」
一樹には分かった。月子が1ヶ月家に帰らなくても、静真は気にしないのだ。
月子がどんなに騒いでも、静真が気にしなければ何の意味もない。当然、面白がれるようなことも何もないはずだ。
一樹は残念そうに舌打ちをした。「俺の勝ちにはならないけど、お前の負けは決定だ。食事をおごるのを忘れるなよ」
月子がいつ家に帰るかの賭けのことだ。
静真は素直に応じた。「いつにする?」
一樹は少し考えてから言った「霞さんの誕生日が近いから、その日にしようぜ。一緒に盛り上がろう」
静真も「言われなくても、招待するつもりだった」と答えた。
それを聞いて一樹感心したかのように「もう計画してたのか。気が利くなあ」と言った。
気にするか気にしないかで、こんなに違うものなんだな。
記憶が正しければ、月子の誕生日は1ヶ月前だった。
その日、静真は彼らと一緒に酒を飲んでいた。月子から電話がかかってきたが、静真は酔っていて出なかったので、一樹が代わりに出ていた。
彼女が最初に言った言葉は、「まだ忙しいの?私の誕生日はもう終わったわ」だった。
その時すでに時刻は午前1時だった。
だから電話を取った一樹は申し訳なさそうに言った「俺だ。悪い、静真さんは酔っぱらっちまって……えっと、誕生日おめでとう」
月子は数秒沈黙した後、夫が自分の誕生日を忘れたことを完全に受け入れたようで、彼に静真の面倒を見るように頼んだ。一言の文句もなかった。
一樹は当時、月子は本当に恋に一途な人だと思った。
……
深夜、静真は一樹との飲み会を終えて帰宅した。
リビングを通る時、何かを思い出し、ソファの方を一瞥した。
見慣れた姿はなかった。
2階に上がると、廊下の奥の客間は真っ暗だった。
そこは月子の部屋で、2階で主寝室から最も離れた部屋だ。
1日経っても、彼女は戻ってきていなかった。
だが、静真は気にせず、振り返って主寝室に戻った。
月曜日、仕事の日。
静真は身支度を整えて階下に降りると、高橋が忙しそうに朝食をテーブルいっぱいに並べていた。彼はチラッとみて、あまり食欲はなかったが、それでもダイニングテーブルに着いた。
すると高橋はようやくほっと息をついた。
月子がいないこの2日間は、本当に大変だった。
静真は非常に礼儀がいいので、使用人に八つ当たりすることはほとんどないが、それでも威圧感が強く、高橋のような下っ端は、彼のそばにいるだけでかなりのプレッシャーを感じてしまう。
「静真様、ごゆっくりどうぞ」
料理は不味くはないが、月子と比べると、何か物足りなかった。
たった2日なのに、静真は月子の作る朝食が恋しくなった。「彼女から電話はあったか?」
高橋はまさに帰ろうとしていたので、不意に声をかけられて驚いた。「な、何ですって?」
静真は眉をひそめた。
高橋は思わず「!」とビクついた。
彼女はすぐに状況を理解し、慌てて口を開いた。「ありません!」
静真はさらに眉をひそめた。「一度もないのか?」
第5話
「そ、そうです。奥様から電話はなくて、私からかけても繋がらないんです。もしかしたら……ブロックされているのかもしれません」
ガシャン。
静真は箸を置き、冷やとした顔で出て行った。
その様子に高橋は唖然としてしまった。
どうやら自分の思い違いのようだ。月子がなにかをやらかすと必ず静真は機嫌をそこねるのだ。
高橋は月子がもう数日静真を放っておくことを期待していたが、今はそうは思わなくなった。
自分のような赤の他人でさえ、静真には強硬な手段よりも宥めるほうが有効だということが分かるのに、月子はもっとよく分かっているはずだ。だから最初から駆け引きなんてすべきじゃなかったのだ。
月子のこの行動で、高橋の日々も過ごしにくくなった。
本当に面倒だと彼女は思った。
……
静真は会社に着き、定例会議を終えると、間もなく秘書がノックしてプレゼントの袋を持ってきた。
静真はそれを開けた。
シンプルな指輪だった。
一樹は、月子が結婚指輪を売って、他のジュエリーショップにも行ったと言っていた。
だから、二日間いなくなっていたのも、こういうことを企んでいたからなのか?
