今さら私を愛しているなんてもう遅い

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今さら私を愛しているなんてもう遅い

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結婚して7年、白鳥未央(しらとり みお)は夫の西嶋博人(にしじま ひろと)には別の女性、綿井雪乃(わたい ゆきの)という女がいることを知っ...

Chương (1)

第1章

結婚して7年、白鳥未央(しらとり みお)は夫の西嶋博人(にしじま ひろと)には別の女性、綿井雪乃(わたい ゆきの)という女がいることを知った。 彼と雪乃は熱烈に愛し合っていて、周りは彼らがきっとヨリを戻すだろうと噂していた。息子の理玖(りく)ですら雪乃のほうに肩入れしていた。「雪乃さん、あなたの病気が僕のママに移っちゃえばいいのになぁ」 再び夫と息子が雪乃と一緒にいるのを見たことで、未央はようやく自分の気持ちに区切りを付けるのだった。 今回、彼女は何も騒ぐことはせず、立花市(たちばなし)へと向かう飛行機のチケットを買い、離婚協議書と親子の縁切りを書き記した紙を残して去るのだった。 薄情者の息子に、氷のように冷たい夫。彼女はそれらを全部雪乃に渡し、あの三人が本当の家族になりたいという望みを叶えてやるのだった。 そして、それから1年後、彼女は催眠術と心療内科医として業界に名を広めることになる。しかし、そんな最中、ある男と子供の2人の患者が彼女のもとを訪ねて来た。 男のほうは目を真っ赤にさせ、ぎゅっと彼女の腕を掴んだ。「未央、お願いだから、俺たちから離れないでくれ」 その男の傍にいた小さな子供も彼女の服の端をぎゅっと掴み、低い声で懇願した。「ママ、家に帰ろうよ?僕はママしかいらないんだ」 第1話 「藤崎さん、私、立花市へ行きます。あなたの妹さんの心療内科医になりましょう」 白鳥未央(しらとり みお)の落ち着き払った声が鳴り響いた。 電話の向こうの男は低く意外そうな声を出した。 「白鳥さん、あなたはもう結婚したと聞きました。ご家庭のことが心配でしたら、あなたの旦那さんとお子さんの都合も考えますよ」 旦那と子供? 未央は視線を下に落とした。そう遠くないところにうっかりひっくり返してしまった牛乳が床にぽたぽたと滴っている。 彼女は突然、朝、彼女が牛乳をひっくり返してしまった時、息子が嫌悪の目つきで見つめているのを思い出した。 「ママ、どうしてこんなちょっとしたこともできないの?もし雪乃さんだったら、こんなことしないよ?ママって本当に雪乃さんには遠く及ばないよね」 息子が言うその「雪乃さん」という人物は、夫である西嶋博人(にしじま ひろと)の浮気相手である綿井雪乃(わたい ゆきの)のことだ。彼女はバレエダンサーとして有名な女性で、「白鳥の湖」を躍らせると、それはそれはまるで夢の中の幻想のようで、小さな息子でさえもそれに憧れの目を向けるほど美しかった。 その時、博人は息子の言葉を聞いて、息子を叱ることもなく、ただ冷ややかな嘲笑するような目つきで彼女を見ていた。「この女がどうして雪乃さんと比べられる?昔お前の母さんがあんな小細工して仕掛けてこなけりゃ、俺はこんな女と結婚なんかしなかったってのに……」 彼女と博人は結婚して7年だ。この二人はある予想外なことがきっかけで関係を持ってしまい、子供ができてしまって結婚することになったのだ。 西嶋家は財閥家で、彼女は博人と結婚した後、西嶋家から仕事をやめるように要求された。そして、全てを懸けて博人の良い妻となり、夫に尽くし子供をしっかり育てろと言われたのだ。息子の西嶋理玖(にしじま りく)をしっかりと教育するべきだと。 未央は息子のために結局はそれを受け入れ、仕事をやめ、家事を全部こなす専業主婦になり、熱心に夫と息子の世話をしていた。 それから7年という時が流れたが、彼女の息子と夫の心に住みついているのは彼女ではなく、他所の女だった。 息子がいつも「ママ、どうしていつもパパにわがままを言うの?ママが何もできないから、パパに嫌われたって当然だよ。もし雪乃さんが僕のママならよかったのに」と言っているのを思い出した。 未央は目線をまた元に戻し、少しうわずったような声で言った。「藤崎さん、いいんです」 夫と息子の二人とも雪乃を自分たちの妻と母親にしたいと思っているのだから。 それなら彼女は彼らの望みを叶えてあげるまでだ。 夫も息子も、いらない。 未央は藤崎悠生(ふじさき ゆうせい)に15日後にこの町を去ることを約束した。 藤崎悠生は立花市のトップクラスの富豪である。彼の妹は心理的な問題を抱え、重度のうつ病を患っていた。 河本(こうもと)教授の助けを借りて、白鳥未央を紹介してもらったのだ。彼女は以前、河本教授の一番弟子と言っていいほどの実力の持ち主で、催眠術と心理学において天賦の才を発揮していた。 そして彼女が博人と結婚してから、心理学から離れ専業主婦となってしまったことに河本教授は心から残念に思っていた。 「白鳥君、君は女性だけれども、西嶋家のために家の中に閉じ込められておくべきではないと思うよ。君は強く逞しい自由な精神を持っている。その才能を思う存分発揮するべきだと思うんだけどね」 河本教授は以前このように彼女に伝えていた。 当時の彼女はそれでも西嶋家の言う通りにすることを選んだ。 今考えてみると、やはり外から見ていた人のほうが正しかったようだ。 彼女が博人たちこの父子のために自分を犠牲にしてきたことは自己満足のようだった。彼らの瞳には、以前心理学の天才だった彼女よりも、ヒラヒラと踊る可愛らしい白鳥である雪乃のほうがよく映っているのだった。 未央が電話を切ってすぐ、ちょうど博人からボイスメッセージが送られてきた。「俺と理玖は外で食事する。だから夕飯の準備はしなくていい」 彼の口調は淡々として素っ気なく、妻に対して言うようなものではなかった。それとは逆にまるで家政婦に指示を出しているかのようだ。 彼女はこの何年もの間、些細なことにも気を使い、非常に忙しくしていて、確かにタダ使いの使用人にそっくりだった。 未央は彼に返事をしようとしたが、ボイスメッセ―ジの中に雪乃と息子の声がするのに気づいた。 「雪乃さん、ママって老婆みたいなんだよ。なんにもできない上に、人のことにはうるさく口を出してくるんだ。僕にこういうのは食べさせてくれないんだよ。やっぱり雪乃さんが一番だね。何でも言うこと聞いてくれて、僕は雪乃さんが大好きだ」 息子のその話しぶりは無邪気で未熟だった。 もし以前の彼女だったら、未央は恐らくがっくりと気を落として辛く思ったことだろう。 しかし、この時の彼女の心は、意外にも穏やかだった。 息子は早産だったので、体が弱く彼女は長年とても気を配って彼を育ててきた。飲食においては特に気を付けていて、彼女は彼の身体を心配し、外食などさせてこなかった。 しかし、息子の目には、彼女は老婆のように映っているのだった。 未央は多くを語らず、短く「分かったわ」とだけ返事をした。 血の繋がりがあろうが、彼がひ弱な体であろうが、もはや今の彼女には関係ない。 未央は散らかったリビングを見つめながら、自分から床にこぼれたままの牛乳を掃除することはせず、家政婦のおばさんを呼んできた。 博人は赤の他人が家に入るのを嫌っているから、今までずっと未央が片付けや掃除をしていたのだ。彼女はこれまで不器用ながらも、注意深く博人の好き嫌いに合わせてやってきた。 しかし、今の未央はもう全てを悟っていた。 彼女はここを離れる決意をした。博人が好きか嫌いかなどもう重要ではないのだ。 家政婦のおばさんに部屋の掃除を任せ、未央は部屋に戻って離婚協議書にサインをし、時間指定の宅配サービスを頼んだ。 半年後、これが時間通りに彼女の夫の手元に届くのだ。 彼女は、これは恐らく博人に贈る最後のプレゼントだと思った。 夜、博人はやっと息子と一緒に帰って来た。 二人は家に着くと、息子のほうは興奮した様子で話し始めた。「パパ、雪乃さんの踊りって魔法みたいにキラキラしてたよね。明後日学校で出し物をするんだけど、雪乃さんに来てもらってもいいかな?」 息子は金持ちの子供たちが通う幼稚園に行っているのだ。 そして、明後日には園児たちの出し物があって、親が同伴しなければならない。ただ彼はずっと自分の母親が人前に出てくるのは恥ずかしいと思っていて、このことを未央に伝えていなかったのだ。 そうか、彼は母親ではなく雪乃に来てもらいたいのか? 息子の興奮して楽しそうだったその様子は家の中に入ったとたんに消えてしまった。 彼女を見た瞬間、息子は口をすぼめて眉間にきつくしわを寄せた。 博人は彼の手を繋いだまま、家の中を見渡し眉をひそめた。「誰か来たのか?」 「ええ」未央は不用意に言った。「使わない物を頼んで片付けてもらって、あげちゃったの」 たとえば、彼女が以前夫のために買ったが、一度も使われることのなかったネクタイやカフスボタン、それから息子のために準備していたが、すぐに遊ばれなくなったおもちゃ等だ。 彼女はここを去るのだから、このようなお古はさっさと片付けてしまったほうがいい。それにちょうど彼女の夫が新しくこの家に綿井雪乃という女性を迎える準備にもなるだろう。 博人はこの時、どうもおかしいと思った。 彼はクローゼットの中にはあまり興味がなく、何が減ったのかなどよく分からなかったのだ。 ただ眉間にきつくしわを寄せて、冷たい声で言った。「理玖は体が弱いんだ、いろんな物にアレルギーがある。今後、他所の人間を家に入れるのは控えてくれ。あのどうでもいいガラクタなんか捨ててしまえばいい、西嶋家にはなんでもあるんだからな」 その通り。 彼女が心を込めて準備した夫と息子へのサプライズは一度も一度も彼らに喜んでもらえなかった。 未央は以前のようにヒステリーを起こすこともなく、他のどんな人間よりも息子にどんなアレルギーがあるか知っているということを説明することもなく、ただ冷たい端正な顔をした夫を見つめ頷いた。「分かったわ」 そして未央は息子が家に入って来た時に話していた言葉を思い出し、突然言った。「明日私は用があるから、幼稚園の出し物は雪乃さんと一緒に行ってきてくれる?」 