双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた

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双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた

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朝釣りをしていたおじさんに発見された青山一葉。おじさんが投げた釣り針が彼女の体に引っかかり、どれだけ引いても動かない。近づいてみると...

Chương (1)

第1章

朝釣りをしていたおじさんに発見された青山一葉。おじさんが投げた釣り針が彼女の体に引っかかり、どれだけ引いても動かない。近づいてみると、水に浮かぶ彼女の姿に驚愕し、釣竿も放り出して警察に通報する始末だった。 警察が一葉を引き上げた時、一葉の命はもう風前の灯火だった。 救命に当たった医師たちは、もう手の施しようがないと判断した。 夫に緊急の電話が入り、最期の立ち会いのため病院へ呼び出された時。 あの人は、風邪を引いた初恋の相手にしょうが湯を煮詰めているところだった。 来る暇なんてなかったらしい。 そして。 後になって夫は、目が腫れるほど泣きながら、もう一度だけでいい、振り向いて欲しいと一葉に懇願した。 第1話 朝釣りをしていたおじさんに発見された青山一葉(あおやま かずは)。おじさんの投げた釣り針が彼女の体に引っかかり、どれだけ引いても動かない。近づいてみると、水に浮かぶ彼女の姿に気付き、釣竿も放り出して、震える足で警察に駆け込んだ。 警察が引き上げた時には、一葉の息はかすかに残るだけだった。 救命センターの医師たちは、もう助からないと判断を下した。 家族も見放したのか、誰一人病院に彼女の姿を見せに来なかった。 でも、どういうわけか一葉は生き延びた。医学的奇跡と呼ばれるほどに。 落下した時の一瞬の痛みより、目覚めてからの全身の傷の方が地獄のような苦しみだった。 人間の骨は全部で206本。その半分以上、108本もの骨が彼女の体内で折れていた。いくつかは粉々になり、大小様々な傷が全身を覆い、生きていることが苦痛だった。 動くことも、誰かに触れられることも一葉には恐怖でしかなかった。 看護師が点滴をする時、手の甲を軽く押さえて血管を探るだけで、一葉の額に冷や汗が吹き出るほどの痛みが走った。 やっと六本の点滴が終わり、少し眠ろうとした時のことだった。 深水言吾(ふかみ げんご)の秘書が部屋に入ってきた。 「奥様、社長が優花(ゆうか)さんへの謝罪に奥様のご同行をお願いしたいとのことで、お迎えに参りました」 ベッドから動くこともできない一葉は、呆然と秘書を見つめた。怪我した頭では、その意味を理解するのに時間がかかった。 「奥様、早めに身支度をお願いできますでしょうか。また社長のお怒りを買うことは避けたいのですが......今回は優花さんまで誘拐事件に巻き込んでしまい、社長は相当お怒りです。 優花さんは社長の大切な方ですから、ご存知の通り......」 秘書の声は丁寧だったが、その口調には明らかな焦りと軽蔑が滲んでいた。 一葉は状況を理解すると、思わず苦笑いが漏れた。 なんて素晴らしい夫に巡り会えたことか。 誘拐犯に崖の上で「どちらか一人だけ助けてやる」と言われた時、彼は躊躇う様子もなく初恋の人を選んで、こっちを死地に追いやった。 そして今、自分が九死に一生を得て、まだ指一本動かすことすらままならない状態なのに、彼の大切な人に謝罪しろというのか。 一葉は震える唇を必死に動かし、かすれた声で言った。「言吾さんにお伝えください。謝罪は結構です。私からの詫び代わりに、あの方を優花さんにお譲りします。末永くお幸せに。お子様にも恵まれますように」 言い終えると、一葉は目を閉じた。もう一言も話す気力が残っていなかった。 痛い。とても痛い。全身の傷が無数の牙で彼女を食い千切るように痛んだ。もう耐えられない。早く眠りたい。 眠れば、この痛みからも解放される。 点滴には鎮静剤が混ぜられていたのだろう。すぐに一葉の意識が遠のいていった。 どれくらい眠っていたのだろう。 一葉が目を開けた時。 深水言吾の怒りに染まった瞳と目が合った。 普段から高慢で気位の高い男だが、怒りを帯びた姿はより一層冷たく、恐ろしかった。 思わず一葉の体が震えた。 「なぜ優花に謝罪に行かなかった?お前のせいで誘拐されて風邪まで引いたんだぞ。分かっているのか? 何度言えば分かる?俺と彼女の間には何もない。なぜそんな言葉で彼女を侮辱する? いい加減、お前の妄想は止めろ。すべてがお前の考えた通りだと思うな」 一葉は彼を呆然と見つめた。まるで見知らぬ人を見ているようだった。 かつては自分の手に小さな傷一つできただけで、目を赤くして心配してくれた人なのに。 今や自分は全身包帯でミイラのよう。指一本動かすこともままならないのに、彼の目には映っていない。ただ優花が風邪を引いたことばかり気にかけている。 「言吾さん......」一葉は震える声で言った。「私、重傷なの。手すら動かせないほど......」 この言葉を聞けば、せめて一度はこっちを見てくれるかと思った。妻である自分を死に追いやり、このような重傷を負わせたことに、少しは後ろめたさを感じてくれるかと。 でも...... 言吾は冷笑を浮かべ、嘲るような声で言った。「本当に怪我をしているとは思えないが、仮に本当だとしても、すべてお前の自業自得だろう?」 一葉は言葉を失い、彼をただ見つめたまま、思わず苦笑いを浮かべた。 七年の愛情が、こんな形で終わるなんて。 自嘲的な笑みを浮かべた一葉の表情を見てか、一瞬だけ彼の眼差しが柔らかくなった。だが、すぐにまた苛立ちと嘲りの色が戻る。「一葉、お前の演技力も随分と上達したようだな」 「包帯の巻き方も、まるで本物みたいじゃないか」そう言いながら、彼は一葉の体を覆う包帯を乱暴に引っ張った。 かすかな接触さえ死ぬほどの痛みを伴うのに、この乱暴な扱いに、一葉は息すら満足に出来なくなった。 一葉が苦しむ間も与えず、彼は彼女の腕を強く押さえつけた。「これは何だ?血か?色合いもリアルだな。本物の血でも買ったのか?医療資源の無駄遣いもいい加減にしろよ」 やっと接合したばかりの骨を、彼は容赦なく押さえつける。 その瞬間、心臓が止まるような激痛が一葉の体を走った。 一瞬のうちに、冷や汗で全身が水に浸かったかのように濡れそぼった。 顔から血の気が失せ、死人のように青ざめていく。 