後で弁当箱を持って会社に来るつもりだろう。
静真は眉をひそめた。
指輪のケースを閉じ、脇に置いて仕事に集中した。
しばらくして、彼は渉に電話をかけ、冷たい声で言った。「今日は月子を会社に入れるな!」
彼は月子に策略を巡らされるのが気に入らなかった。
電話を切ると、静真は指輪のケースをごみ箱に捨てた。
……
月曜日、仕事始めの日。
月子は時間通り自分の席に着いた。
結婚当初、月子は仕事に行っていなかった。ある家族の夕食会で、入江会長が不在の時に、静真の母親である伊藤晶(いとう あきら)が皆の前で彼女を責め立てたのだ。
何もしないで家でゴロゴロしているだけ、子供も産めない、静真の世話もろくにできない、友達に嫁の話をするのも恥ずかしい、とさえ言われていたのだった。
そこに静真はいたが、何も言わず、ただ晶が辛辣な言葉で彼女を攻撃するのをみていただけだった。
その日の夜、月子は履歴書を送った。
入江グループではなく、Sグループに。
Sグループは設立5年にも満たないが、すでに時価総額が20兆円を超えるIT企業だ。
Sグループは大企業なので、秘書職であっても、国内トップクラスの大学出身者でなければならない。
月子はA大学卒業で、学歴は十分だった。彼女は人気のコンピュータ専攻で、研究開発部に行くこともできた。
しかし、技術系の仕事は一般的にハードワークが多く、プロジェクトが大きければ昼夜を問わず拘束され、静真の世話をする時間がなくなってしまうのだ。
月子は比較的時間の融通がきく総務部を選び、社長室の秘書になった。
入江会長はそれを知り、彼女に入江グループに戻ることを勧めた。
自社なら勤務時間も融通がきき、それほど大変ではなく、自由もあるからだ。
月子は晶が自分を嫌っていることをよく知っていて、入江グループに行けば、もっと厄介な目に遭うだろうし、入江家の財産を狙っていると罵られるだろう。
その点Sグループなら、そんな面倒はない。
月子は妊娠のため、先週退職願を書いたが、今は出すのをやめた。
彼女は論文を書き直すために、業界の情報をいち早く知る必要があった。Sグループは最先端のIT企業だから、会社にいれば、利用できるリソースや機会も多いはずだ。
それに時間の融通がきく秘書の仕事なら、論文に十分な時間を費やすことができる。
「月子、今日はお弁当持ってきてないの?」
隣の席の同僚が不思議そうに尋ねた。
月子は時々おしゃれなお弁当を職場に持ってくるが、昼になるとお弁当を持って会社を出て行き、誰かに届けているようだった。
お弁当は月子が静真のために作っていたのだ。
静真は付き合いでお酒を飲むので、彼女は次の日早く起きて、彼に胃に優しいお弁当を作るようにしていた。
静真がお弁当を会社に持っていくのが一番簡単だが、彼は面倒くさがり屋で、簡単なことでもやりたがらない。
だから、月子は彼の分も会社に持ってきて、昼休みにタクシーで届けに行くしかなかった。
幸い距離は遠くないので、時間は間に合った。
月子は「お弁当作りたくないの」とだけ答えた。
もう必要ないのだ。
その時、秘書室のリーダーである渡辺南(わたなべ みなみ)が勢いよく入ってきて、重大なニュースを発表した。
「グループの社長が来週月曜日に帰国します。各部署の書類をまとめて、社長が確認できるように、正確で完璧なものにしておきましょう」
南は机を叩きながらテキパキと指示を出した。「皆さん、急ぎで取り掛かってください」
Sグループのここ数年の発展は奇跡的だが、最も謎めいたのは創業者の存在だ。
彼はずっと海外で市場を開拓していて、会社には副社長の山本賢(やまもと けん)がいた。
だからグループの真のトップは、月子も会ったことがないのだ。
皆が驚きと興奮から覚めると、忙しい一日が始まった。
……
入江グループ。
ある女性が何の前触れもなく静真のオフィスに現れた。