傍にいた理玖はそれを聞いて瞬時に瞳をキラキラと輝かせ、どもりながら言った。「ほ、本当にいいの?ママ、本当に雪乃さんに来てもらっていいの?」 未央は息子が興奮して嬉しそうな様子を見て、突然笑った。 彼女は頷いた。「もちろんよ」 しかし博人のほうは顔をしかめて、彼女がおかしな事を言い出したので、表情を瞬時に凍らせ、我慢できない様子で言った。「未央、お前、何腹を立ててるんだ? 理玖はまだ小さい。雪乃のことを気に入るのはごく自然なことだ。この子はただ適当に言ってみただけだぞ、お前まさか息子にキレてんのかよ?」 第2話 男の瞳の底には嫌悪と不愉快さがはっきりと映っていた。その黒い瞳には氷のように冷たい光が宿っている。 未央は静かに彼のその目線と対峙した。 これは彼女の夫だ。しかし、彼女を見つめるその目には一度も愛情が宿ったことなどない。 「こうしちゃダメなの?」 彼女は瞼を上げて淡々とした口調で言った。「理玖はその雪乃さんに来てもらいたいんでしょう。私はこの子の母親だもの、この子をがっかりさせたくないの。それに、その日は私用事があるし」 彼女はその日、本当に用事があるのだ。 あの謎に包まれた男藤崎に彼女は診察をすると約束したが、その行動は全て秘密にしておかなければならなかった。 それで銀行カードや携帯番号など、新しい物を契約しに行く必要があるのだ。 この時の彼女はいつもとは違って全く騒がなかった。 博人は眉間にきつくしわを寄せて、彼女を睨んでいた。 以前の彼女であれば、絶対にこのようなことには同意しなかった。未央は西嶋夫人というこの身分をかなり気にしていて、自分の代わりに子供のお遊戯会へ雪乃を見に行かせるなんて有り得なかったのだ。 彼女は一体何をしようとしているのだ? 男のその黒い瞳に皮肉の色が浮かび、冷ややかに言った。「分かった、未央、後悔なんかするなよ。だったら明日の幼稚園のお遊戯会には俺と雪乃が理玖と一緒に行くからな」 一体未央がどういうつもりなのか見させてもらおうじゃないか。 博人は書斎のほうへ向かい、バタンッと書斎のドアを閉めた。 理玖は雪乃の名前を聞いて、同じように眉をひそめ、小さな大人のような様子を見せて不機嫌そうに未央を見つめた。 「ママ、これはママが雪乃さんに来てもらうって言ったんだからね。パパと喧嘩するべきじゃないよ」 彼はそう言い終わると、大真面目な態度で小さなカバンを持って自分の部屋へと戻っていった。その顔は博人にそっくりだった。 二つの部屋のドアはきつく閉じられていた。 がらんとしたリビングには未央がたった一人だけ残されていた。 この時の彼女の心はもう麻痺していて、全く心の痛みや悲しみなど湧いてくることもなく、ただただ落ち着き払っていた。 これはこれでいいじゃないか。 これで彼女も安心してここを去ることができる。 未央は幼稚園のそのお遊戯会に参加することなく、翌日白鳥家の実家に戻り、博人に関係するものを全て持ってきた。 彼女は高校生の時から博人のことが好きだった。 当時、白鳥家が没落する前のこと。彼女はまだ白鳥家の令嬢だった。そして一方的に博人に片思いし、こっそりと博人の私物を集めていたのだった。 シャツのボタン、彼が使っていたボールペン、彼の昔の満点の解答用紙…… それから彼女が昔つけていた日記帳。 それから彼女が博人と結婚してから、白鳥家の実家には一度も帰っていなかった。これらの物はずっとその実家に保管されたままだった。 家の中の様子は変わっていないが、人は変わってしまった。 未央は彼女が17歳の時からしていた馬鹿げた意気地な片思いを思い返していた。 彼女は感情面において少し不器用なところがある。 多くの場合、馬鹿で無鉄砲で、とことんまでやらないと決して諦めることがなかった。 今、過去を振り返って彼女がおこなってきた一つ一つを見てみると、本当にただの笑い話のようだった。 未央は昨日整理してきた物と一緒にこれらを屋根裏部屋に封印した。 この虹陽市(こうようし)から去れば、彼女は恐らく長い間ここには戻ってこないだろう。 この実家に彼女が以前受けた傷と失敗を保存しておいて、彼女を迷いから解き放つのだ。 未央は午後まで実家にいて、それからそこを離れた。 途中で天野瑠莉(あまの るり)が彼女に電話をかけてきて、情報消去の確認をしに来るよう伝えた。 ちょうど瑠莉の家は息子である理玖の幼稚園の近くだった。 彼女が到着した頃には、幼稚園の演目は全て終わって解散となっていた。 多くの記者たちが幼稚園の入り口にわらわらと集まって来ていて、その注目の的は博人だった。 「西嶋社長、綿井雪乃さんはあなたが長年ずっとお隠しになられていた奥様ですか?当時綿井さんは夢を叶えるために海外に行かれて、それが原因でお二人は別れたんですよね。もしかして実はお二人は結婚していたことをお隠しになられていたのでは?」 理玖が通っている幼稚園は金持ちが通う私立幼稚園で、お遊戯会のために特別にメディアを呼んでいたのだ。しかし、そこへ博人が雪乃と一緒に現れたものだから、記者たちの注目の的になってしまったというわけだ。 当時、未央と博人は裏で隠れて結婚をした。 博人は理玖の存在を全く隠すことはなかったが、この虹陽市において、その西嶋博人の妻が一体誰なのか知っている者はとても少なかった。 そして今日は博人がはじめて女性を連れて子供のお遊戯発表会に参加したのだ。 それに雪乃と博人は深い関係だ。 だから記者たちがそのような想像を膨らませるのも無理な話ではないのだ。 そう遠くないところから、未央は博人を見つめていた。 博人はかつて、彼女が西嶋家に嫁ぐために何かしらの手を使ってわざと彼の子を身ごもり、目的を達成したと決めつけた。だからずっと彼女の身分を公表したことはなかった。 そして今日、記者たちからそのような憶測が飛び、男の顔は少し冷たくなり、少し眉をひそめているようだった。 博人が何かを言おうとした瞬間、隣にいた雪乃が突然唇を噛みしめながら、本当は否定したいがそれを認めるかのように恥じらいながら言った。 「それは博人のプライベートなことです。今日私たちは理玖君のお遊戯を見に来ただけです。みなさんは子供たちのほうにご注目されてください」 その場にいた記者たちはみんな抜け目のない人間たちで、その言葉を聞いた瞬間に何かを悟ったようだった。 雪乃のこのような話しぶりは、明らかに自分が西嶋家の女主人であると主張している。 博人は眉間に少ししわを寄せ、近くにいた未央のほうを向き少し驚いていた。 この時の彼女は以前のようなノーメイクではなく、深い緑色のロングスカートに、綺麗にお化粧をして、巻いた長い髪を背中の方に垂らし、シンプルなパールの髪飾りをつけていた。 唇はとても鮮やかな赤だった。 眉をひそめたり笑ったりして、穏やかで優美な様子だった。 彼はこの時突然、当時未央は虹陽市でも噂の美人だったことを思い出した。 ただ、彼女は博人と結婚してからこのようにお洒落することがなくなったのだ。 博人の秘書はササっとやって来ると、メディアの記者たちを追い払った。 人だかりが消えていくと、雪乃も未央の存在に気がついた。 彼女の瞳は少し光り、博人と一緒に理玖の手を繋いで未央のほうへとやって来た。 この三人、完全に家族のように見える。 それとは逆に彼女は部外者のようだ。 しかし、未央はこのシーンを淡々とした様子で落ち着いて見ていた。 そしてすぐ、雪乃は耳元に少しかかる髪の毛をきれいに整えて、優雅に、またどうしようもないという困った様子で説明した。 「未央さん、ごめんなさい。さっき記者たちに質問してこられて、何か変な噂でも立てられたら困るものだから、あの人たちを帰らせるためにあんな風に言っただけなんです。未央さん、気になさらないでね」 博人は未央をじろじろと見て、眉をひそめて冷ややかな声で言った。「雪乃だって別に騒動を起こしたいわけじゃないんだ。もしお前が今日来るのを断ってなけりゃ、こんなことにはならなかったんだしな……」 理玖でさえもその可愛い顔をしかめて、ためらいながら言った。「ママ、雪乃さんだって僕たちのためにああしてくれたんだよ」 母親は今日いつもと感じが違っていて、美しく目を奪われるような姿だったが、彼が好きなのは雪乃のほうなので、母親が雪乃をいじめようとするのは許さなかった。 雪乃はその言葉を聞いて、瞳が輝き、唇をニヤリとさせた。 彼女は未央が怒って何か言ってくると思っていた。 しかし次の瞬間、未央はただ目をぱちぱちとさせただけで、突然微笑んだ。「私は別に、ただメディアが誤解して、綿井さんと理玖に何か悪い影響があったらいけないと思っただけよ」 彼女は実際この時すでに西嶋夫人という肩書きなどどうでもよかった。 偽物はただの偽物でしかない。 メディアはよく考えてみれば、気づくはずだ。雪乃の今までの行動履歴と、理玖の生まれた時期はどうもおかしいことに。 雪乃は少し驚き、隣にいた博人は眉間にきつくしわを寄せていた。心の中に湧いているおかしな違和感と焦りがさらに深くなっていた。 彼はただ彼女は昨日わざと彼を試すような態度を取っていただけだと思っていた。 しかし、それは外れたらしい。メディアが彼と雪乃の関係を誤解しても、彼女は一つも騒ぎ出すことはなかった。 未央は一体どうしてしまったのだろうか? 「言いたいことはそれだけよ。私はまだ用があるから、これで失礼するわ。綿井さん、今日はどうもありがとうございました」 未央は視線を彼らから外し、淡々とそう言うと、またちらりとわざとらしく三人家族をアピールしてきた雪乃を見た。 博人と彼女はお揃いの服を着ていた。 彼女の息子はその子供服を着ていて、顔を上げて親し気に頼り切った様子で雪乃を見つめていた。 未央は目線を下にずらした。 雪乃は未央の夫と子供が欲しいのか? ちょうどいい。 雪乃のためにその願いを叶えてあげようじゃないか。 未央が去れば、西嶋夫人という席が空くのだから。 第3話 博人は唇をきつく結び、未央の後ろ姿を見ていた。彼の整った眉が少し歪み、心の中には何とも言えない焦りが生まれた。 なぜだか分からないが、彼はなんだか未央が以前とは少し違うと感じた。 雪乃は彼の表情をしげしげと見つめ、唇を噛みしめ恐る恐る言った。