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朝倉蓮が初恋の人と結婚する―― 七年も彼のそばにいた白石苑は、泣くことも怒ることもせず、自ら彼のために盛大な結婚式を準備した。 彼の...

Chương (1)

第1章

朝倉蓮が初恋の人と結婚する―― 七年も彼のそばにいた白石苑は、泣くことも怒ることもせず、自ら彼のために盛大な結婚式を準備した。 彼の晴れの日、苑もまた、純白のドレスに身を包んだ。 長く続く大通り、向かい合うように進む二台のウェディングカーがすれ違う。 その瞬間、新婦同士がブーケを交換する。 その時だった。蓮は、苑が彼に向けて言った言葉を確かに聞いた。 「お幸せに」 蓮は驚愕し、そして走った。5キロもの距離を全力で追いかけて、ついに苑のウェディングカーに追いついた。 息を荒げ、彼女の手を掴んだその瞬間、彼の目からは涙が止めどなく溢れた。 「苑、お前は俺のものだ」 だが、車から降りてきた一人の男が、そっと苑をその腕の中に抱きしめた。 「彼女が君のものだって?じゃあ、俺のものは誰なんだ?」 第1話 白石苑(しらいし その)が辞表を書き終えたとき、ふと顔を上げて窓の外を見やった。 ビルの巨大スクリーンには、朝倉蓮(あさくら れん)と芹沢琴音(せりざわ ことね)の婚約ニュースが、もう七日間も繰り返し流されていた。 誰もが言う――朝倉蓮は芹沢琴音を心から愛している、と。 でも誰も知らない。苑が七年間も彼のそばにいたことを。 十八歳から二十五歳。彼女の人生で最も輝いていた時間を、全て彼に捧げた。 けれど、彼は別の人と結婚することを選んだ。 だったら、自分はこの舞台から静かに退場すべきなのだろう。 彼の結婚式の日から、蓮の世界には、もう「白石苑」という名前は存在しなくなる。 視線を戻した苑は、辞表をきちんと折りたたみ、白い封筒にしまった。 そのタイミングで、オフィスのドアが外から開かれる。 入ってきたのは――彼だった。 黒のシャツの襟元はラフに開かれ、同じ色のスラックスが長い脚を包んでいる。 歩くたびに風が吹くような雰囲気で、その存在感はまるで王者のように堂々としていた。 苑の脳裏に、彼と初めて出会った日のことがよみがえる。 あの時も、彼は同じ黒いシャツを着ていた。 バーの隅で一人酒を飲んでいた彼は、見るも哀れな捨て犬のようだった。 彼の家は破産し、飲み代すら腕時計を質に入れて作った。 苑はその時計を買い戻した――そして彼の心まで奪ってしまった。 だが、泥に落ちた蛟は、いつか再び空を舞う。 彼は再起を果たし、いまや帝都で名を馳せる男になったのだ。 「メッセージ送ったのに、返事がなかったな?」 静かな声が、彼女の手にある封筒に向けられた。 苑は封筒を握りしめながら、窓の外を指さした。 「社長と芹沢さんの結婚プロモを見ています」 彼の目元がすっと陰を帯びた。 「プロモって……あれ、お前が編集したやつだろ。まだ見る意味あるのか?」 ――そう、あのプロモーション映像は、彼女が作ったものだった。 そこに映る写真、甘い瞬間、そしてすべての「愛の言葉」。 それらは全部、苑が自分の手で選び、綴ったものだった。 あの時、蓮が苑にこう言ったのを、彼女は今でも忘れていない。 「この件はお前に任せる。琴音が他の人間だと不安がるからな」 彼と琴音が再会したのは三ヶ月前―― だけど、彼らの関係はもっと昔、学生時代から始まっていた。 七年前、琴音が海外へ旅立ち、同時に朝倉家は破産した。 そうして、ふたりは離れ離れになったのだ。 だが三ヶ月前、芹沢家が帰国。 蓮はすぐに琴音とよりを戻し、堂々とプロポーズをした。 苑は彼の傍に七年もいた。 誰もが当然のように、彼が彼女を選ぶと信じていた――彼女自身も、そう思っていた。 三ヶ月前、蓮が「好きな指輪を選んでこい」と言ったとき、彼女は当然、自分のサイズで選んだ。 ……なのに。 その夜、花火が空を埋め尽くした瞬間。 彼は苑に言った。 「その指輪、ちょうだい」 彼女が時間をかけて選んだその指輪を受け取った彼は、次の瞬間――琴音の前で片膝をつき、それを彼女の薬指にはめたのだった。 きらめく夜空に負けないほどの華やかな花火の中、蓮は琴音に囁いた。 「俺は七年、二千五百日以上待ってた。ひと時も、君を忘れた日はなかった」 その瞬間、苑の心は、空に咲いた花火のように派手に散っていった。 そして、もう二度と元には戻らなかった。 彼が言った「二千五百日」は、琴音のための日々だったのか。 でも、その間ずっと、彼のそばにいたのは苑だった。 仕事の支えも、酒に酔ったとき名前を呼んだ相手も、眠るとき抱いていた相手も――全部、彼女だったじゃないか。 ……だけどその問いは、彼女の中だけに留められた。 彼と琴音の結婚式、それが全ての答えだから。 七年も一緒にいたって、たった一度の初恋には敵わない。 それに、彼は一度も「愛してる」とは言ってくれなかった。 全部、自分で信じて、勝手に期待して、そして……ひとりで終わらせた。 だから、もう責めるつもりはない。 