入江社長に会うには事前に予約が必要だが、この女性はリストに載っていなかった。
それだけでなく、渉が自ら階下まで迎えに行き、彼女を社長のとこまで案内した後、社長室から出るときは戸締りまで気を配っていたのだ。
こんな特別な対応に、秘書室の社員たちは驚きと好奇心でいっぱいだった。「あの女性は誰?すごく美人で上品で、テレビに出ている女優さんみたい」
「入江社長は予定外の接待は好きじゃないのに、今日、女性のせいで例外を作った。おかしいわ」
「入江社長はいつも女性に近づかないのに。私が入社して何年も経つけど、社長が女性と二人きりでオフィスにいるのを見たことがない」
皆はなんとなく考え始めた。「もしかして、将来の社長夫人じゃないかしら?」
静真は結婚後、秘密にしていたので、共通の友人を除いて、彼が結婚していることを知っている人はいなかった。
静真のようにスキャンダルがなく、私生活も真面目な男性が、こんな風に女性に対して特別な扱いをするのは非常に珍しいことだから、将来の社長夫人だという推測は理にかなっているのだ。
オフィスにて。
静真は霞を見ると、仕事を中断した。
霞は静真のデスクまで行き、両手をついて身を乗り出し、彼の何もつけていない指を見て尋ねた。「指輪、届かなかった?」
静真は驚いた。「お前が送ったのか?」
月子が買ってくれたものじゃなかったのか?
「昨日の夜、一緒に食事をする約束だったのに、田中先生のところで急用ができて、ドタキャンしちゃったから、お詫びにプレゼントを買ってみた」
霞は自分の薬指の指輪を見せた。「このブランドのメンズの指輪は種類が少なくて、唯一気に入ったのは私がつけているのとお揃いのものだったの。私は遊びでつけているだけだけど、あなたには素敵なデザインのものを贈ろうと思って。気に触ったりしないよね?」
こう言ってはみたものの、彼女は静真が気にしないと分かっていた。
静真は指輪のケースをごみ箱に捨てたことを思い出し、かがんで拾い上げ、手に取って眺め、先ほどの嫌悪感は消えていた。
霞の顔が一瞬こわばった。「捨てたの?」
静真は彼女を一瞥し、彼女の心中を見抜いた。
そしてケースを開けて指輪を取り出し、左手の薬指にはめた。
静真は優しい眼差しで言った。「お前が送ったものだとは知らなかった」
霞の顔色はようやく少し良くなった。
一樹は、静真は必要な時以外は結婚指輪をつけないと言っていた。
その理由は簡単に推測できた。
静真は尋ねた。「怒ってるのか?」
霞は首を振った。「怒ってないわ。あなたが嫌っているのはこの指輪じゃない」
それを押しつける人だ。
霞は「気に入った?」尋ねた。
「とてもきれいだ」静真は頷き、そして彼女に「昨日は何してたんだ?」と聞き返した。
「田中先生のプロジェクトが難しくて、一晩中資料を見ていたんだけど、あまり良い考えが浮かばなくて。幸い、私の友人の会社がこの技術に携わっていて、時間を見つけて彼に聞いてみようと思ってるの」と霞は答えた。
その会社の社長は彩乃といい、偶然にもA大学の卒業生で、彼女より数期下の後輩だった。
同じ名門校出身なので、彼女と知り合うのは簡単だった。
第6話
静真心から「お前は優秀だ」と褒めた。
霞は、男の目に濃い賞賛の光を見た。
この反応は、完全に彼女の予想通りだった。
入江グループと田中研究室が提携し、浩のプロジェクトが成功すれば、当然入江グループにも利益がもたらされる。
今回帰国した霞は、コア技術攻略のキーパーソンになりたかった。彼女には、それができる自信があった。
今や、世間知らずの令嬢が幅を利かせる時代ではない。手料理を振る舞ったり、甘えたりするだけで男心を掴めるほど、世の中は甘くない。
実力がある女こそ、男の目線を捉えることができるのだ。
霞は、実力のある女になりたかった。
……
月子は午前中ずっと忙しく、休憩時間に給湯室でコーヒーを入れ、ついでに同僚の分も入れた。