「博人、白鳥さんさっき不機嫌だったからあんなふうに言ったの?私は本当にわざと記者たちにあんなことを言ったんじゃないのよ」 博人は眉を少しひそめ、切れ長の瞳を細めた。 未央が……あんなふうにわざとふてくされたのか? 「君のせいじゃないよ、あんなやつほっておこう」 博人のその声色は氷のように冷たく、表情も冷淡だった。 彼女は西嶋家の若奥様という身分でありながら、息子のお遊戯発表会にも参加しようとしなかった。息子に意地になって雪乃を来させたのだから、その後どういう結果になろうともそれに責任を持つべきだろう。 雪乃は口角を上げニヤリと笑い、その瞳には計算高さがうかがえた。 博人と雪乃の関係はすぐに話題となり、人気検索ランキングの1位になった。 いくら博人が操作してその情報をネットから消したとしても、やはり影響は小さくなかった。 瑠莉ももちろんネットでそのゴシップを見た。 「だから……もう心を決めたって?本当にここを去って、立花に行っちゃうの!」瑠莉はネットの話題記事から目を離し、眉を驚いたようにつり上げた。「じゃ、ここにあなたがいたっていう全てを消し去るのは、今後の行方が分からないようにするためなのね?」 未央はそのネット記事に目を落とし、盗撮された写真を見つめていた。 博人と雪乃は保護者席に座って、ステージでバイオリンを弾いている理玖のほうを向いて、微笑みながらお互い見つめあっていた。 一家三人、和気あいあいとした様子だ。 息子が当初バイオリンを習い始めた頃、彼女が辛抱強く彼に付き合って少しずつ練習していき、彼が興味を失わず続けられるように一緒に努力してきたことを誰も知らない。 そして今、人々は彼女の息子が綿井雪乃の芸術的才能を受け継いでいるとまことしやかに囁いていた。 ちょうどこの時、雪乃がその記事にイイネを押した。 そしてついでにまるで真実であるかのような内容のXを投稿した。「ある人が昔私に尋ねたことがある。深く愛した人と再会したら、粉々になった鏡は元通りになるかって。そして今の私の答えはね、深く愛し合う二人はずっと強い結びつきを持っていて、わざわざ綺麗に修理する必要なんかないの」 「うん」未央は目線をもとに戻し、小さな声で言った。「私に関することは全部消し去ってちょうだい」 この都市で生きた彼女の25年という記憶を。 しかしその人生の大半は辛いものだった。 白鳥家は落ちぶれ、以前熱烈にある男を全力で愛したがそれはボロボロに虚しく崩れ去っていった。そんな過去を全て。 ここには瑠莉と空っぽになった実家を除いて、もうかなり前から彼女が恋しいと思うものなど残っていないのだ。 …… 恐らく人気検索トップ記事になった騒ぎがかなり広まってしまったからだろう。 夜、未央はデリバリーを頼み、自分ではもう料理をしなかった。 以前、彼女はいつも息子と博人の健康を気遣い、何もかも全部自分でやっていた。今の彼女はもうすぐここを去る身だし、博人と息子は彼女が作った料理にいつもケチをつけていた。 それで、未央はいっそのこと博人と息子が好きなレストランを選んだのだ。 人というのはこういうものだ。 場合によっては、相手を喜ばせるために懸命に試行錯誤するより、相手の望み通りにやってしまったほうが効果がある。 彼女が心を込め時間をかけて作ったスープよりも、雪乃が予約してくれたレストランのほうが喜ばれるのと同じように。 ちょうど、西嶋家のおじいさんがネット記事のことを知って、わざわざ電話をかけてきた。 博人は電話を切って、食卓に並んだ料理を見て驚いた。 未央のほうは落ち着いた様子で説明した。「あなたと理玖が好きなレストランの料理よ。今日はちょっと用があって忙しかったし、ちょうど私も味わってみたかったしね」 博人は眉をひそめた。 そして耳元に突然祖父の言葉がよぎった。 「博人、人ってのはな、時にはどのように始まったかなんて気にする必要などないんだよ。結果とその過程を見なければならない。未央さんがお前にどう接してきたか、心の中ではよく分かっているだろう。彼女がお前と結婚してから、お前が胃の調子が悪いと知れば毎日何時間もかけて胃に優しいスープを作ってくれただろう。 彼女は小さい頃からお嬢様として過保護に育てられてきたんだ。それなのにお前のためにスープを作り、手に火傷まで負っても頑張ってくれたろ……人が一生のうちで最も恐れるものは後悔ではなく、失ってしまうことなんだ。 博人、お前と他所の女性とのことはもう過ぎ去った過去のこと。客観的に見れば分かる、最も恐ろしいのは愛しているのに、その自覚がなくて、失ってから後悔することだ。その結果は悲惨な……」 愛? 彼と未央はずっと尊重し合ってきた。彼ははっきりと彼女がやってきたのは西嶋家の若奥様という身分のためであることを分かっていて、愛なんてどこにあるのだと疑問に思っていた。 しかし、彼の目の前に並べられた美味しそうな料理を見て、博人は突然イライラとしてきた。 彼女は彼を愛しているというのに、料理でさえも自分の手で作らないのか? それとも……雪乃の件で、まだ意地を張っているのだろうか? 理玖も同じようにその小さな眉をひそめた。彼は確かにこのレストランの料理が好きだが、母親は以前はこうではなかった。彼女はいつだって自分でご飯を作ってくれた。 今日は怒っているから母親が自分でご飯を作ってくれないのか? 彼女はどうしていつもこうなんだ。些細なことで、父親と雪乃さんに当たってくる。母親は雪乃さんのように人の気持ちを理解することができないのか? 理玖はその小さな唇をすぼめたが、それでもお利口そうに無理をして料理を食べた。 少しもせずに、食卓には博人の声が響いた。「明日……俺は雪乃の再検査に付き添ってくる」 雪乃は少し前に舞台に立った時に、足首を怪我してしまったのだ。 怪我は大したことはなかったが、それでもまだ再検査をする必要があった。 夫が自分の目の前で他の女性に付き添うと言ったら、どんな気持ちになるだろうか。それは自分で経験してみないと分からない。 未央はそんな経験をここ数年常に味わってきた。 だから彼女はそれを聞いて少しも動揺しなかった。 「ええ」 未央は適当に返事し、全く心を波立たせることなく手に持った箸を置いた。「もう食べ終わったから、他に何もなければ部屋に戻るわね」 傍にいた理玖は驚いて、無意識に言った。「ママ、僕のバイオリンの練習は?」 以前、母親はいつも彼と一緒にいて、バイオリンの練習を見てくれていたのだ。 それなのに今夜は自分でご飯を作らないどころか、彼のバイオリンの練習にも無関心だった。 未央はあのネット記事にあったコメントを思い出し、笑った。「あなたは自分一人で大丈夫よ。私なんかバイオリンのことなんて分からないもの。ここにいても迷惑をかけるだけだわ」 彼女が話し終わる前に、博人が突然彼女の腕を掴み、漆黒の冷たい瞳で睨んできた。 彼は唇をきつく結び、冷たく耐えられない様子で言った。「お前、また何を意地張ってんだ?今日のあのゴシップ記事のことは、お前だってただの誤解だと分かってるだろう。未央、当時お前は計算を尽くしてようやく俺と結婚したんだから、今はこの西嶋家の嫁という役目をしっかりと果たせよ。息子のバイオリンの練習に付き合うのがそんなに難しいってんのか?」 未央は彼のその凍てつくような深い漆黒の瞳を見つめ、突然笑いが込み上げてきた。 彼はこのように7年間も彼女に冷たくしてきた。 他所の女を自分の心の中に住まわせておきながら。 それなのに、彼女には西嶋家の若奥様という役をしっかり演じろと言うのだ。 大きな愛をもらっていた片方はその愛を大事にすることなく、逆にその愛の上にあぐらをかいている。 未央はおかしくなって笑い、ゆっくりと彼に掴まれた手をそこから離した。 「私ったら、この西嶋家の若奥様という役をきちんと演じられると思っていたわ」未央は博人を見て言った。「別に意地を張ってなんかいないわよ。それにあの記事に腹を立ててるわけでもないわ。私は本当に音楽の才能なんてないもの、理玖も私が隣で手取り足取り教えてあげる必要なんてないだけ」 息子が綿井を好きで、あのようにキラキラ輝く人生を送りたいのであれば。 彼のその願いを叶えてあげる。 彼らが彼女の作った料理が好きではなく、綿井雪乃の選ぶレストランの料理が好きであれば。 その願いだって叶えてあげられる。 以前の彼女はよくヒステリックになっていたが、それは不満があったからだ。 そして今、彼ら二人の願いを全て叶えてあげるというのだから、それのどこがいけないのだ? 未央は言い終わると、その場を離れていった。博人はその場で呆然としていた。 彼はタバコに火をつけた。彼のその黒く暗い瞳の底からは何を考えているのか読み取れない。 しかし彼は眉間にしわを寄せていた。 彼女は本当に……雪乃の件で彼と喧嘩をしたいわけではなさそうだ。 なのにどうして心はどんどん苛立ってくるのだろうか。 未央は自分の部屋に戻った。彼女はこの二日間で片付けるものは全て片付けてしまっていた。 ここを去る前に、彼女はただもう一度河本教授に会いに行きたいと思っていた。 夜。 博人はいつもとは打って変わって客間では寝なかった。 未央は体にただタオルを巻きつけた格好で浴室から出てきた。 柔らかなライトの光の下で、彼女の肌は雪よりも白く白磁のような美しさがあった。彼女のその表情には以前のような怒りや不満はなく、落ち着いていて優しく、いつも顔に出ていた高圧的な雰囲気を抑え込んでいた。 逆にもの静かで、すこし可愛げが出てきた。 前の彼女とは全く様相が違う。 博人はその場に立ちすくみ、視線を未央の体に落とし、ゴクリと喉を鳴らした。 そして、頭の中に突然、祖父が言っていたあの言葉が浮かんできた。「最も恐ろしいのは愛しているのに、その自覚がなくて、失ってから後悔することだ……」 彼が未央を愛している? そんな馬鹿な! 第4話 博人は唇をきつく結び、内心とても馬鹿げていると思っていた。 未央が目線を上にあげると彼の視線とぶつかり、彼女は眉をすこし上にあげて驚いた様子だった。「何か用?」 彼女はそう聞くと、博人は何とも言えない苛立ちをおぼえ、不快になった。 彼女は妻だ。