必死で口を開き、止めてくれと懇願しようとしたが、痛みで一葉は声すら出せなかった。 深水言吾が顔を下げ、一葉の蒼白な顔を見た時、やっと何かがおかしいと気付いたようだった。「お前......」 だが、その言葉は途中で携帯の着信音に遮られた。 特別な着信音に、彼は一葉から目を離し、すぐさま電話に出た。 「心配するな、今すぐ行く!」 慌ただしく部屋を出ていく彼は、振り返りもしなかった。 急いでいたせいか、一葉の体に繋がれた点滴のチューブの一本が外れてしまった。 途端に、一葉は呼吸が出来なくなった。 必死で彼を呼び止めようとした。医者を呼んで欲しいと懇願したかった。 でも、どんなに努力しても、かすかな声すら出せない。 息苦しさは増すばかり。まるで誰かに喉を強く握られているような感覚が一葉を襲った。。 意識が闇に沈みゆく中で、一葉は思った。これで本当に死ぬのかもしれないと。 誘拐犯の手にかかることもなく、崖から転落して岩場に打ち付けられた時も死ねなかった自分が、最後は最愛の人の手によって命を落とすなんて、誰が想像しただろう。 自分の全てを捧げて愛した人なのに。 その瞬間、一葉の胸に走った痛みは、これまでの全ての苦痛を凌駕していた。 もう二度と、愛なんてしたくない。そう思えるほどの痛みだった。 ...... 神は一葉を愛しているのか、それとも嘲笑っているのか。 また一度、死のすぐ傍まで行きながら、一葉は生き延びた。 「奇跡的ですね」と医師に褒められた命の強さ。 看護師長が帰宅前に一度見回りをしようと思い立ったのが幸いだったと医師は言う。もし彼女が異変に気付かず、救急処置室に運ばれるのが数分遅れていたら、一葉の命は消えていたという。 「これほどの生命力は初めて見ました」と医師が言った。 一葉は言葉も見つからず、ただ微かに笑みを返すことしかできなかった。 今回目覚めてから、何か大切なものを失くしたような不思議な虚しさが彼女の心の中に残っている。幼い頃から今までの記憶を辿っても、何一つ欠けているようには思えないのに。 ただ、点滴のチューブがどうして外れたのかだけは、どうしても思い出せない。 医師は「これだけの重傷を負えば、一時的な記憶の欠落は珍しくありません。今は焦らず、治療に専念しましょう」と諭してくれた。 その通りだと一葉は思った。 それ以上、深く考えることはやめにした。 二度目の傷害で症状は更に悪化し、二ヶ月以上もベッドから動けない日々が続いた。 やっと体を動かせるようになっても、一葉の手足の動きは鈍く不自由なままだった。 喉が渇いて堪らないのに、テーブルの水差しに手が届かない。やっとの思いで冷や汗を流しながら掴んだものの、震える手が裏切り、グラスは床に落ちた。 床一面に広がる水を見つめながら、一葉はより一層の渇きを覚えた。 もう一杯注ごうとした瞬間、長身の男が突然部屋に飛び込んできた。 第2話 床に散らばるガラスの破片を見て、男は眉をひそめた。その高慢な態度がより冷たさを増す。「病院でも物を投げ散らすのか。いい加減、分別を持て」 一葉は目を丸くした。「???」 物を投げ散らす? この人は誰? 彼は何か言いかけたが、何かを思い出したように言葉を切り替えた。「一葉、お前が無理難題ばかり言って退院を拒んでいるせいで、優花が傷ついて去ろうとしている。今日こそ彼女に謝罪して、引き止めるんだ」 そう言いながら大股で近づき、一葉をベッドから引きずり出そうとした。一葉は咄嗟に彼の手を避けた。「誰なんですか!知りません。触らないでください!」 今は少しは動けるようになったとはいえ、傷は完治していない。誰かに触られることへの恐怖が一葉の心を支配していた。 「一葉、また何を演じている?」男は苛立たしげに眉を寄せた。 「演じるって何ですか。あなたが誰なのか分かりません。すぐに出て行ってください。でないと......」 言葉を終える前に、彼は一葉の肩を強く掴んだ。「一葉、これ以上ふざければ、本気で怒るぞ」 その力の強さに、まだ完治していない骨が再び砕かれるのではないかとという恐怖が一葉を襲った。 一葉は痛覚過敏で、骨折の痛みは思い出すことさえ恐ろしかった。まして、もう一度その痛みを味わうなど想像するだけで身体が震える。 恐怖で制御が利かなくなり、一葉は悲鳴を上げた。 予想外の反応に男は一瞬怯み、思わず手を放した。 その隙に、一葉は必死でナースコールを押し続けた。誰か助けを呼びたい一心だった。 医師と看護師たちが駆けつけると、彼女は彼らの後ろに身を隠し、震える声で警察を呼んで欲しいと懇願した。 一葉が警察を呼ぶと言った途端、男の整った眉が険しく寄せられた。「一葉、何を馬鹿なことを」 なぜ自分の名前を知っているのか、なぜ自分のことを知っているような態度なのか、一葉には理解できなかった。今は考える余裕もない。この危険な男を早く警察に連れて行ってもらいたかった。 一葉は必死で医師に警察を呼ぶよう懇願を繰り返した。 彼女が警察を呼ぶことに固執するのを見て、彼の切れ長の美しい瞳に苛立ちが滲んだ。 「一葉、いい加減にしろ」 そう言って彼は医師たちに向き直った。この女の戯れに付き合う必要はない、自分は彼女の合法的な夫だと告げる。 彼が自分の夫だと聞いた瞬間、この狂人を一刻も早く逮捕してもらいたい気持ちが一葉の中で増した。 怪我をしただけで、頭がおかしくなったわけではない。自分が結婚しているかどうか、夫がいるかどうか、そんなことくらい分かる。 まさか、自分の夫だなんて! どこかの精神を患った男が人違いをしているのだと一葉は思ったのに、警察の確認によると、彼は確かに一葉の法的な夫だという。 驚きで目を見開いたまま、一葉はもう一度確認を求めた。 しかし何度警察が調べても、目の前のこの男は、紛れもなく一葉の法律上の夫だった。 一葉の頭が真っ白になった。 何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、まったく分からない。 ふと、二度目の怪我から目覚めた時の、何かを忘れているような違和感が一葉の記憶に蘇った。 でも......でも...... 三歳の記憶までハッキリしているのに、なぜ結婚して夫がいるという、こんな重大なことだけを忘れているのだろう? こんなことがあり得るはずがない! 医師も一葉の症状について、明確な説明が出来ないようだった。 「全てを覚えているのに、俺のことだけ忘れた?」彼は高みから見下ろすような目で一葉を見た。その眼差しには軽蔑と嘲りが混ざっていた。 まるで一葉が全てを演じているかのような態度。 居心地の悪さが一葉の胸に込み上げてきた。 夫だろうが何だろうが、まずは退室してもらおうと彼女が思った矢先、彼は分厚い診断書の束をベッドに投げつけた。