その時、中村秘書から電話がかかってきた。
彼女は静真の秘書だった。
月子が彼女と接点を持ったのは、静真のスケジュールを尋ねた時だけだった。
月子は静真に関わる誰とも接触したくなかったが、中村秘書はとても心優しい女性だったので、少し迷った後、電話に出た。
「月子さん、大丈夫ですか?」中村秘書の声はとても小さかった。
「ええ、大丈夫」月子は、なぜ彼女がそう尋ねるのか分からなかった。
中村秘書の声は心配そうに震えていた。「入江社長が今、ある女性を連れて会社を案内しているんです。すごく大騒ぎで、役員の方々は皆、彼女を未来の奥様だと思っているみたいで……月子さんがこのことをご存知なのか分からなかったので、一応お知らせしておこうと思って。その女性は、夏目……」
中村秘書の声は突然途切れた。
続いて、少し怯えたような小さな叫び声が聞こえた。「鈴木……さん、私は……」
彼女は角に隠れていたので渉が背後から歩いてくるのに気づかなかったのだ。
渉は中村秘書の携帯を奪うと、画面を見て眉をひそめた。
「また入江社長のスケジュールを聞き出そうとしてきたのか?」
中村秘書は渉の後ろにいる入江社長と霞の姿を見て、恐怖で頭が真っ白になり、何も言えなくなってしまった。
渉は中村秘書の返事を待たずに、事務的に報告した。「社長、月子です。また社長のスケジュールを聞き出そうとしていました」
渉は電話を切らなかった。月子に聞かれても構わなかった。
月子は眉をひそめた。
彼女は渉の中傷など気にせず、電話を切ろうとした。しかし、静真の冷淡な声がすでに聞こえてきていた。「放っておけ」
これは、静真がいつも自分に取る態度だった。
月子は驚かなかった。
ただ、事実確認もせずに自分を誤解していることが悲しかった。
昔の月子なら、必ず説明していた。静真に誤解されるのも、怒らせるのも怖かったからだ。
しかし、離婚は離婚だ。もう静真の気持ちを考える必要もないし、ましてや彼と霞の情報を聞き出すなどする必要もないことだ。
次の瞬間、静真のさらに冷たい声が聞こえた。「明日から、仕事に来なくていい」
月子は驚いた。彼は中村秘書をクビにするつもりなのか?
そうだ。初めて中村秘書に連絡を取った後も、静真は彼女をクビにしようとしていた。
月子が何度も頼み込んだおかげで、中村秘書は入江グループに残ることができたが、彼は「二度としないように」と警告していた。
やはり、二度目は許してもらえなかった。
それに静真が、自分に情けをかけるはずもないのだ。
「静真、秘書のことくらいで、そんなに怒らないで」
それは、霞の声だろう。
とても優しい感じだ。
彼女の名前のように。
霞は宥めるように言った。「そうだ、今日のランチは私がおごるわ。もう怒らないでくれる?私の顔を立てて」
2秒後、「ああ」
静真の声のトーンは軽くも重くもなかった。
前の冷酷な言葉と比べると、ずっと優しくなっていた。
霞は軽く笑った。「じゃあ、行こう」
その後、静真と霞の声は聞こえなくなった。
月子は自嘲気味に唇を引きつりながら、内心では言葉にできないほど切なさが溢れていた。
彼女はいつも、静真は機嫌を直すのが難しいと思っていた。なぜなら、以前は機嫌を直してくれるまで何日もかかったからだ。
月子にとって、この過程は精神的な拷問だった。そうなると彼女はいつも食欲がなくなり、夜も眠れず、静真の機嫌が直らない限り、他のことにも集中できなかった。
だけど、それは霞にとってたった一言で十分なくらいあまりにも簡単なことだった。
渉は通話中の携帯を見ながら、月子がすべて聞いていることを知っていた。
月子は人に迷惑をかけることを嫌う。中村秘書は彼女のせいでクビになったことで、きっと罪悪感に苛まれるだろう。
罰を受けるのは中村秘書だが、月子にとっては精神的な懲罰だ。
こうすれば、彼女は二度と陰でこそこそ動き回ることはしないだろう。