彼が自分の寝室に戻ってきたのに、彼女はこんな反応を見せるのか? この怒りと、心の中に溜まったこの形容し難い感覚が一体何なのか、彼を焦らせた。博人は大股で未央に近寄ると、彼女をベッドに押し倒した。 彼がその唇を近づけたが、未央は顔をそむけた。 少し冷たい唇が彼女の口角に少しだけ触れた。 未央は感情のない目で見た。「一体どういうつもり?」 彼女のこのような態度が博人をさらに怒らせてしまった。 彼は皮肉たっぷりに口の端をつり上げて笑った。「俺はてっきりお前がこんな長い間意地張ってるから、これを期待しているのかと思ってたがな」 博人と結婚してから、彼女と博人が夫婦としての営みをするのは数えるほどしかなかった。 酒に酔った時と、西嶋家のおじいさんが二人の仲を取り持ってくれたのを除いてだ。 二人は多くの時間、同じベッドに寝ていても、それぞれの生活をしていた。 それから理玖が少しずつ成長していき、彼ら二人の距離はだんだんと離れていった。 未央は彼と目を合わせたが、怒りや悲しみなどは見えなかった。 彼女は実際もう慣れてしまっているのだ。 「今アレだから」 彼女は彼との接触を避け、淡々と言った。「もしあなたがしたいんだったら、綿井さんのところに行けばいいんじゃない?」 どのみちもうすぐここを去るのだから、もう何も執着するものもない。 それに、男は歯ブラシと同じで、他の誰かと共有するものではない。 彼女のこの他人事のような態度に博人は冷たく笑った。 「未央、俺と雪乃はお前が思っているような関係じゃない。お前は彼女がお前と同じように腹黒い女だとでも思ってんのか?」 彼は皮肉交じりの言葉を残してバタンッと強くドアを閉めた。「そっちがその気なら、今後は俺の両親の前で泣いて訴えるんじゃねぇぞ。もし当時お前があんなふうに罠を仕掛けてこなきゃ、俺だってお前なんかに触れようとも思わないね」 未央はきつく閉められたドアを見つめ、突然心が乱れ博人と勢い任せの関係を持ったあの一夜のことを思い出した。 彼女はその時、意識がはっきりしていなくて、全く何が起こったのか分からなかった。 目が覚めた後、博人だということが分かり、彼女の心は確かにホッと落ち着いたのだった。 彼女はあまりに驚いていたので、慌ててその場を去っていった。 それから、彼女が妊娠したことを知った博人のその冷たい瞳の底には皮肉と嫌悪が混じっていた。 「白鳥未央、お前の望み通りにお前と結婚してやるよ」 彼女は当時不安と恐れしかなかった。白鳥家、両親の死、それから子供のことで彼女は男の冷たさに気づいていなかった。彼女は博人のことを心から愛していて、これは神様が与えてくれた幸運だと期待に胸を膨らませて彼と結婚したのだった。 もし、もう一度選べるとするなら…… 未央は目をつむり、思った。 もしできることなら、彼女は博人と出会う前に戻りたかった。 博人はその夜帰ってこなかった。 未央は次の日、理玖を幼稚園に送っていった。 彼女が博人に電話してどこにいるのか聞くまでもなく、雪乃のほうからメッセージが送られてきた。 その写真はシンプルだった。 青のネクタイの写真。 それは博人がいつもつけているネクタイだ。 「未央さん、愛しているか愛していないかはもう歴然としているわ。このネクタイはね、私が彼にプレゼントしたものなんです。昨夜、彼ったらまたこのネクタイで私の手を拘束して……」 雪乃と博人の変態プレイなど、未央は全く興味はなかった。 もし以前の彼女であれば、恐らく傷つき苦しんでいたところだろう。 しかし、この時の彼女の心は穏やかだった。 彼女はもうここを離れる決心をしたのだ。だから当然、博人の行いを批判したりなどしない。 この日、未央は河本教授の家を訪れた。 彼に挨拶する目的だけでなく、あの藤崎という男について知るためでもあった。 彼女に会えて、河本教授はとても喜んでいた。 彼は突然彼女と博人のことを思い出し、からかって言った。「君が立花に行く件を博人君には話したのかい?当時の君は、一日中彼の後ろをついて回って、学部中が私の一番の学生は男に心酔してしまい方角を見失ってしまったと言っていたんだぞ。春日部教授も数日前に君はまた聴講に来ないかって尋ねてきたんだよ」 彼女と博人は同じ大学出身だ。 彼女の片思いは実際はとても卑屈なものだった。卒業時にずっとできなかった告白をした以外に、特に博人に迷惑をかけるようなことはしていなかったのだ。 若い頃の愛はいつもはっきりして分かりやすいものだった。 彼女は昔、博人をたくさん見たいと、金融学の授業を一学期中全て聴講しに行っていた。 その授業の担当教授は彼女の恩師と交流が深かったのだ。 それで、故意にか知らずにか彼女を何回もからかってきた。 「いえ」 未央は小声で言った。「先生、藤崎さんは秘密保持をしてほしいということですので、私が立花に行くことは、誰にも言わないでください」 河本教授は少し驚き、すぐにどういうことなのか理解し、ため息をついた。 彼は未央が愛のために仕事を諦めたが、今はようやく思い直して患者の診療をすることにしたと思っていたのだ。 今見てみると、彼の学生はもうぼろぼろの状態のようだ。 行き場を失って、ようやく急に悟ったのだ。 未央は河本教授の家にはそう長く留まらなかった。 彼女は雇い主に関する資料を受け取り、家に帰るところだった。 十字路で、とある車がスピードを出して彼女の目の前を通り過ぎた。 未央の反応は早く、その車を避けられたが、突然現れたバイクとぶつかってしまった。 突然のことでそれを避けることができなかったのだ。 体中に激痛が走り、未央は額に冷や汗を滲ませていた。 彼女は苦笑した。 彼女はおおかたこの町とは相性が悪いのだろう。 彼女の怪我はそこまでの大怪我ではなく、大事に至ることはなかった。 ただ少し深めの切り傷があり、たくさん血が流れていた。外から見るととても痛ましい光景だった。 急なことで彼女はとてもハラハラさせられた。 それに加え未央は血を見ると、めまいがしてしまい、意識が戻った時には真っ青な顔になっていた。 「お嬢さん、ご家族に電話をかけたほうがいいですよ」警察は見ていられなくなり、低い声でそう未央に注意した。 未央は自分一人で大丈夫だと言いたかったが、警察がそうしたほうがいいと勧めてくるので、博人に電話をかけることにした。 彼女は博人が来ることを期待していなかった。博人には秘書がいるので、誰かをよこして彼女を病院まで連れていってくれればそれで良かった。 すぐに携帯の向こうから男の声が聞こえてきた。 「どうした?」 「博人、私……」 未央は激痛に耐えながら、話そうとした瞬間、電話の向こうから雪乃の優しい声が響いてきた。 「博人、検査結果が出たわ。ちょっとよく分からなくて、見てもらえないかしら?」 彼は今雪乃に付き添っている。 未央が何かを話し始める前に、博人はすでに電話を切ってしまった。「何もないなら、家に帰ってからにしてくれ」 「分かったわ」 未央は小さな声でそう返事した。 彼女は警察の助けは断り、自分で事故の処理をした後、タクシーを使って病院へ行った。 ちょうど彼女が病院の受付を済ませた時、そう遠くないところから、息子の無邪気な声が聞こえてきた。 「雪乃さん、まだ痛む?理玖がふーふーしてあげるよ」 未央は無意識にそちらを向くと、近くに博人が息子と一緒に雪乃の再検査が終わるのに付き合っている姿が見えた。 博人のいつも冷たいその瞳には雪乃を心配する様子が見えた。 「大丈夫よ」 雪乃は優しく微笑み、穏やかに話していた。言い終わると隣にいる理玖を撫でた。「理玖君が私の傍にいてくれるから、あっという間に良くなっちゃうわ」 雪乃の言葉を聞いた後、彼はまだ幼く可愛らしい顔を上げて、キラキラと期待しているような顔を向けた。「雪乃さん、雪乃さんの病気が全部ママに移っちゃえばいいのに。そうしたら、雪乃さんが楽になるのにね」 彼がそう言うと、未央は呆然としてしまった。 「そんなこと言っちゃダメだろ」博人は眉をすこしひそめて彼を叱った。その声は低かったが口調はそこまで厳しくなかった。「彼女は一応お前の母親なんだからな」 「ママなんか死んでしまえばいいのに。僕はあの人の顔も見たくないよ。そうすれば雪乃さんが僕のママになってくれるでしょ」 理玖は唇をすぼめ、母親がこの二日間、食事すらも作らないのを思い出し、だんだん不機嫌になっていった。 そして、彼がそう言い終わって、博人が顔を上げると、近くに未央がいることに気づいた。 彼女は少し狼狽している様子だった。髪は乱れスカートは血に汚れていて、傷口は目を塞ぎたくなるほど悲惨な状態だった。 しかし、そんな彼女でも異様な美しさがあった。 第5話 博人は驚き、ドキドキと心臓の鼓動が早くなった。 彼は我に返ると、眉間にしわを寄せて彼女の傍に駆け寄り、体を支えて淡々と言った。「なんで怪我したんだ?」 隣にいた理玖は母親のこのような様子を見て、さっき自分が言った言葉を思い出し、口をぎゅっと結んだ。 心の中はなぜだかモヤモヤとしていた。 それに少しの後悔も。 彼がさっき言った言葉は本心からのものではなかった……彼はただこの二日母親が自分に構ってくれないことに腹を立てていたのだ。それに以前のように彼のバイオリンの稽古に付き合ってくれない。 一方、雪乃は目をパチパチと瞬かせ、笑って優しい口調で言った。「博人、白鳥さんがどうして怪我したのか分からないけど、尾村(おむら)先生に診てもらったほうがいいわ。前私が怪我をした時も尾村先生に診ていただいたから」 雪乃が言っている尾村先生というのは博人の幼なじみである尾村潤(おむら じゅん)という人物のことだ。 尾村潤はこの病院でも優れた医師で、重要なポジションにあり、予約するのは難しい。博人の家族や友人以外なら予約して待たないといけなかった。以前何回か雪乃が怪我をした時にはこの尾村潤が診察したのだった。 雪乃は今未央に、自分が博人の心の中で重要な位置を占めているのだと主張しているのだ。 しかし、未央のほうはただ虹陽市を去ることしか考えていなかった。 潤の医者としての腕は最高水準で、治療が終わってからのリハビリ効果も高い。そうすれば彼女はこの町をすぐに離れることができる。 「分かりました」 未央は笑って、それを断らなかった。 