「一葉、随分と手が込んできたな。これほどの重症を偽装して入院を続け、今度は記憶喪失まで演じ始めたか」 「優花が戻ってきて以来、お前は騒ぎを起こし続けている。そして今度は記憶喪失だと?」 一葉は目を丸くした。「???」 医師も同じように困惑の表情を浮かべている。「???」 診断書を偽造して入院を続けている? 「前にも言っただろう。どんな芝居を打とうが無駄だ。おとなしくするんだ。 今夜だ。遅くとも今夜中に退院して優花に謝罪しろ。さもなければ、もう二度と戻ってくるな」 そう言い放つと、この法律上の夫は、一葉に反論の機会すら与えず、威圧的に部屋を出て行った。 彼が去った後、医師の目には深い同情の色が浮かんでいた。 こんな男と結婚していたなんて...... 命を落としかけるほどの重傷を負い、二ヶ月以上も寝たきりだったというのに、夫は一度も見舞いに来ず、それどころか怪我を偽装していると疑っている。 診断書まで偽造だなんて......呆れて言葉も出ない。 医師の同情的な眼差しに、一葉は言葉を失った。 たった今、法的な夫がいると知らされたばかりの一葉には、今の心境を表現する言葉さえ見つからない。 三歳の記憶まではっきりしているのに、結婚していることだけを忘れるなんて、どう考えても理解できない。 考えれば考えるほど、一葉の頭が痛くなってくる。 自分は昔から痛みに弱かった。 理解できないことを考え続けるのは、もうやめにしよう。 そうだ。 きっと、彼が重要な存在じゃなかったからだ。 子供の頃から、自分の記憶は大切で意味のある人だけを覚えていて、どうでもいい人や出来事は記憶に残らない。 重要でない人なら、考える価値もない。 法的な夫のことは忘れて、これからのリハビリに専念することに一葉は決めた。 その夜、電話が鳴った。 「一葉、今すぐ戻って来い。もし戻って来なければ......」 名ばかりの夫の声を聞いた瞬間、一葉は言葉を遮って電話を切った。 事故から二ヶ月以上。一度も見舞いに来なかった冷血な男。妻の生死すら気にかけない人なのに。そして自分は誰のことも覚えているのに、彼のことだけを忘れている。これは間違いなく、愛のない政略結婚に違いない。 感情のない契約結婚の夫が、まるで帝王のように命令してくる。一葉にはどこまで傲慢に思えた。 彼からのくだらない電話はもう受けたくない。一葉はスマホを置く時に、ついでに着信拒否リストに追加した。 やっと上手く注げた水を満足げに口に運ぶ。 切られた通話画面を見つめる言吾は、一瞬現実を理解できずにいた。今まで電話を切るのは常に自分の方で、一葉が電話を切るなど......むしろ彼女はいつも必死に引き止めようとした。最後まで話を聞いて欲しいと、帰って来て欲しいと、ただただ懇願するばかりだった。 それなのに今日は、言葉も最後まで聞かずに切られた。 午前中の病院での出来事が蘇る。まるで他人を見るような一葉の目、そして一見すると本物にしか見えない診断書の数々。説明のつかない焦りが胸の内を掻き乱す。 「言吾さん、お姉さんはまだ怒っているんですか?」 「私からもう一度謝りに行きましょうか?全て私が悪いんです。あの時、病院でもっと我慢できていれば......気を失わずに、お姉さんの怒りを受け止められていれば、こんなに怒らせずに済んだのに」 春雨優花(はるさめ ゆうか)が自分を責め、全ての非を被ろうとする姿に、言吾の瞳が一段と冷たさを増した。人を殴れるほどの体力があるなら、大した怪我のはずがない。 「放っておけ。騒ぎ疲れたら自分で戻って来る」 「でも......」 「でもも何もない。悪いのはお前じゃない。あいつだ」勝手にすればいい。永遠に戻って来なくても構わない。 「言吾さん......私が......私が居なくなれば、お姉さんも怒らずに済むんじゃ......」 第3話 突然夫がいると知って、どうしても眠れなくなった一葉は、親友の千陽に電話をかけることにした。 一葉は重傷を負ったことで千陽を心配させたくなくて、ずっと連絡を控えていた。千陽からも連絡がなかったのは、ある意味幸いだった。もし連絡を取っていたら、一葉の怪我のことは絶対にバレていただろうから。 でも、電話が繋がった瞬間、一葉は思わず甘えた声が漏れた。「もう、ひどいわよ。私が連絡しないからって、あなたもずっと連絡くれないなんて」 二ヶ月以上も。電話はおろか、メールもLINEも、一通も来なかった。 なんて薄情な子なの!一葉はそう思った。 一葉は、千陽が研究で人里離れた場所に行っていて、電波が入らなかったとか、そんな言い訳が返ってくると思っていた。 けれど、受話器の向こうは長い沈黙の後。 「一葉さん......私たち、もう絶交したじゃないですか。忘れたんですか?」 突然の夫の存在より、もっと衝撃的で受け入れ難い事実に、一葉は目を見開いた。 橘千陽(たちばな ちはる)......一葉の最愛の親友。自分の命を投げ出すことはあっても、千陽との友情を手放すことなんて、一葉には絶対にありえないことだった。 彼女と絶交?そんなはずない。 一葉はどうしても信じられなかった。 でも千陽は言う。確かに二人は絶交したのだと。 深水言吾が原因で。 千陽によると、一葉と言吾の結婚は打算的な政略結婚どころか、一葉が命より深く彼を愛していたという。底なしの執着で、何もかも捨てられるほどに。 恋に溺れた哀れな女や盲目的な恋という言葉では足りないほど、一葉は自分の尊厳まで失っていたのだと千陽は語った。 百年待ち続けた純愛の姫たちでさえ、一葉の前では足元にも及ばないほどだった。 言吾が一葉を愛していないこと、権力のために一葉と結婚したこと、本当に愛しているのは一葉の義妹の優花だということを知っても......彼が優花という叶わぬ初恋のために、一葉を傷つけ、侮辱し続けても、一葉は彼にしがみついていたという。 あらゆる手段を尽くし、自傷行為まで......全て彼を引き止めるため。 周りの笑い物になり、社交界では毎日のように賭けが行われた。捨てられた一葉が今日はどんな醜態を晒すのかと。 千陽は言吾から離れろと諭してくれたのに、一葉はその男のために、最愛の親友との絆さえ自ら断ち切ってしまったのだった。 千陽の話を聞いた後、一葉はしばらく現実感を失っていた。千陽の語る「一葉」は、まるで別人のようだった。 青山一葉が誰かを、そこまで惨めなまでに愛するなんて、絶対にありえない。 ましてや一人の男のために、最愛の親友を切り捨てるなどあり得るはずがない。 でも...... もう電話をかけないでほしいと、千陽は言った。 一葉の声を聞くのも、一葉と言吾のことも、もう何も知りたくないと。 