悪いのは、いつも入江社長のスケジュールを調べている月子だ。
それに、何をするにもその女に監視されてしまうなんて、入江社長の立場になってみると、考えただけでも息苦しい。
渉は手を振ると、待機していた首席秘書が近づいてきた。
首席秘書「退職の手続きは、今日中に済ませます」
渉は冷淡に「ああ」とだけ言って、立ち去った。
水曜日は霞の誕生日だ。彼は入江社長の指示通り、シーベイ・スターライトレストランを貸し切り、霞のサプライズ誕生日パーティーについてオーナーと相談をすることになっていた。
忙しいので秘書の退職のことなど構っていられないのだ。
首席秘書は渉から渡された携帯を受け取り、中村秘書に返そうとした時、不意に発信者名が表示されているのを見た。【月子さん】
彼女はすぐに眉をひそめ、数秒かけてこの人物を思い出した後、あきれたように言った。「あなたもバカね。彼女はただの入江社長の家政婦でしょう?彼女のために社長の機嫌を損ねることないじゃない」
中村秘書は社長に直接見つかってしまい、すっかり怯えてしまっていた。ようやく口を開くことができたが、それでも震える声だった。「彼女は……彼女は、家政婦じゃありません。社長の奥様なんです……」
「あなたの目は節穴なの?社長と霞さんがペアリングをしているのが見えてないわけ?霞さんはきっと将来の社長夫人よ、間違いないわ」
「違います……」
「もういいから、早く仕事の引継ぎをしろ!」
中村秘書は何も言えず、黙って自分の携帯を受け取った。
首席秘書が去った後、携帯を見ると、なんとまだ通話中だった。
彼女は全身に衝撃が走った。「あ、月子さん!大丈夫ですか!今の話、聞いてませんでしたよね!」
中村秘書は月子に聞いてほしくなかったが、それは不可能だった。
「彼女たちの言うことなんか気にしないでください。月子さんは、家政婦なんかじゃありません……ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
静真は結婚していることを隠しており、月子が彼のオフィスに行くことを許さなかった。
月子は毎回お弁当を届け、秘書に渡していたため、家の家政婦と誤解されても仕方がないのだ。
月子はそのこと自体は気にしていなかった。ただ、ほとんど結婚指輪をしていなかった静真が、まさか霞とペアリングをしていたとは思わなかった。
静真の手はとても綺麗だった。すらりと長く、白くて指の関節がはっきりとしていて、上品でありながら力強さもあった。長い薬指にダイヤモンドの指輪をつけると、言葉にできない魅力があった。
チャンスがあれば、月子はいつも長い時間見つめていた。
しかし、静真が結婚指輪をしている回数はごくわずかだった。
彼女は、静真はアクセサリーによる束縛感が好きではないのだとばかり思っていたが、それは考えすぎだった。彼はただ単に結婚指輪をしたくなかっただけなのだ。
月子は申し訳なさそうに「ごめん。もうあなたの仕事を挽回することはできないわ」と言った。
中村秘書は月子と一度しか話したことがなかったが、彼女がとても良い人だと感じていた。
入江社長が他の女性にこれまでにないほど夢中になっていることが心配で、月子に知らせに来たのだ。彼女にもっと用心深くなってほしかった。
しかし、結果的に失敗してしまった。
中村秘書はひどく申し訳なさそうに言った。「大丈夫です、大丈夫です。前に言ったとおり、私は実家に帰って両親を手伝うつもりでしたから、クビになっても大したことではありません。退職願はもう半分くらい書いてありましたし!」
彼女の話しぶりは自分を慰めているようには聞こえなかったので、月子はほっとした。
その後、中村秘書は少し小さな声で言った。「でも、どうしてでしょう。月子さんが社長の奥様なのに、社長はどうしてこんなひどいことを……」
入江社長は月子を彼のオフィスにすら入らせなかった。
なのに、霞は簡単に入れる。なぜ?