傷口はすぐに処置され、破傷風にならないように潤は未央に点滴をさせた。 雪乃は用事があるので、さっさと帰ってしまった。 薬に眠たくなる成分が入っていたせいなのか、昨夜あまりよく眠れなかったせいか、彼女はすぐに意識が朦朧となって眠ってしまった。 「彼女の今回の傷は大学一年の時のよりも深くなかったね」潤は博人に向かって突然口を開いた。 博人は眉をひそめた。「何が大学一年の時のだ?」 「お前知らないのか?」潤は驚いたように眉を上げた。「大学一年の頃、お前が綿井さんを庇って表に出てきた時、お前に面倒事起こそうとしてきた奴がいてさ、白鳥さんがボディーガードを連れてそいつらを追い払ったんだ。だけど、後からそいつらが彼女に憂さ晴らしをするためにやって来て、大勢で彼女と天野さんの二人を囲んで、喧嘩売りに来たんだよ。その時、彼女かなりの大怪我をしたんだけど、そいつらにお前に迷惑をかけるな、遠く離れろってセリフまで吐き捨てていたんだぞ」 当時、白鳥家は没落する前で、未央はまだわがままで高飛車なお嬢様だったのだ。 彼女は情熱的でとても美しく、なんでもできた。 そんな彼女に恋焦がれている者も少なくなかった。 しかし、誰もが彼女の心の中には博人しかいないと知っていた。 それを聞いた博人はとても驚いた。 当時、雪乃はある人に目をつけられて、彼は見ていられず彼女を庇って表に出て行ったのだ。相手はそれでもひどく脅迫するような言葉を投げかけてきた。 彼はその時、西嶋家の名がその相手に恐怖を与えたから、彼女に執着することはなくなったのだと思っていた。 潤は言葉をかけづらそうにしていて、博人の肩をぽんと叩き慰めて言った。「あの白鳥さんとお前との間にあった事にはたぶん誤解があったんだ。幼なじみとして教えてやるが、白鳥さんは決してお前が思ってるような計算高い人じゃないよ。たとえ当時、白鳥家が追い詰められていて後がなくなったとしても、彼女は西嶋家の力を得るためにお前に罠を仕掛けたりはしないはずだ。 時には、偏見が行き過ぎて、多くのことを見過ごしてしまうんだ」 潤は言い終わると去っていった。 博人はタバコを取り出し、禁煙の表示を見て、視線をまた寝ている未央の顔に落とし、タバコに火をつける手を止めた。 彼女は寝ていても気持ちよく寝られていないようだった。彼女の肌は白く瑞々しくきめ細やかだった。まつ毛が小さく小刻みに揺れていて、まるでどこか不安げな様子だった。 怪我をしたとしても、彼女の唇は相変わらずぷっくらと艶っぽく、端正な顔立ちで美しかった。 昔、彼女と初めて知り合った頃のように。 博人はこの光景を見ながら、その瞳は沈んでいった。 彼女は高校生の頃からずっと自分の傍にいた。白鳥家と西嶋家の関係は非常に良かったが、彼はこの少しわがままで身勝手なお嬢さんに対する好感度は普通だった。 それから白鳥家は没落し、彼女は彼の子を妊娠して結婚した。 彼はそれらを彼女の策略だと捉えていた。しかし、もしそれが潤の言う通り、ただの誤解だったとするなら。 博人の苛立ちはさらに大きくなった。 彼は目線をもとに戻し、秘書にメッセージを送った。「当時、白鳥未央が俺に薬を盛った件について調べてくれ」 すぐ傍にいた理玖は目を真っ赤にさせて、顔を上げた。「パパ、僕わざとママが怪我しろって呪ったわけじゃないよ。僕はただママが僕を構ってくれないことにイライラしてて……」 博人は息子の頭を撫でた。 彼は未央を見た。その瞳は暗く、声は低く沈んでいた。 「大丈夫だ、お母さんの目が覚めたら、一緒にお母さんに謝ろうな。彼女はお前に怒ったりしないさ」 もし、当時のあの事件がわざとではなかったとしたら。 彼も彼女に謝らなければならない。 そしてこれから彼は彼女に優しくしてあげなければいけない。 もしかしたら、おじいさんの言う通り、彼と雪乃の関係はもう過ぎ去った過去なのかもしれない。 未央は今回、とても長く眠っていた。 夢と現実が交差している。 16歳だった白の上着に黒いズボン姿の博人は午後、折り紙を彼女に渡した。 「泣かないで、兄ちゃんに言えよ、誰にいじめられたんだ?」 午後のその光はとても暖かかった。 少年のその表情は異様なまでに冷たかった。14歳だった少女は少し驚いて彼のほうを見た。 彼女は父親の骨董品を壊してしまってひどく叱られたのだ。 少年の言葉を聞いて、目をぱちくりとさせ、下まつげに涙の粒が光っていた。 少しバカで幼稚な姿。 心の中ではこのお兄ちゃんは本当にバカだ。誰が私をいじめる度胸なんであるかと思っていた。 「どこか痛いのか?」 夢と現実が錯誤し、男の低い声が未央を夢から覚ました。 彼女は見慣れた冷たい表情の博人を見て、ぼんやりとする中からだんだんと意識が戻ってきた。 「大丈夫」 未央は顔を横に振った。この時、夢から覚めた後にはっきりと感じる虚しさがあった。 彼女は14歳の頃からずっと彼に心を寄せていた。 そして17歳から博人のことを追いかけ始めたのだ。 そして26歳となった今、やっとその気持ちに区切りをつけることを学んだ。 恐らく怪我をしたせいだろう、彼女は異常なまでに大人しかった。 博人はふいに彼女と初めて出会った頃の様子を思い出し、優しい気持ちになり、口調さえも珍しくかなり柔らかくなった。 「車に乗って、家に帰ろう」 未央は驚いた。 彼女は博人のその口調に少し驚いたが、彼の誘いを断らず、小さく笑った。「分かったわ」 理玖は母親の様子を見て、鼻をすすり、お利口な様子で彼女の手を繋いだ。 車に乗った後。 理玖は父親が言っていた言葉を思い出し、ビクビクしながら未央を見つめ、その小さな口をすぼめた。「ママ、ごめんなさい、僕わざとあんなこと言ったんじゃないんだ」 母親は確かに雪乃には劣っている。 しかし、彼女は自分の母親なのだ。 それを聞いた未央は驚いた。 これは彼女の息子が初めて彼女にしてきた謝罪だ。 しかしどういうわけか、彼女は少しも心が動かされなかった。 息子が病院で言っていた言葉を思い出しても、彼女の心は落ち着いていた。 彼女は笑った。「大丈夫よ、ママは気にしてないわ」 彼女の息子はただ母親を愛していないだけだ。 さっきの謝罪は、ただこの子が小さい頃から良い子でいるように教育されてきたことの賜物であるだけ。 息子はホッとしたようで、小さな手で彼女の服の端を掴んでいた。 この時、博人はそのシーンを見ていて突然口を開いた。「来週は君の誕生日だろう。どうやって祝いたい?」 未央は少し戸惑い、少ししてやっと反応できた。 彼女がここを去る一日前が26歳の誕生日なのだ。 第6話 未央は瞼を伏せた。 彼女が彼と結婚して7年、今回はじめて博人が彼女の誕生日を覚えていた。 「必要ないわ」 未央は彼の方を見ると、ざわつく心はすぐに元に戻った。「その日ってプロジェクトの話し合いがあるでしょう?会社の仕事が一番重要だわ」 はじめ彼女が博人と結婚したばかりの頃、この誕生日の件で甘えて彼と喧嘩したことがあった。 それから、彼の冷たく淡々とした目つきに気づくようになり、未央は、はじめの頃に抱いていた期待が最後には麻痺してしまい、何も感じなくなっていった。 それで、今博人が誕生日のことを口にしたのが不思議だと思う以外、彼女の心には一切の感情など湧き起こってこなかった。 博人は視線を彼女に落とし、どうにも少しおかしいと思っていた。 今の彼女はあまりに物分かりが良すぎる。 以前であれば、表面上はどうでもいいというオーラを出しておきながら、その瞳の底にはキラキラとした期待を抱いていたというのに。 この数年間、彼女を軽視し冷たくしてきたこと、さらに親友と祖父の話が頭をよぎり、博人の彼女を見つめる目つきはかなり優しくなっていた。 「いいんだ」彼は何か考えているような深い瞳で当たり前のように言った。「その日は仕事が終わってもまだ時間的に早い、君はずっと花火を見たいと言ってなかったか?理玖と一緒に郊外に花火でも見に連れて行ってあげようか」 理玖は病院で言ってしまった言葉をまた思い出し、それから未央の傷を見て、ふいに後悔と気まずさが込み上げてきた。 母親は何から何まで雪乃には敵わない。 しかし、彼はやはりこの人の子供なのだ。 母親の機嫌が良くなれば、きっとまた彼に朝食を作って、バイオリンの練習に付き合ってくれるはずだ。 「パパの言う通りだよ。僕とパパがママと一緒に誕生日をお祝いするよ」 理玖は未央の服の端を掴み、急いでそう言った。 未央はずっと冷たい態度を取ってきた息子が珍しく自分に甘えてお利口な様子で父親の話に合わせてきたのを見たが、それでも全く喜びなど湧いてこなかった。 以前の彼女であれば、こんなことがあったら、きっと希望が湧いてきていたはずだ。 しかし、この時の彼女はもう悟りきっていた。 夫と息子が施してくれているこの優しさは、雪乃に向けられる優しさには及ばないということを。 この時の彼女にとって、彼らの愛が必要な時期はとっくの昔に過ぎていたのだ。 しかし、未央は彼らの誘いを断らなかった。 「ええ」 彼女は博人の視線と目が合い、穏やかにそれに応えた。 博人がどうしてもというのであれば、今回の誕生日を彼らとお別れする最期の餞別としようと思った。 未央の怪我は大してひどくはなかった。 ただ、足の切り傷なので、移動するにはやはり不便ではあった。 夜、三人は一緒に家に帰ってきた。 理玖はまだ幼いが、小さい頃から自立心は強く、食事を終えると大人しく自分の部屋へと戻っていった。 しかし博人はいつもとは違って、客間に戻らなかった。 未央は少し奇異に感じ、驚いて彼を見ていた。 「今夜、あなたはここで寝るの?」 彼女のその言葉には一切の感情も含まれていなかった。博人の彼女に対する嫌悪感と冷たさを彼女はよく知っているからだ。 それに加えて二日前彼女が拒否したことで、博人がここに留まるわけはないと思っていたのだ。 「君は足を怪我しているから、一人じゃ不便だろう」 彼女が躊躇っている様子を見て、男は彼女の足の怪我をちらりと見て、口角を少し上げて淡々と言った。「安心して、俺は怪我をしている相手をいじめるような真似はしないよ」 未央はどうして博人が急に態度を変えてきたのか分からなかった。 しかし、彼女はどうしても拒む理由が見つからず、喉まで来ていた言葉を呑み込み、躊躇いながらも頷くしかなかった。 