今の一葉がどんな状況にあろうと、それは自業自得だから、もう関わらないでほしいと。 一葉と千陽は何度も生死を共にした仲。よほどの失望がなければ、千陽がこんな言葉を投げかけるはずがない。 誰かをここまで盲目的に愛していたなんて、一葉にはどうしても信じられない。 けれど、否定もできない。 千陽は厳しい言葉を投げかけながらも、電話を切る直前、一葉の様子を気にかけ、助けが必要かと尋ねてきた。昔の関係があるなら、最後に一度だけ力になれると。 千陽はいつだって、強がりながら優しい人だった。 電話を切った後、一葉はベッドに横たわったまま、さらに眠れなくなった。 ...... 一ヶ月以上のリハビリを経て、一葉はやっと退院を許可された。 迎えに来たのは一葉の兄だった。 「両親も俺も見舞いに来られなくてすまない。でも分かるだろう?優花は子供の頃から体が弱くて、今回の件でショックを受けて。風邪も引いて、悪夢にうなされて......両親も付きっきりで」 「会社を継いだばかりの俺も、反対派の株主たちの対応で毎日てんてこ舞いで......時間を作ろうとしたんだが......」 一葉は目を伏せ、薄く笑って答えた。「うん、分かってるわ。お兄さん、大変だったのね」 一葉の言葉に責める気持ちは全くなく、兄の言い訳に合わせただけだったのに、兄は突然いらだたしげに声を荒げた。「不満があるなら、はっきり言えよ。その意味ありげな態度はやめろ!」 一葉は言葉を失った。 「確かに見舞いには来なかった。でも、お前にも非はあるだろう?少しは自分を省みろよ。たかが怪我一つで三ヶ月も入院とか。お前ほど面倒な奴はいないよ! 両親が優花の方を可愛がるのも当然だろ。実の娘のお前よりもな!このままじゃ、一生誰からも好かれないぞ!」 兄の怒りの矛先に、一葉は苦笑するしかなかった。 兄は忘れてしまったのだろうか。自分が子供の頃から病院が大嫌いだったことを。 昔は病気になった時、兄は自分を病院に連れて行くのに苦労したものだった。 一秒でも早く病院を出たがる自分が、自ら長期入院を望むはずがない。 わがままを言える立場でもなかったし。 仮にそんな立場だったとしても、何の理由もなく、こんなに長く入院するはずがないのに。 「お前が病院でのんびりしてる間、俺がどれだけ忙しかったか分かってんのか?会社の仕事に追われて、それに両親も......」 兄は自分が正しいと言い切るように、延々と一葉を責め続けた挙句、疲れ果てたように溜息をついた。「まあいい。実の兄だからな。性格が悪くたって見捨てられるわけないだろ」 「昔、俺がお前をどれだけ可愛がってたか覚えてるだろ?この世でお前のことをここまで思ってやれるのは、兄の俺だけなんだぞ!」 一葉は兄の顔をじっと見つめた。 幼い頃の記憶が蘇り、胸が鋭く痛んだ。 確かに、昔の兄は本当に、本当に優しかった。 でも、それは全て父と母が両親を亡くした優花を引き取る前のことだった。 退院したばかりで体力も戻っていない一葉は、車に乗ってすぐに眠りに落ちた。 兄に起こされた時、窓の外の見慣れない景色に戸惑い、しばらく放心状態だった。焦れた兄の声で我に返る。 「兄さん、ここって......」 自分の住んでいる場所ではない。 言葉を最後まで紡ぐ前に、兄に強く手を引かれて車から降ろされた。 「さあ、行くぞ。もう三ヶ月以上も逃げ回ったんだ。そろそろ優花に謝りに行く時だろう」 一葉は言葉を失った。 なるほど。あれだけ忙しいはずの兄が、退院の迎えに来てくれた理由が分かった。 きっと一葉の顔を立てるつもりで、迎えに来たふりをしてくれたのだろう。 兄は一葉の言葉を遮るように続けた。「お前のせいで優花まで誘拐されて、一週間以上も風邪を引いて寝込んだんだぞ。謝罪は必要だ」 一葉は行きたくなかった。 記憶の一部は曖昧だが、誘拐された時の優花と犯人たちのやり取りは覚えている。まだ捜査の結果を待つべき事も多いはずなのに。 だが、軽く引っ張られるだけでも痛みが走る体では抵抗など出来るはずもなく、一葉はただ黙って従うしかなかった。 バーの個室に着くと、中は盛り上がっていた。 男女一組を真ん中に囲んで、皆が口々にキスを煽っている。 「キスして!キスして!キスして!」 その雰囲気に、思わず一葉も手拍子を打って「キスして!」と声を上げてしまった。 彼女の声が少し大きかったのか、賑やかだった個室が一瞬にして静まり返った。 全員の視線が一斉に一葉に向けられる。 その視線に一葉は少し気恥ずかしくなった。 「そんなに見ないでよ!続けて、続けて!私だって同じ、お二人がお似合いだと思っただけ!」一葉はそう言いながら、真ん中に立つ男性――一葉の法的な夫を見つめた。「気にしないで、キスすればいいのに!」 「私はただ、お二人のお祝いに来ただけだから!」 第4話 病院でのリハビリの一ヶ月余り、一葉は決して時間を無駄にしなかった。彼女と法律上の夫、そして優花との関係について、徹底的に調べ上げていた。 言吾との結婚は恋愛結婚だった。純粋な愛情で結ばれたと一葉は信じていた。 この男のために、一葉は全財産を投じて彼の起業を支え、彼の健康を第一に考えて学業も断念し、専業主婦になったのだった。 まさか、彼の愛情は打算的な嘘だったなど、想像もしていなかった。 本当に愛していたのは、一葉の義妹の優花だったのだ。 優花が戻ってきてからというもの、状況は一変した。 結婚記念日に、言吾は優花とオーロラ観賞に出かけた。 一葉の誕生日には、優花と桜都で桜吹雪を楽しんでいた。 バレンタインデーには、優花に一軒家いっぱいの赤いバラと、鳩の卵ほどもある大きさのダイヤの指輪を贈り、一葉には優花へのプレゼントを買った時のおまけ程度のものしかくれなかった。 そして冷たく一言、「騒ぐな」と言い放った。 それなのに、一葉はまるで恋に盲目な女のように、離婚を考えるどころか。 傷つく度に、より一層献身的に彼の世話を焼き、お茶を淹れ、料理を作り、完璧な妻を演じ続けた。 この結婚を守ることだけを願いながら。 今回の誘拐だって、敵対する企業が言吾の命を狙っていて、一葉は彼を守るために連れ去られたというのに。 結局、尽くせば尽くすほど、彼女の手元には何も残らなかった。 彼のために命さえ投げ出せたのに、言吾は優花のために躊躇なく一葉を見捨て、そして一葉が九死に一生を得た後も、ただひたすらに優花への謝罪を彼女に強要し続けた。 人としての心すら持ち合わせていない、最低な男だった。 かつての自分があまりにも恋に溺れ、一人の男のためにここまで自分を貶め、命も尊厳も投げ出すほど愚かだったことは、一葉には受け入れ難かった。でも、もう後悔したところで何も変わらない。 