たとえ結婚を隠したかったとしても、「親戚や友人だ」と一言説明すれば、誰も詮索したりはしないだろう。
それに、月子が苦労して作ったお弁当を、お昼休みにわざわざ届けに来たのに、門前払いするなんて、入江社長の態度はあまりにもひどい。
第7話
月子は自分のプライベートを話すのは好きではなかったが、中村秘書が本当に心配してくれてたようだったので「彼とは離婚したの」と一言付け加えた。
中村秘書は驚きを隠せない。「離婚したんですか?そんなに彼を愛していたのに……」
「ええ、離婚したの」月子は淡々と答えた。
中村秘書はすぐにその事実を受け入れた。
彼女は月子の決断を完全に理解できた。
理由は簡単だ。入江社長は月子を愛していなかった。だから、あのダブルスタンダードな行動にも納得がいく。
「……入江社長は、本当にあの霞さんと結婚するんでしょうか?」
中村秘書は質問した後、自分の失言に気づいた。「すみません、聞かない方がよかったですね。忘れてください……」
だけど月子は落ち着いた口調で「わからないわ」と言った。
静真の心は、3年間温め続けても温まらなかった。今更、彼の心を見抜けるわけがない。
これ以上話すこともなく、二人は電話を切った。
月子は霞の事を思い出した。
静真と出会う前から、月子は霞と知り合いだった。
しかし、結婚後に、月子は霞が静真の初恋の人だと知ったのだ。
霞と知り合った理由は複雑だ。
簡単に言うと、霞は彼女の叔母と関係があった。
母親が亡くなり、叔父は海外に移住し、叔母は祖父が一代で築き上げた家業を引き継いだ。
なぜか、叔母は突然霞の父親に熱烈に恋をした。
霞の母親は早くに亡くなり、3人の子供が残されたが、叔母はそれでも夏目家へ嫁ぐ決意を固めた。
こうして、叔母は霞の継母になった。
当時の夏目家はK市では全く目立たない小さな会社だったが、叔母は自分の持っている資源の全てを夏目家に注ぎ込み、今日の夏目グループを築き上げたのだ。
そして叔母の長年にわたる経営努力によって、夏目家は徐々にK市の上流階級で一目置かれる存在となった。
霞も正真正銘の令嬢となった。
母親が亡くなる前、月子と叔母はとても仲が良かった。叔母が夏目家に嫁いだ後も、よく会っていた。
月子は叔母を自分の母親のように頼りにしていた。
しかし、彼女が静真と結婚してからは、叔母の態度は冷たくなり、年に一回も会わなくなるようになった。
月子は最初は、叔母は自分の家庭を持ったため、姪である自分に割く時間と気力がなくなったのだと思った。
そのことで月子はしばらくの間悲しみに暮れたが、どうすることもできなかった。
叔母の選択を理解し、受け入れるしかなかった。その後、叔母に連絡を取ることはほとんどなくなった。
今になって思えば、叔母の態度の変化は、新しい家庭を持ったことだけが原因ではなく、彼女が静真と結婚したことも関係していた。
「水曜の夜、空いてる?」
彩乃からの電話が、月子の思考を中断させた。
「時間はあるわ」
月子は気持ちを切り替えるのが得意で、声には何も異変は感じられなかった。「どうしたの?」
「シーベイ・スターライトレストランで、夕食をごちそうするよ」
……
Sグループの社長がもうすぐ帰国する。
今週は月子は残業続きだった。
水曜日の夜8時、ようやく彩乃の指定した場所に到着した。
入り口に着くと、彩乃が暗い顔をしてレストランから出てきた。
月子は彼女に尋ねた。「どうしたの?」
彩乃は少し歯ぎしりした。「誕生日のお祝いをしようと思ったら、クソ野郎に貸し切りされてた」
誕生日のお祝い?
今年の月子の誕生日、彩乃は彼女を誘っていた。
しかし、彼女はちょうど妊娠がわかったばかりで、嬉しくてたまらず、誕生日にこの嬉しい知らせを静真に伝えたいと思っていたので、彩乃の誘いを断ったのだ。
静真は早く帰ることを約束したが、日付が変わっても彼の姿はなかった。
電話をかけると、一樹が出た。
そこで、静真は友達と酒を飲んで酔っ払い、彼女の誕生日を忘れていたことを知った。
翌日、月子は我慢できずに彼にメッセージを送った。【昨日は何の日だったか、覚えてる?】