「じゃあ、私、先にお風呂に入るわね」 恐らくこの二人が珍しく心穏やかで落ち着いているので、その空気が少し気まずかったのだろう、未央が先に口を開いた。 彼女は不自由そうに歩きながら浴室に向かってサッとシャワーを浴びに行った。その後ろ姿はまるでそそくさと逃げているような感じだった。 博人は彼女の後ろ姿を見つめ、今まで冷たく無関心だったその顔が少し柔らかくなり、口元にも少し笑みが見られた。 もし当時のあの事件が、本当に彼女と関係がないとすれば。 それならば、彼らはこれからまた新しく始めることができるだろう。 未央はこの時、博人のそのような思いなど全く知る由もなかった。 博人のあの冷たさが消えて、彼女は本当であれば喜ぶべきなのだが、この時の彼女は心に湧くその感情をうまく表現できそうになかった。 彼女はずっと愛というものは、誰かと共有するものではないと考えていた。 彼女はこんなに長年努力してきたが、博人は相変わらず雪乃のことを愛している。 だから彼女は彼らの望みを聞いてあげることにしたのだ。 だから、彼が彼女にちょっとした希望を与えても、何も意味はないというのに。 彼女は少し考え事をしていて、床が湿って滑りやすかったせいだろう。 未央がタオルを体に巻きつけたばかりの時、足下を滑らせてしまって冷たく濡れた大理石の床にずるっと倒れてしまった。 彼女はあまりの痛みに、一瞬呼吸もできなかった。 浴室の音はすぐに博人の注意を引き、外にいた男の低い声が響いてきた。 「どうした?」 痛みで未央の顔は蒼白になり、彼女は痛みを堪えて唸るような声で返事をした。「だいじょうぶ、ちょっと転んだだけ」 そう言い終わると、浴室のドアが開かれた。 博人は身を屈めて、彼女の傷口を確認し、彼女が顔を真っ青にしているのを見て少し眉をひそめた。「痛いだろう?」 未央は頭を横に振り、何か言おうとした。 その次の瞬間、博人が屈んで彼女を抱き上げた。 未央は無意識にもがいたが、耳元に男の低く叱るような声が響いた。 「動くんじゃない」 痛みで彼女は思うように力が出ず、未央は大人しく彼にベッドまで抱きかかえられていった。 博人は彼女の傷口を見て、外皮の傷であることを確認し、表情を少し和らげた。「そんなにひどい怪我じゃなさそうだな。感染しないように消毒液で消毒してあげるよ」 また転んで傷を増やしてしまった。 未央は仕方なく頷くしかなかった。 博人は消毒液を持って来て、彼女の傷口につけようとした時、その目線が彼女の足の上に注がれた。 彼女はこの時ただタオルを体に巻きつけているだけだった。 彼女の透き通った真っ白な肌は柔らかくすべすべで、特にその長く細い足がライトの下で美しく輝いていた。 それに加え彼女の冷めたい美しさに酔いつぶれてしまいそうなほど魅力的だった。 博人は少し動きを止め、瞳に欲望の色が瞬いた。 未央は彼の動きが止まったので、何かに気づいて本能的に消毒液を受け取った。 「自分でやるわ」 彼女は博人が自分の体に触れたくないのだと分かっていた。 当時、博人は彼女は何かの目的があってベッドに忍び込んできたと確信していたので、それが理由で彼女には嫌悪と拒絶感しかなかった。 だから彼女に触れたくなどないだろう。 「動くな」 しかし博人は突然また口を開き、片手で彼女の足を掴み、淡々とした口調のくせに強引な行動をしてみせた。 未央はそれに驚いてしまった。 この男はすでに彼女からまた消毒液を奪い取り、彼女のために優しく傷口に薬をつけてくれた。 消毒液は少しひんやりと滲みて、未央は唇を噛み、少し痛みを堪えるかのように顔をしかめた。 博人は優しく薬をつけて、暫くして全ての傷を消毒し終わると、その手を止めて、薬を片付けようとした。 「君の足の擦り傷はちょっと深いな、この二日は水に触れないほうがいい」 博人は低く落ち着いた声でそう注意した。意識したわけではないが、彼が少し顔を上げると未央の美しい顔が目に飛び込んできた。 部屋の中のライトは明るすぎず落ち着いていた。 彼女が瞼を伏せた時に長く綺麗なまつ毛が揺れ、鮮やかな艶っぽい唇が少し動いた。 彼女は非常に端正な顔をしていて、アーモンドアイが人を惹きつける魅力をさらにかき立てていた。 博人はドキッとした。 彼は前から未央は美人だということを知っていた。 それなのにこの時、はじめて彼は彼女がこんなに人を惹きつける美しさを持っていることに気づいた。 彼女は彼の妻だ。 ただこの7年間、彼は彼女に冷たくあたり、嫌悪感をむき出しにして、全く自分に近づかせる隙を与えなかった。 恐らく、彼らは今まで多くのことを見逃してきてしまっただろう。 「未央……」博人はゴクリと唾を飲み込んだ。その優しい瞳は滅多にお目にかかれない。「あの時、ホテルでさ、君は……」 彼が話し終わる前に、せわしく携帯の呼び出し音が鳴りだし、さっきまでの静かで曖昧な雰囲気を壊してしまった。 未央は携帯に表示された着信相手を見た。綿井雪乃だ。 彼女は何も言わなかった。 博人の付き合いはそんなに幅広くない。 仕事が終わってから、会社の社員で彼の邪魔をしてくるような者はほぼいないし、友人でも、こんな夜遅くに電話をかけてくるものは少ない。 ただ雪乃だけが例外だった。 博人は眉間にしわを寄せたが、やはりその電話に出た。 暫くしてから彼はその眉間のしわをさらにきつく寄せて、すぐに言った。「分かった、今すぐ行くから」 第7話 雪乃に何かがあったらしい。博人は多くを語らず素早くコートを着て出ていこうとした。 部屋を出る前に、彼はじっと未央を見つめ、眉をひそめて口を開いた。 「俺はちょっと用事ができたから、対処しに行かないと、未央……」 彼の視線は彼女の傷口に注がれていて、少し躊躇った様子だった。 しかし、未央は笑うだけだった。「私一人でも大丈夫よ」 珍しい。 彼女の夫が他の女のことを考えている時に、彼女の傷のことまで覚えているとは。 博人は他の女のところに行こうとしているというのに瞳には優しさをたたえ、落ち着いた声で彼女に言い聞かせた。「君は怪我をしているから早めに休んで。数日後の君の誕生日に伝えたいことがある」 未央は表情一つ変えずにただ頷いた。 彼女は夫が夜中に他の女のところに行くというのに、ヒステリーを起こすこともなく、悲しそうな様子も見せはしない。 数分後、彼女は指にはめている結婚指輪に触れ、それをスッと外した。 この数年間、彼女はずっとこの結婚指輪をつけていた。 博人に対して激しくヒステリックに大騒ぎした時も、彼女は指輪を外したことは一度もなかった。 彼女は意地になって、この結婚指輪が彼女と博人の一生を結んでくれ、情熱と勇気を示していると思っていたのだ。 しかし今では、ただ法律上の夫婦であるだけで、お互いにそれぞれの人生を生きていた。 もしかしたら、もっと早くこの結婚を終わらせておくべきだったのかもしれない。 彼女はこの結婚指輪をアクセサリーケースの中になおしてしまった。 彼女が離れる時に、これらは離婚協議書とともに、封をしたまま博人に送るのだ。 博人はこの夜帰ってこなかった。 こんな状況でも未央はまあまあよく寝ることができた。 そして、次の日。 彼女が目を覚ましてみると、ネット上ではあるニュースが話題になっていた。雪乃にアンチファンから殺害予告が届いたという記事だ。 雪乃の公式スタジオはどこから届いたか分からない宅配便の箱の写真をネットにあげた。 その箱を開けると、中にはネズミの死骸と、血のついた服が入っていた。 それから一枚の手紙も。 手紙には真っ赤な字が書いてあった。 「この卑しい女め、他人の男に手を出すな!!!」 スタジオは同時に厳粛に声明を発表した。『綿井雪乃はデビューしてからずっと正しい姿勢を貫いてきました。今まで一度も誰かと不貞な行為などしたことはありません。殺害予告はすでに警察に被害届を出しています。自分の名誉を傷つけるような真似はお控えください。関係のない人を巻き込むのはおかしな行為です』 この短い声明は大きな騒動になった。 多くのファンはその雪乃を汚く脅迫してきた犯人をひどく罵っていた。それに一部はこのスタジオの言外の意味を読解し、この事件は綿井雪乃に嫉妬した女の仕業だと思っていた。 ただ極少数の者だけが少し前にあった雪乃と博人のゴシップを思い出していた。そこから雪乃は恐らく博人の本当の妻から標的にされたのだろうと予想していた。 親友の瑠莉はこのニュースを知ってから、あの雪乃は自業自得だと少し思った。 「こいつってやる事は汚いけど、この警告は確かに全く問題ないわね」 彼女はずっと雪乃の猫かぶりな様子が気に食わず、今そんな彼女に教訓を与えてやろうとする者が出てきて、瑠莉はスカッとした様子だった。 未央のほうはすぐにこのネットニュースを消してしまった。その瞳にはどんな感情も表れていなかった。 彼女と雪乃は確かに相容れない。 この世に夫の浮気相手の再三にわたる挑発に耐えられる女性など存在しないだろう。 しかし、博人以外に、彼女と雪乃には特に接点もなく、争うような利益もない。 今の彼女は完全に諦めてしまっているから、もちろん親友のように他人の不幸を楽しんでるような感情すらも湧いてこなかった。 彼女が心の中に気になっていたのはまた別の件だった。 未央は窓の外の景色を見つめていた。もうすぐ彼女は他の都市に行って新しい景色を見ることができるのだ。 「私の情報の処理はどうなってる?」 「安心して、もう全部終わらせたから。あなたがここを去った後、誰もあなたを見つけ出すことなんてできないわよ。西嶋君だって例外じゃないわ。未央、あなた本当に決心したのね?」 瑠莉はため息をついた。 彼女は心の中では親友がいなくなることが寂しいと思っていた。あと少しでも希望がありさえすれば、未央もここを離れることを選ばなかったと分かっていた。 「そうよ、こうするのがいいもの……」 未央は暖かな春の光を見つめ笑った。「こうすれば、今後、誰も気づかないわ……」 彼女が話し終わる前に、ドアの外から博人が理玖を連れて入ってきた。 彼の表情は少し暗く、口調もあのよく聞いていた冷たさが宿っていた。「誰も気づかないってどういう意味だ?」 未央はすぐに電話を切って淡々と返事をした。