このダメ男を捨てることこそが正解なのだと、一葉は確信していた。 この二人、最低な男と腹黒い女、まさに運命の出会いというべきね。 一葉の唇に皮肉な笑みが浮かんだ。 心から願うわ、一生このまま縛り付けられてればいいって。 「一葉、また何を馬鹿なことを」言吾が眉をひそめた。「三ヶ月以上も反省する時間があったのに、まだ自分の非が分からないのか」 そんな言葉まで! 一葉の口元に思わず笑みが零れた。自分の惨めさを噛み締めるような笑いだった。 全てを捧げ、死にかけても、返ってきた言葉は「まだ自分の非が分からないのか」なのか。 「ちゃんと反省したわ。だから、お二人のお祝いに来たんじゃない」 眉目秀麗の言吾の顔が、一瞬にして険しく歪んだ。さっきまでの優しい表情は影も形もない。 愛情の有無なんて、こうもはっきりと分かるものなのね――一葉はそう思った。 不思議だった。言吾への愛情の記憶は失くしているはずなのに、このクズ男を振り払いたい気持ちでいっぱいなのに。 その冷たい眼差しと向き合った瞬間、一葉の胸が鋭く疼いた。 「お姉さん、誤解しないで。私と言吾さんの間には何もないの。さっきはただの罰ゲームで、ゲームだけだったの......」 か細い体つきの優花が、慌てた様子で一葉に駆け寄ってきた。 まるで本当に誤解されて困っているかのような、か弱げな仕草を見せながら。 優花が一葉に抱きつこうとした瞬間、一葉は咄嗟に身を躱した。 見た目は普通に見えても、今の一葉の体は内部が金属プレートとボルトで支えられているだけだった。 退院時、医師からは厳重な警告を受けていた。完治するまでは細心の注意を払い、骨に負担をかけないようにと。もし再び怪我でもすれば、取り返しのつかない後遺症が残る可能性があると告げられていた。 一葉の体は今や高級な磁器人形よりも脆弱で、優花の「か弱い」抱擁など、とても受け止められるものではなかった。 入院中、両親も兄も夫も見舞いに来なかったが、この義妹は頻繁に顔を出していた。一葉の状態を誰よりもよく知っているはずなのに。 「お姉さん、そんなに私のことが嫌いなの?」空振りした優花は床に倒れ込み、瞬く間に涙を瞳に溜めた。今にも零れ落ちそうな涙は、見る者の同情を誘うように揺れている。 言吾は優花を心配そうに見つめ、すでに険しかった表情がさらに冷酷さを増した。 「一葉、今日優花に謝罪するつもりがないなら、すぐに出て行け。二度と俺の前に姿を現すな」 その声は骨まで凍えそうな冷たさだった。 高い地位にある者特有の威圧感が、まるで空気を吸い上げるような重圧となって襲いかかってくる。 でも...... これは願ってもない話じゃない? 謝罪せずに済む上に、この汚らわしい男にも二度と会わなくて済む? 顔を上げ、一葉は笑みを浮かべた。「どうやら私の考えと同じようね。謝罪するつもりなんてないわ。じゃあ、失礼するわ」 そう言って背を向けた。 まるで霊安室のような静寂が個室を包んだことなど、一葉はまったく気にしていなかった。 だが、一歩も踏み出せなかった。腕を強く掴まれ、骨まで砕けそうな痛みが走る。 その激痛に、一葉の全身が一瞬にして冷や汗で濡れた。 「一葉、今の言葉の意味が分かってるのか?」 「どんなに駄々をこねるにしても限度というものがある!」三ヶ月以上も続いた騒動が収まるどころか、エスカレートする一方なことに、言吾の声は苛立ちを帯びていた。 一葉は彼をじっと見つめた。これほどはっきり言っているのに、まだ自分が駄々をこねているだけ、わがままを言っているだけだと思っているのか。正気なのか、それとも本当に分かっていないふりをしているのか。 「私が駄々をこねてるだけだと思うなら、試してみる?」 「何を試す?」言吾は本能的に、これから聞く言葉が自分の望まないものだと悟っていた。 真っ直ぐに彼の目を見つめ、一葉は言った。「離婚届を出しに行きましょう。本当に私が駄々をこねてるだけかどうか、確かめられるでしょう」 その言葉が部屋に響いた瞬間、個室内の全員が目を見開いた。まるで一葉が何か得体の知れない異星人にでも取り憑かれたかのような目で、彼女を見つめている。 かつての一葉なら、どんな状況でも決して口にしなかったはずの言葉——言吾との離婚など。 静寂が個室を支配した後、あちこちから嘲笑の声が上がった。 「一葉さん、そんなこと言ったら、言吾さん本当に離婚しちゃいますよ?」 「ほんとに市役所行く時になって、言吾さんの足にすがって泣き叫ばないでよね」 「言吾さん、甘やかすのはもう止めましょう。さっさと離婚してやれば?」 「そうよ、離婚すればいいのよ!本当にやる勇気あるのかしら?言吾さんなら、あなたより百倍も素敵な女性が見つかるわ。でもこの女ときたら、どうせ売春婦にでもなったって、誰も見向きもしないでしょうね」 「自分を何だと思ってるの?言吾さんを離婚なんかで脅すなんて」 「三ヶ月以上も入院してたのに、言吾さんは一度も見舞いに来なかったでしょう?少しは察しなさいよ」 「三浦さん、笑わないで。この愛情乞食に、そんな察する能力があると思う?」 言吾が一葉を好きではない。だから彼の友人たちも一葉を嫌っている。まるで言吾に食い下がる野良犬でも見るような、軽蔑の眼差しを向けてくる。 周りから「離婚すれば」という声が繰り返される中、言吾の表情は次第に険しさを増していった。 「一葉、もうふざけるのは止めろ」彼は警告するような声音で言った。 周りの全員が言吾と同じように考えていた。一葉がただ離婚を盾に取って駄々をこねているだけだと。そりゃそうだろう。一葉が言吾をどれほど愛していたか、彼らは知っているのだから。たった一晩帰らないだけで、過呼吸で救急搬送されるほど取り乱していた一葉が、まさか本気で離婚を口にするはずがないと。 ただ一人、双子の兄だけが一葉の本気を見抜いていた。 双子だからこそ、誰よりも妹のことを分かっているのだろう。 「一葉、どうしたんだ?相手は言吾さんだぞ?お前が命より大切にしていた男だろう!」一葉の決意の固さを悟った兄は、困惑した様子で声を上げた。なぜ妹がこれほど愛していた言吾との離婚を望むのか、理解できないといった表情だった。 兄の言葉には答えず、一葉は言吾を見つめ返した。ただ腕を離すよう求めるだけの冷たい視線。 言吾は、一葉の態度に怒り狂って笑ったのか、それともやっとこの重荷から解放されると喜んで笑ったのか。「いいぞ!実に結構!一葉、随分と成長したじゃないか!」 「離婚が望みか?いいだろう!やってやる!」 満足げに立ち去ろうとした一葉の前に、また優花が涙を浮かべながら飛び出してきた。「お姉さん、言吾さん、やめて!私のせいでこんなことに......」 