「別に」 彼女は音も気配もなく去らなければならないのだから、もちろん博人に気づかれるわけにはいかない。 そして、博人は彼女が何かを隠していると分かり、表情をさらに冷たく暗くさせた。 彼は息子の手を離すと、大股で彼女のほうへとやって来て、冷ややかな目で荒っぽく彼女の腕を掴んだ。 「お前、雪乃の件、お前の仕業なんだろう?」 未央は驚いた。 少しして、ようやく博人が言っているのはあの殺害予告の件なのだと気づいた。 博人は彼女を掴む手の力を少しずつ強めていき、表情も氷の結晶ができてしまうのではないかというくらい冷たくなっていった。瞳は彼女への嫌悪で染まった。 「なんでお前は雪乃を目の敵にするんだ?俺たちの事は彼女には関係ないんだぞ!雪乃は心臓病を患ってるって知ってんだろ、危うくショックで入院することになるところだったんだ!」 隣にいる理玖も同じように顔をしかめていて、透き通った瞳は嫌悪と不満で満たされていた。 「ママ、どうしていっつも雪乃さんにこんなことするんだよ?雪乃さんのどこが悪くてこんなふうに彼女をいじめるわけ?知ってる?僕、あなたの血と遺伝子を受け継いでるって思うだけで、気持ち悪くなるんだよ!」 未央は目の前にいる夫と子の二人を見ていた。 博人は顔の彫が深く、端正な顔をしている。理玖はその父親から良いところを多く遺伝していた。 まだ6歳ではあるが、顔立ちはよく、とても可愛らしい。 同じ顔をした大人と子供、この父子二人は怒る様子も嫌悪を露わにした表情も全く同じだった。 このそっくりな二人は片方は彼女の夫。 もう片方は彼女が10カ月お腹で育てて産んだ子供だ。 そして今、他所の女のために怒りと嫌悪を彼女に向けて詰問してきている。 まるでかさぶたになりかけの傷口を掻きむしってしまった時のような、軽い痛みに混ざったジンジンとする痒みが彼女を冷静にさせた。そして落ち着いた様子で彼女は二人を見ていた。 彼女は博人にその荷物の差出人を調べて、因果関係を調べろとは言わなかった。それに理玖にも彼が彼女の血を受け継いでいるが、それよりも博人の雪乃に対する愛のほうをしっかりと受け継いでいるじゃないかとも言わなかった。 「私じゃないわよ」 未央は短い一言を放った。 彼女は博人の懐疑的で冷たい視線と目を合わせ、淡々と言った。「あなた達が信じるかどうかに関係なく、私はやってないわ」 彼女は手を振りほどいて背を向けて部屋を去ろうとした。 「未央、俺は俺たちの間には誤解があるかと思って、新しく始めようと思っていたんだ。それなのに、お前がこんなことまでしでかして、意地張って悔い改めることもせず……」 博人のほうは彼女を放そうとせず、氷のように凍てついた声で皮肉った。「雪乃はもう警察に被害届を提出した。今すぐ俺と一緒に雪乃に謝りに行ってもらうぞ!そうじゃなきゃ……」 「西嶋さん、私は法は公正だと信じてるし、法的な決定も受け入れるわ。もし、私が本当にしたとすれば、自然に罰を下される。それは自業自得でしょう。別にそれでいいじゃない」 未央は夫と目を合わせて落ち着いて言った。「それとも西嶋さんは私が本当に悪事を働いても、たった一人で法律の裁きから逃げられる手段があると思っているの?」 博人は眉をひそめた。彼はまさか未央がこのように言ってくるとは思ってもいなかったのだ。 彼女は本当にそんなことなどしていないのか。それとも犯人だとばれても雪乃に頭を下げる気がないのか? こいつ……どうしても意地を張るというのか? 傍にいた理玖は頬を少し膨らませ、反感を持って言った。「僕、こんな卑劣な母親なんていらない。もしママが雪乃さんに謝らないってんなら、あなたなんか母親として認めないよ」 第8話 未央は視線を息子のほうへ向け、ふいに笑った。 当時、理玖が生まれる時に、彼女は大出血で産後の体は弱くなってしまった。 彼女は一度も彼を産んだことを後悔したことはなかった。 しかし、この時は。 未央は自分が滑稽でたまらなかった。 彼はまだ6歳だ。 早熟で、ませてはいても、目は人の心を映す鏡だ。 例えば、この時の彼の瞳にははっきりと分かるほど、彼女が煩わしく除け者にしたいという気持ちが表れている。 以前、彼が雪乃に近づいた時、未央はとても辛かった。でも、その時には自分自身に彼はまだ小さいんだからと言い聞かせるしかなかった。 小さな子供というものは常に無意識に美しく目を引かれる人に向かっていくものなのだから。 まして彼女は彼の母親なのだから、何があっても赤の他人のせいで彼女のもとから離れていくことはないだろう。 しかし、この時分かった。 彼の瞳にはっきりと映る彼女に対する嫌悪が教えてくれた。血縁というものは無意味なものだということを。 「私はただあなたの生物学的な母親であるだけよ。あなたはまだ小さい、だけどあなたには私じゃなくて他の人を母親に選ぶ権利はあるわ」 未央は彼を凝視し、冷たくその言葉を放った。 何がまだ小さいんだから、子供にケチをつけるな、まだ何も分かってないんだから、だよ…… もうどうでもいいわ。 彼女はもう世話なんかしない。 彼女は彼らに背を向けてその場を去ろうとした。博人は彼女の表情をしげしげと観察し、しかめっ面になり、心の中にはまたよく分からない苛立ちが湧いてきた。 こいつ、さっきはどういう意味だ? 彼女は理玖を他所の女の息子にしようってか?西嶋家の嫁という地位がいらないとでも!? 「未央」博人は唇をぎゅっと結び、突然彼女を呼び止め、冷淡な口調で言った。「理玖はまだ小さくて何も分かってないんだ。ただ雪乃と仲良くなっただけだろ。まして、今回の件はお前の間違いだ。お前が雪乃にちゃんと謝れば、今回のことはなかったことにしてやってもいい」 彼は彼女の言うことなんて信じなかった。しかも、彼女と雪乃を和解させたいと思っているらしい。 未央はものすごく皮肉だと感じていた。 彼女は目線を上げ、笑いながら言った。「いいわ、私は自分がやってもないことに謝罪なんかしない。あなた達からも私が無実だって分かってもらわなくても構わないし。綿井さんがきちんと私がやったという証拠を持ってきたら、その結果を重く受け止めるわ」 彼女の息子と夫がどのように考えようとも、彼女は別にどうでもいいのだ。 未央はこれ以上この二人から嫌悪の目で見られるのにはうんざりだった。 彼女は猫カフェに行って、以前預けていた猫の運送委託の手続きをした。 博人は家でペットを飼うのを嫌っていた。 未央は大の猫好きだ。 それで、三毛猫を拾ってから、未央は博人と息子の二人に配慮して、家には連れて帰らず、猫カフェにお願いして暫く置いておいてもらっていたのだ。 普段、彼女はたまにこの店に様子を見に行っていた。 猫カフェの店長と彼女の関係は良く、彼女が運送委託の手続きをしに来ると、思わず笑って彼女をからかった。 「旦那さんとお子さんが好きじゃないから家で飼えないじゃないんですか?誰かに送るつもりですか?」 「違います」 未央は内心ふいに迷いが解けてさっぱりとした。彼女は口をニヤリとさせ冗談っぽく言った。「ただ、しょせん夫と息子なんて、猫よりも重要じゃないって分かったんです」 その夫と息子は今他所の女を愛している。 しかし、猫はどうだ?こちらから好意を寄せて可愛がってあげれば、あっちは永遠に自分を第一に置いてくれるじゃないか。 それを聞いた店長も笑った。 「それこそ正しいです。結婚して自分の好きな猫さえも飼っちゃいけないなんてどうかしてますよ」 未央は笑って、返事はしなかった。 彼女は確かに、博人と理玖のために、自分の好きなものを後ろに後ろにと追いやってしまっていた。 だが、彼女はここを去れば独りだ。 この世界は広い。彼女はようやく心の赴くまま人生を送ることができる。 子猫と少し遊んで、未央の気持ちはとても良くなった。 ちょうど瑠莉から電話がかかってきて、彼女のために送迎会を開くと言ってきた。 彼女は未央のこれからについては誰にもばらしていなかった。ただ、適当な言い訳を作って、大学時代に親交のあった同級生たちを何人か誘ったのだ。 未央が到着した時には、数人の友人たちが一緒にお酒を飲んでいた。 彼女を見て、一番真ん中にいた男性が顔を上げ、微笑んでからかうように言った。「君みたいに忙しい人が俺たちと一緒に飲み会できるなんてね」 その男性は未央が大学生だった頃の先輩で、当時有名だったプレイボーイである日森響也(ひもり きょうや)だ。 未央の大学時代、仲の良い友人も多く、彼女を追いかけている者も多かった。 そしてこの響也もその中の一人だ。 彼女は自分のしたいように生き生きと人生を楽しんでいて、また非常に美しい女性だった。 それで、いつもみんなの注目の的だった。 しかし、白鳥家が没落してから彼女は博人と結婚し、家庭に入って鳴りを潜めてしまい、パーティーにも全く顔を出さなくなってしまって、いつもみんなを驚かせ、意外に思われていた。 集まった友人たちはみんな心の中でよく理解していて、多くを彼女に尋ねなかった。 ただお酒を一通り飲み終わって、誰かが酒に酔った勢いで大学時代の話をし始めた。「そういえばさ、未央、大学生の時、響也は未央に片思いしてたんだよね。あなたが結婚してからこんなふうになっちゃうって分かってれば、さっさと響也との仲を取り持ってあげたのにさ」 未央は驚いて、視線を上げると響也の穏やかで深い瞳とぶつかった。 当時、響也は確かに彼女を追いかけていたのだ。 彼女はその視線をずらし、仕方ないといった様子で言った。「そんなこと信じてるの?彼はね、この世の全ての女の子を自分のものにしたくてたまらないのよ」 響也もその言葉に乗っかり、眉をつり上げて自分は無実だという顔をしてみせた。「ちょっとちょっとなんでそんな暴露するんだ、俺は苦労してようやく一途なキャラを作り上げたってのに」 その場にいたみんなは彼の言葉で笑い出し、軽い冗談を交わしながら、この話題をそっと流した。 響也も当時本気で彼女を追っていたわけではないと、おどけた様子だった。 未央もその流れに乗って、当時のことについてそれ以上何も言わなかった。 彼女は確かに博人には完全に気持ちが冷めてしまっている。 しかし、かつて歩いてきた道に、一度も他の選択をしようとは考えたことがなかった。 そう遠くないところで、今個室から出てきた潤がこの一幕を見て、思わず声を出した。 「あれ、そこにいるのは白鳥さんじゃないの?彼女がどうしてこんなところに?」 博人はその足を止め、彼は響也と未央のほうに視線を向け、目を細めた。 この日の夜、博人は友人を迎えて食事会を開いていたのだ。その食事会が終わって、まさかここで未央に遭遇するとは思ってもいなかった。 結婚してから、彼女は家庭内で夫を支え子供の世話をしていて、このような場所には出かけることはほとんどなかったのだ。 隣にいた雪乃の瞳に少し光が瞬き、突然口を開いた。「博人、あれって日森さんところのお坊ちゃんよね。彼ってあんまり評判が良くないわ。プレイボーイでしょ、どうして白鳥さんが彼と一緒にいるのかしら」 博人は平然とした顔をしていたが、冷たいオーラを醸し出していた。 彼は今日はじめて響也に会ったわけではない。 大学時代、響也と未央は仲が良く、響也が未央に片思いしているという噂も聞いたことがある。 ただその後、未央は彼と結婚した。 響也は海外に行ってしまい、その噂は真実を語ることなく闇の中に消えていった。 近かったので、未央たち一行は博人の存在に気がついた。 雪乃は博人の後ろについていて、未央たちのほうへとやって来た。 博人は響也をちらりと見てから、未央のほうへ焦点を当て、少し冷たい口調で言った。 「お前、理玖のバイオリンレッスンには付き合う気がないのに、こんなところまでやって来て、他の男と飲み会してるとはな」 響也は隠すことなく自分のしたいように眉をつり上げて、博人の後ろにいる雪乃に視線を移すと、意味ありげに口角をニヤリと上げた。 「西嶋さんよ、その話マジで面白いな。お前のほうこそ別の女と一緒にいるじゃねぇか」 雪乃は未央のほうを見て、慌てて笑って言い訳をし始めた。「白鳥さん、誤解しないでね。この二日間、アンチファンの事で大騒ぎになっちゃって、博人が私に何かあったらいけないって心配してくれたんです。だから私も連れてきたんですよ。白鳥さん、気にしないですよね?」 彼女は口角を少し上にあげて、その瞳は得意な様子だった。 彼女のその言葉一つ一つに、博人が彼女をとても心配して守ってくれているという主張が表れていた。 「気にしませんよ」 未央は騒ぐこともせず、ただちらりと博人のほうへ視線を走らせ、淡々と言った。「あなたが好きなら、あげる」 第9話 「それはどういう意味だ?」 博人は表情を暗くし、その真っ黒な瞳には苛立ちの色が表れた。 自分の夫を平気で他の女にあげるというのか? 未央は彼から視線を外すことはなく、じっと見つめていた。「綿井さんのアンチファンの件はまだはっきり分かっていないんでしょ。あなたが彼女の傍にいるのは当然のことじゃないの。だから私が誰と一緒にいようとあなたには関係ないでしょ」 彼女のその口ぶりは異常なまでに落ち着いていて、本気でそう思っているかのようだった。 そこには怒りなど全く感じられなかった。 それで博人はさらに苛立ちを見せた。 彼女は一体いつから綿井雪乃のことで騒がなくなっただろう? 本気で気にしていないというのか……それとも、ただ気にしていないふりをしているだけなのか? しかし、あのアンチファンの件に関しては、彼女以外に他に誰がいる? 博人は唇をきつく結び、彼女を睨みつけていたが、何も言わなかった。 隣にいた雪乃は唇をぎゅっと結び、突然目を真っ赤にさせた。「白鳥さん、怒らないで、私が悪かったんです。博人はあなたの夫なのに。私は別にあなた達の結婚を壊そうだなんて一度も考えたことないんです。安心してください、私一人でも大丈夫……」 「綿井さんってとても演技がお上手なんですね」この時、未央は彼女が自分を可哀想に見せる演技をバッサリと止め、軽く笑って言った。「だけど、その必要もないですよ。私は友達とまだ予定がありますから。その演技は引き続きそれを楽しみにしているどこかの誰かに見せてあげてください」 未央はそれ以上雪乃と博人に構うことなく、瑠莉と友人たちと一緒にその場を去っていった。 響也は雪乃を一瞥し、何を思っているのか分からない微妙な表情をしていた。 「綿井さん、バレエダンサーではなく女優になったほうがいいかもですね。その演技力なら秒で芸能界のスターになれますよ」 博人は未央と響也が去って行く姿を見つめ、表情を暗くさせていた。 潤はこのシーンを一通り見ていて、雪乃のほうをちらりと見ると、突然口を開いた。 「博人、奥さんが怒るのも無理はないだろ。殺害予告をしてきたアンチファンが一日も早く捕まらない限り、綿井さんの安全は一日として保障されないだろう。俺からすれば、早くその犯人を捕まえるのが得策だと思うがな」 「荷物を届けた奴は今調べている。二日で結果が出るはずだ」 博人は何かを思いついたようで、雪乃のほうを見て優しい眼差しで言った。「雪乃、この二日間は気をつけて。何かあったらいつでも俺に電話してくれよ」 雪乃はその言葉に胸をキュンとさせ、聞き分けよく「分かったわ、博人。心配しないで。だけど白鳥さんのことは……」と言った。 彼女はそこまで言って話を止めた。博人の声は幾分か低くなり、冷たく言った。「あいつのことは気にするな。あいつじゃないなら、君もそんなに怖がる必要はないよ」 潤はそれを聞いて眉間にしわを寄せた。 彼は自分の知る未央はそのようなことをする人物ではないと思っていた。 ただ、ここには雪乃がいるので、それを口に出すことができなかった。 博人は雪乃に何かあるかもしれないと思い、特別に彼女に二人のボディーガードをつけた。 未央は友人たちとパーティーをして、十一時過ぎに解散となった。 解散する間際、響也が彼女を呼び止めた。 夜もすっかり深くなっていて、響也は大きく綺麗な瞳をニコリとさせて彼女を見つめた。 彼はタバコの灰をトントンと払い、話し始めた。「君はまた変わったみたいだね」 「そうかしら?」未央は少し意外だった。 響也は頷いてまた軽く笑って言った。「少しね……まるで昔の白鳥さんに戻ったみたいだ」 何にも囚われず、何でもできてしまうあの頃のように。 未央は笑った。 きっとこの町を去る時が刻一刻と近づいてくるほどに、彼女の心は解放されていっているのだろう。 「もう遅いから、帰らなくちゃ」 彼女は多くを語らず、ただ別れの挨拶だけした。 その時突然、響也が口を開いた。「白鳥さん、もし当時、俺がもっと早く君に……」 「それはないわ」 未央は彼が何を言おうとしているのか分かっていて、瞼を下に向けた。「あの頃の私を知っているでしょ、何も変わらないわ」 当時の未央は情熱的でとても勇敢だった。 だから、結果がどうなるかを知っていても、彼女は恐れずそれに突っ込んでいっていた。 響也はどうしようもなく笑った。「本当に君らしい」 彼はそれ以上何も言わなかった。 未央はタクシーを呼んで家に帰った。 理玖は祖父母の家に行っているし、博人もまだ帰ってきていないので、今夜は未央一人だった。 彼女は荷物と服をまとめ、ここを離れる時に必要なものを整理していた。 眠りにつく前、知らない人からショートメッセージが送られてきた。 「白鳥さん、叔母さんの状況が優れないんです。時間を作って見に来てもらえませんか?」 未央は眉をひそめた。 白鳥家が没落した後、未央の叔母も未央の母親が亡くなって精神的にショックを受け、病院で治療を受けていたのだ。 未央は以前、叔母のために催眠を施したことがあり、叔母の精神状態が戻る手助けをしたことがある。 しかし、その時の叔母の精神状態はすでにひどい状況で、白鳥家の後処理もしないといけなかったので、彼女は叔母を精神病院に預けて治療してもらうしかなかったのだ。 叔母に何かあった? 彼女は少し心配になって、彼女にショートメッセージを送ってきたその番号が小林(こばやし)院長のものではないことにも気づいていなかった。 深夜遅く、博人はようやく家に帰ってきた。 秘書が調査結果を彼にメッセージを送って伝えた。「西嶋社長、当時、白鳥さんのあの一件は本当に偶発的なものだったようです。あの夜、白鳥さんはお酒に酔っていて、社長の部屋にうっかり入ってしまったようです。それから社長に薬を盛った人物に関してはまだ調査する必要があります」 博人はちらりとそのメッセージを確認して、複雑な気持ちになった。 もし、彼に薬を盛った人物が未央でないとすれば……当時のことは彼の誤解だったのだ。 「それと、あの綿井さんに殺害予告の荷物を送ってきた人物に関してはもう結果が出ました。そいつは綿井さんの熱狂的なファンのようで、彼女の公演には欠かさず訪れていたようです。しかし、こんなことをした動機に関してはまだはっきりと分かっていません。今そいつの行方を追っています。今のところ奥様がこの事件に関係しているという証拠はありません」 つまり……彼はまた彼女のことを誤解していた? 博人は瞳の奥に後悔の色を滲ませた。すると、冷たく整ったその顔がかなり和らいだ。 彼と未央のわだかまりと誤解は確かに深くなっていた。 脳裏に今夜、未央のあの静かな水面のように平然とした様子が浮かび、彼の心は穏やかになった。 今夜のあれは、彼女が響也とわざと一緒にいる機会を作り、彼を怒らせようとしたのだろう。 それならそれでいい。 その犯人が捕まってから、彼は全てを打ち明けて彼女との誤解を解くつもりだった。 博人はきつく閉められた部屋の扉を優しい瞳で見つめた。 翌日、未央が目を覚ました頃には博人はすでに会社に行った後だった。 未央は以前、叔母の見舞いに行っていた時間と同じ時刻にタクシーを使って病院まで赴いた。 「すみません、セレナ精神科病院までお願いします」 未央は付近を通りかかったタクシーを呼び止め、行き先を教えた。 彼女は叔母のことを心配していた。それで車がどんどん人のいない寂しい郊外へと向かっていることに気づかなかった。 これはセレナ精神科病院へ行く道ではない! 「車を止めて!」 未央は緊張してドクドクと鼓動が速くなり、顔色を変えた。その次の瞬間、男は車を止めて何かのスプレーを取り出し、彼女に吹きかけてきた。 異臭がすぐに拡散していき、未央は眩暈がすると思うと、すぐに意識を失ってしまった。 それから十分後。 社長オフィスで。 秘書が大慌てでドアを開けた。「西嶋社長、大変です!綿井さんが!」