「お姉さん、私と言吾さんの間には本当に何もないの!さっきはただのゲームだったの!こんなことで離婚なんて......信じてくれないなら、私の命を賭けて証明するわ!」そう叫んで、優花はテーブルの果物ナイフを掴むと、自分の首筋に突き付けた。 周りの人々は一斉に優花を心配そうに諭し始めた。冷静になるように、一葉のような困った女のことなど気にしないでいいと。 一葉は冷ややかに笑みを浮かべた。「ええ、いいわよ。死んでみなさい。そうしたら、私も信じてあげる」 第5話 途端に、部屋中から一葉を非難する声が飛び交った。 その罵声の中で、一葉は優花の目に浮かぶ得意げな挑発的な色を見逃さなかった。 この家に来て以来、優花のか弱い善良さの演技に、一葉は何度も何度も敗北を喫してきた。 優花はいつだって、彼女を傷つけることも辞さない女だった。 あの時のように——一葉を陥れるために、一葉の手を掴んで自ら階段から転げ落ち、一ヶ月以上も入院する重傷を負った時のように。 一葉の言葉が終わるや否や、優花は悲しげに微笑み、ナイフを首筋に走らせた。 言吾が咄嗟に彼女の手からナイフを掴み取らなければ。 その場は、間違いなく血しぶきが舞い散る修羅場と化していただろう。 一葉は時々、優花の覚悟に感心させられることがあった。 ...... 言吾は間一髪で優花を止めたものの、鋭いナイフは優花の首筋に薄い傷を残していた。たった数日で治るような傷にすぎないのに、彼の目は心配で真っ赤に充血していた。 言吾は優花を抱き上げると、一葉に氷のように冷たい、失望に満ちた一瞥を投げかけ、急いで愛する人を病院へと連れ出した。 それは、一葉が重傷で水すら飲めない状態なのに「演技している」と冷たく突き放した時の態度とは、まさに天と地ほどの差だった。 一葉の心臓が、また慣れた痛みを刻んだ。 「こんな非道な妹がいるなんて!一葉、いいか。優花に何かあったら、絶対に許さないからな!」一葉の兄は失望と苦痛に満ちた声で捨て台詞を残すと、急いで後を追った。 個室内の残りの客たちも、それに続いて出て行く。 出て行く際、皆が意図的に一葉に体当たりをしてきた。 最初の何人かは避けることができたが、最後の一人は避けきれなかった。一葉は咄嗟にソファまで後ずさって座り込んだ。あの勢いでまともに床に倒されていたら、体中の金属がバラバラになっていたかもしれなかった。 一葉はあまりにも早くこのクズ男を切り捨てたい気持ちが先走って、少し焦りすぎていた。 これからは何があっても、まず自分の体を守ることを第一に考えなければならない。 高級VIP個室のソファは極上の柔らかさなのに、それでも一葉の全身が耐えられないほどに痛んだ。長い間ただソファに身を沈めて、やっと痛みが和らいでくる。 それでも疲れ果てて、動く気力も残っていない。 けれど、ここは休める場所ではなかった。 どれほど動きたくなくても、結局はタクシーを呼んで家まで這うように帰った。 体当たりの衝撃で関節が再び疼き出し、どうしても眠れない。一葉は何錠も睡眠薬を飲んで、ようやく深い眠りに落ちることができた。 氷のように冷たい水を浴びせられて、一葉は目を覚ました。 瞼を開くと、怒りに震える両親の顔があった。一葉の意識は霧に包まれたようにぼんやりとしていて、現実感が薄れていた。 今が何時なのか、何曜日なのかさえ、分からない。 これは夢なのだろうか。 怒りに震えている両親の姿を見るのも、もう随分と久しぶりだった。 目の前の光景が本当に現実なのか、一葉には確信が持てなかった。 母が再び氷水の入った洗面器を持ち上げ、一葉に向かって水を浴びせかけた。「優愛!よくも眠れたものね!」 「こんな鬼のような娘を産んでしまうなんて!妹に死ねなんて言うなんて!死にたいのならあんたが死ねばいいでしょう!」 青山優愛(あおやま ゆあ)——それは両親が優花を引き取った後、一葉に付けられた新しい名前だった。 母は言った。一葉は姉なのだから、これからは妹の優花のことを常に思いやり、全てを譲らなければならない——その戒めとして、一葉の名前を「優愛」に変えたのだと。 一葉は必死で抵抗した。 どうしても理解できなかった。 なぜ、たった数日年上というだけで、自分の全てを優花に譲らなければならないのか。両親も、兄も、自分の部屋も、大切なおもちゃも、進学の機会も、受賞した賞も、そして自分の名前まで——全てを優花のものにしなければならないのか。 けれど、どれほど抵抗しても無駄だった。 絶望の果てに、一葉は死を考えた。深い海の中へ一歩一歩と歩いていく。両親を後悔させるため、最後の抵抗として、死のうとした。 でも、いくが救命室に運ばれた時、電話を受けた両親は優花の誕生日会に夢中で。緊急手術の同意書にサインすらしに来ず、「死にたいなら死ねば」と言い放った。 その時、一葉は悟った。 何をしても無駄なのだと。 成長して自立できるようになってから、真っ先に一葉は名前を「青山一葉」に変えた。 「一」——唯一の存在。この世界にたった一人しかいない自分。自分にはその価値があり、この世界で立派に生きていく資格がある。 「こんな鬼のような性格だったなんて。生まれた時に殺してしまえば良かったのよ!」 母の憎悪に満ちた表情を見ていると、もし過去に戻れるなら、きっと躊躇なく生まれたばかりの一葉を殺していただろう。 顔を伝う水を拭いながら、一葉は笑みを浮かべた。「今からでも遅くありませんよ」 「何が遅くないって?」母は目を見開いた。 「今殺してくれても構いません。ご安心を、示談書は事前に書いておきますから。お父さんに統合失調症の診断書でも用意してもらえば、母さんは刑務所にも入らなくて済みますよ」 できることなら生きていきたい。でも、この命をくれた人が、どうしても自分を殺したいというのなら。 抵抗はしない。この命を返すだけだ。 「あ、あんた......」母は怒りで震え、言葉を詰まらせた。 そして最後に—— 「あの崖から落ちた時、どうして死ななかったのよ!」 一葉は短く笑った。「そうですね。あの時、どうして死ななかったんでしょうね」 自分が死んでいれば、誰もが幸せだったのに。 こんな苦しみもなかったはずなのに。 母は一葉を見つめ、言葉に詰まったのか、それとも一葉の悲しみに満ちた言葉に母性が揺り動かされたのか。複雑な表情を浮かべた後、急に怒りが抜けたような声で言った。「優愛、どんな理由があっても、妹に死ねなんて言っちゃいけないでしょう!」 「優花は小さい頃からとても優しい子なの。あなたがそんなこと言えば、本当に死んでしまうかもしれないのよ! お姉ちゃんなんだから、どうして妹のことを思いやれないの?」 母を見つめながら、一葉の胸の中で叫び声が渦巻いた。お母さん、どうして私のことを思いやってくれないの?あんな高い崖から落ちて、死にかけて、三ヶ月以上も入院して——三ヶ月も! どうして一度も見舞いに来てくれなかったの? でも、その言葉は喉まで来ても、結局一葉は飲み込んだ。 どうせ、言っても無駄だから。 父は一葉に対してずっと短気だった。「もういい加減にしろ。可哀想な振りはやめて、さっさと支度して病院に行くぞ。優花に謝りに行くんだ!」 「それと、お前も優花と言吾が相応しいと思うなら、さっさと離婚しろ。 何年も二人の邪魔をして、それでも言吾の心を掴めなかったんだ。いい加減、自分の立場を理解しろ」 一葉が何か言う間もなく、父は続けた。 「あんな高い崖から落ちて、冷たい水に長時間浸かっていたんだ。もう子供も産めないだろう。これ以上、人の人生を台無しにするな!」 「そうよ」母も便乗するように言った。「優愛、本当に言吾のことを愛しているなら、彼を解放してあげなさい。彼を幸せにしてあげなさい!」 一葉は両親をじっと見つめた。ただ、見つめ続けた。 なるほど。二人は自分の怪我がどれほど重症だったか、ちゃんと分かっていたのだ。 自分が大げさに騒いでいるとか、演技をしているから見舞いに来なかったわけじゃない。 ただ、自分には価値がないと思っていただけ。見舞いに来る価値すらない存在だと。 思わず、また笑みが零れた。「分かりました。二人の幸せのために、手を引きます」 第6話 母の言葉が途切れた。一葉がこんなにあっさりと承諾するとは思っていなかったのだろう。 怒りかけていた父も、言葉を失っている。 そりゃそうよね。今までは殴り殺されそうになっても、離婚という言葉を絶対に口にしなかった一葉が、今度は自分から切り出したのだから。 二人が我に返る前に、一葉は口を開いた。「まだ体調が戻っていないので、動きたくありません。謝罪には行けません。言吾さんが離婚協議書を用意したら、弁護士に直接持ってきてもらえばいいです」 そう言うと、濡れた布団を被った。 湿った布団が息苦しい。空気が通らない。 それでも一葉は、これから両親が見せるであろう喜びの表情を見るよりはましだと感じていた。 さすがに娘だけあって、こんなに簡単に離婚を承諾するはずがないと半信半疑だった両親も、一葉の本気さを悟ると、急に態度が柔らかくなった。 「やっと分かってくれたのね。疲れているなら休みなさい。動かなくていいわ。後で木下おばさんに来てもらって、家事を任せるから」 父はナイトテーブルにカードを置きながら言った。 「これに200万円入れてある。好きに使いなさい。足りなくなったら言いなさい。まだ若いんだ。体さえ治れば、これからいくらでもいい人生が待っているさ」 昔からそうだった。優花に何かを譲らせる時は、いつもこうして優しくしてくれる。 きっと優花にこの良い知らせを伝えたいのだろう。二言三言残して、両親は急いで出て行った。 二人の足音が遠ざかったのを確認して、一葉はやっと深いため息をついた。 ベッドの縁を掴みながら、ゆっくりと立ち上がる。 暖房が効いているはずなのに、氷水を浴びせられた一葉の体は震えが止まらない。 早くお風呂に入りたいのに、急ぎ足すら満足にできない体だった。 昔は風呂上がりに鏡を見るのが大好きだった。どこを見ても完璧な自分に惚れ惚れして。特に肌の綺麗さには自信があった。透き通るような白さ、なめらかさ。思わず自分で触れたくなるほどだった。 でも今は、鏡を見る勇気すらない。 千の傷跡——それすら、今の一葉の体を形容するには生ぬるすぎる。 もっと酷い。言葉では表せないほどに。 椿丘マンション...... 言吾はソファに身を沈め、ネクタイを緩めながら端正な顔に疲れを滲ませた。 優花は繊細な体質で、一度不安を覚えると一睡もできない。この数日間、ほとんど眠れていなかった言吾は、昨夜も彼女に付き添って徹夜し、今や頭痛に悩まされていた。 昨夜バーで酒ばかり飲んで何も食べなかったせいか、胃がキリキリと痛み始める。眉を寄せながら、「一葉、胃薬がどこにあるか分かるか?持ってきてくれ」 「それと、おかゆを作ってくれないか。胃が痛くて」 普段なら、彼が帰宅するや否や、一葉は駆け寄ってきて、あれこれと世話を焼いてくれるのが常だった。うるさいと言って制止するまで。 だが今日は、言葉が空気に溶けていくように、返事すら返ってこない。 整った眉がより一層寄り、苛立ちを帯びた声で「一葉?」 もう一度呼びかけても、やはり応答はない。 ちょうどそのとき、キッチンから家政婦の志麻さんが出てきた。 「一葉はどこだ?家にいないのか?」 志麻さんは言葉を詰まらせた。「......」 奥様が三ヶ月以上も家を空けているというのに、この質問は少々遅すぎるのではないか—— 一葉が戻っていないと知った言吾は、こめかみを強く押さえた。 退院したのに、家に帰ってこないとは。 三ヶ月以上も彼女の駄々を無視し続け、昨日は離婚を持ち出してきた彼女を突き放したというのに、まだ自分の非を認められないのか。 昨夜の出来事が脳裏をよぎる。彼女が自分と優花の仲を祝福するような言葉を投げかけ、執拗に離婚を迫ってきた場面。思い返すだけで頭痛が強くなった。 本当に限度を知らない女だ。 離婚なんて、言吾は一瞬たりとも本気にしていなかった。 離婚? 彼女に、そんなことができるはずがない。 あれほど自分に執着している女なのに。 携帯を取り出し一葉に電話をかけるが、どうしても繋がらない。LINEを送ろうとすると、驚くべきことに送信エラーの赤い感嘆符が表示された。 まさか......ブロックされたというのか? 傍らで様子を見ていた志麻さんは、電話もLINEも通じない状況を目の当たりにして、しばらく迷った末に口を開いた。 「奥様は今まで、どんなに遅くなっても必ずお帰りになられました。三ヶ月以上も帰らないなんて初めてです。もしかして、旦那様が奥様の心を深く傷つけるようなことを......」 言吾は一葉と優花の誘拐事件について厳重な口止めをしており、事件のことを知る者は極めて少なかった。 「女心というものは、一度完全に傷ついてしまうと、もう二度と戻ってこないこともございます。奥様があれほど旦那様を想っていらっしゃるのですから、少しは優しくしていただけませんでしょうか」 志麻さんは、椿丘で働き始めて以来、ずっと奥様が旦那様を待ち続ける姿を見てきた。 あの奥様が、本当に——胸が締め付けられるような思いだった。 言吾は無言のまま立ち上がり、上着を手に取って出口へ向かった。 「旦那様、奥様を迎えに?」志麻さんは急に表情を明るくし、「外でお食事なさいますか?それともロマンティックなフレンチでもご用意いたしましょうか?」 「迎えに行く?」言吾は冷ややかに嘲笑した。 志麻さんが「そうです、奥様を」と言い終わる前に、冷酷な声が響いた。 「そんな暇はない」 どうせいつまでも家を空けているわけにもいくまい。 いい加減、騒ぎ立てても無駄だと気付いたら、おとなしく戻ってくるさ。 ...... 父母の焦りようと、言吾と優花の親密さを見れば、すぐにでも離婚協議書が届くと一葉は思っていた。 だが一週間以上待っても、何の連絡もない。 とうとう一葉は弁護士に依頼し、ブロックを解除した言吾に離婚協議書を送信した。早期解決を望む一心で、追加メッセージまで送った。「明日にでも離婚できるなら、条件は柔軟に対応できます」 この結婚生活を一刻も早く終わらせたい。許容範囲内なら、多少の財産的損失も覚悟の上だった。 一週間以上の激務を終え、やっと一息つけた言吾のスマートフォンに、一葉からのメッセージが届いた。 開く前、彼の眉は少し上がり、どこか得意げな表情を浮かべていた。 ようやく自分の非を認め、許しを乞いに来たか、とでも言いたげに。 しかし、細部まで丁寧に作り込まれた離婚協議書を目にした途端、彼の表情は一変した。 この女は......本気で! 自分を本気で怒らせたらどうなるか、分かっていないようだな。 「どうかしましたか、言吾さん?」隣に座っていた染谷源(そめや みなもと)は、言吾の表情が一変したのを見て、思わず覗き込んだ。離婚協議書の文字を目にした瞬間、息を呑んだ。 「何でもない」言吾は苛立たしげに携帯をポケットにしまった。 一葉の今回の騒動は、長引きすぎている。度を超している。 言吾が黙々と酒を煽り続けるのを見て、源は少し考えてから切り出した。「言吾さん、女性には引く余地を作ってあげないと。奥様の立場も考えて、このままずっと放っておくのは......」 「藤堂家の次男坊、知ってますよね?そばにいた女の子、本当に可愛らしくて従順な子でした。どんな扱いを受けても、ずっと藤堂のそばに寄り添って、言われるままに尽くしていた。でも藤堂は彼女のことを眼中にも入れず、そうしているうちに、先日、他の男と結婚しちゃいました」 「藤堂は式場で泣き崩れましたよ。でも彼女は一度も振り返ってくれなかった。女性の心というのは、大事にしないと、一度冷めてしまったら戻らないものなんです」 源の言葉に、言吾は志麻さんの忠告を思い出した。 余計に苛立ちが増し、グラスを重ねる手が更に早くなった。 酔いが回る前、源の言葉にも一理あると感じていた。確かに、女というものは時にはプライドを保てる余地を作ってやる必要がある。 そう思い至り、一葉の住所まで送らせることにした。 退院後の居所は知っていた。ただ、これまでは彼女が自分から戻ってくるのを待っていただけだ。 ...... 離婚協議書を送信してから、一葉はスマートフォンを握りしめ、返信を待った。 だが、石を深い海に投げ込んだかのように、何の反応もない。 いらだちが込み上げてくる。 もう深水言吾というダメ男とこれ以上関わりたくなかった。 言吾に電話をかけようと一葉が思った矢先—— 酔いつぶれた言吾が誰かに支えられて、部屋に押し入ってきた。 一葉は凍りついた。 新しく変更した暗証番号を、どうやって知ったのだろう。 それに、もう離婚を決めているというのに、酔っ払って自分の家にも帰らず、なぜここに? 確かに先ほどまで連絡を取ろうと思っていたけれど、酔っぱらいと何を話せというの?見ているだけでうんざりする。 この瞬間の来訪など、まったく望んでいなかった。 彼が帰った後、消毒スプレーで部屋中を消毒しなければならないと思うと、休息時間を奪われることへの苛立ちが一葉の中で増した。 「一葉さん、何ぼーっとしてんの?早く言吾さんを支えてやれよ!」 三浦航(みうら わたる)——言吾の親友の一人が、まるで一葉を役立たずの廃物でも見るような目つきで言い放った。 「そりゃ言吾さんがこれだけ長い間あんたのこと好きにならないわけだよ。こんなんじゃ、誰だって好きになるわけないじゃん。 もともと取り柄のない女なのに、今じゃ言吾さんの面倒も見れないとか。生きてる価値あんの?」 一葉は昔の自分がどれほど軟弱で、人にこんな侮辱を受けても黙っていたのか分からなかった。でも、もう二度と——そんなことは起こらない。 「アンタの命が惜しければ、その口を慎みなさい」一葉は声を潜めて警告した。 航は目を見開いた。一葉からそんな言葉が返ってくるとは、明らかに予想外だった。 「お前、俺が誰だか分かってんのか?そんな口を......」 彼の言葉を遮り、一葉は嘲笑した。「お父さんの三浦明山(みうら あきやま)だって私に頭を下げて酒を注ぐのよ。家でも居場所のない私生児のアンタが、何様のつもり?」 「青山一葉、お前......まさか......」航は私生児という言葉に激しく反応した。 いつも自分を見下してきた相手から、こんな風に言われるとは思ってもみなかったらしい。怒りで言葉も詰まりながら、「俺は......俺は言吾さんの親友だぞ!」 一葉を見捨てるように言吾に言いつけてやる——そんな脅しが見え見えだった。 一葉は鼻で笑った。言吾という犬畜生すら眼中にないというのに、その取り巻きなど何の意味もない。 しかし、自分の体調を考え、これ以上言い争うのは避けた。「一分だけ猶予をあげます。この酔っ払いを連れて出て行きなさい。さもなければ不法侵入で通報します」 その言葉に、言吾を送ってきた一同は凍り付いた。 以前なら、酔った言吾を送り届けてくれた彼らに、一葉は心から感謝していた。言吾に自分の良い噂を伝えてもらい、少しでも多く家に帰ってきてくれるようにと、へりくだって機嫌を取ることさえしていた。 まして、言吾のことを「酔っ払い」呼ばわりして、追い出すなど——誰も信じられない様子だった。 「一葉、お前、正気を失ったのか......」 航が何か言いかけたとき、傍らにいた男が彼の腕を掴んだ。 「一葉さん、三浦さんの戯言はお気になさらないでください。酔った勢いで失礼なことを。言吾さんをお届けしましたから、あとは一葉さんにお願いします」 そう言うや否や、航を引きずるように連れ出していった。一葉が何か言う間もなく。 置き去りにされた言吾を見つめながら、一葉は顔をしかめた。 警察を呼んでこの厄介者を排除したい衝動に駆られたが、離婚の話し合いがこじれる可能性を考えると、それも躊躇われた。 吐き気を堪えながら、今夜だけの我慢だと自分に言い聞かせた。明日、離婚の話が終われば、部屋を徹底的に掃除すればいい。 立ち上がろうとした瞬間。 ソファーで泥のように横たわっていた男が、突然目を見開いた。