苑は混乱した想いをすっと胸の奥にしまい込み、静かに、けれど毅然と顔を上げた。 「朝倉社長、何かご指示でも?」 「今夜、芹沢家に一緒に行ってくれ。贈り物の用意、何が必要かはわかってるな」 それは、まるで仕事の指示みたいな無機質な言葉だった。 「了解しました」 苑は彼の秘書。頼まれれば断る理由なんてない。 蓮の深い眼差しがふいに彼女の顔を撫でるように流れた。 何かが、違う――けれど、それが何なのか、彼にも言葉にできなかった。 「白石、お前……」 口を開いたが、四文字言っただけで言葉が途切れる。 結局、彼が続けたのは―― 「最近、あまり笑わないな」 琴音のことで頭がいっぱいなはずの彼が、そんな変化に気づいていたことに苑は少し驚いた。 そしてすぐに、プロの笑顔を浮かべる。 「今後は気をつけます、朝倉社長」 「白石」 彼女の名前を、彼はやや優しく呼んだ。 「お前の今のポジションは、何があっても動かさない。来年には副社長として正式に昇進させるつもりだ」 ――小さな秘書から、社長の専属秘書、そして副社長へ。 それは、彼がこの七年間で彼女に与えてきた「立場」だった。 だが彼は、気づいていなかった。 彼女が欲しかったものは、最初からそんな肩書きではなかったことに。 ――ただ、「奥さん」として彼のそばに立つこと。それだけだった。 けれど、それは叶わぬ夢。 水の上に描いた月のように、手を伸ばしても掴めない幻想だった。 「ありがとうございます」 苑は微笑んで、その「昇進」を受け入れた。 七年間、彼が与えたものは全て受け取った。 彼がくれなかったものに、彼女は一度も手を伸ばさなかった。 なのに、蓮の胸には拭えない不快感が残った。 だからこそ、彼は視線を鋭くして言った。 「前提として、何ひとつミスをするな。特に、婚礼に関しては絶対に」 「ご心配なく。社長と芹沢さんの結婚式、完璧に仕上げてみせます」 苑は微塵の感情も表に出さず、プロとして言い切った。 彼は彼女の言葉に目を細めてしばらく見つめると、くるりと背を向けた。 だがその視線の端で、彼女の手元にある白い封筒がふと目に入る。 そして、ぴたりと足を止めた。 「その封筒……何だ?」 第2話 「辞表です」 苑は淡々と告げた。彼女は、彼にだけは嘘をつかない。 ――だって彼は、たとえ善意の嘘でも嫌う人だから。 蓮の表情がさらに険しくなる。 「これからは辞表は直接人事部に出せ。お前がやることじゃない……暇なら、お前の祖母の相手でもしてやれ」 バタン―― 重たいドアの音がオフィスに響いたと同時に、苑の顔から笑みが音もなく消えていった。 「朝倉……それ、私の辞表なんだけど」 夕方六時。 苑は蓮に付き添って芹沢家を訪れた。 車が止まった瞬間、琴音が白い犬を抱えて飛び出してきた。 彼女の瞳には、蓮への嬉しさと照れがあふれている。 ただ、腕に抱かれた犬だけは、まるで敵を見るように蓮へと吠え立てていた。 「Qたん、ダメよ。パパでしょ?」 その一言に、苑は思わず口元を引きつらせる。 蓮は犬や猫などの動物が苦手だ。いや――アレルギーを持っているからだ。 けれど次の瞬間、彼は手を伸ばし、犬の頭を軽くぽんと叩いた。 「Qたんか。俺に吠えたら、お前のママに出荷してもらうからな?」 その姿に、苑の胸がギュッと締めつけられる。 以前、彼女が飼っていた猫。 ずっとケージの中で育てていたのに、蓮が「毛が無理」と言って、手放させた。 あの時は「仕方ない」と自分に言い聞かせたけれど―― 今、彼は琴音の犬にまで優しい声をかけている。 ……そうか。 本当に好きな人のためなら、アレルギーさえも忘れるんだね。 「蓮、お父さんとお母さんが中で待ってるよ」 琴音は舞踊の道を歩んできた女の子。 スラリとした体にしなやかな声、その視線には自然な柔らかさがある。 女の自分ですら、彼女に見惚れてしまいそうになる。 ふたりはまるで恋人のようにぴたりと寄り添いながら、玄関へと入っていく。 その後ろで、苑は運転手と一緒に山ほどの贈り物を抱えてついていった。 今日のこの場は――婚礼に向けての打ち合わせ。 苑はソファの隅に座り、ノートを開いて淡々とメモを取っていた。 まるで、感情なんてどこにもないかのように。 だけど、心の奥ではちゃんと泣いていることなんて、誰も気づかないんだ。 完璧なまでに、職務に忠実。 「こちらで思いつくことは、すべてお伝えしましたよ」 琴音の父親がそう言った頃には、苑のノートはすでに一冊まるまる埋まっていた。 けれど、琴音の母親はまだ不安げに尋ねてきた。 「白石さん、全部ちゃんと書き留めましたか?抜けはありませんか?」 「お母さん、心配しないで。世間ではこう言うそうだよ――『蓮を得るは易し、苑を得るは難し』って」 琴音はにこやかに苑を見つめながらそう言って、わざとらしく蓮の腕にしがみつく。 「ねえ、蓮?彼女が優秀だからこそ、こんなにも長くそばに置いてるんでしょ?」 「白石は信頼できます。どうぞご安心ください、伯父さん、伯母さん」 蓮の目が、すっと苑に向けられる。 その視線には、一瞬の冷たさが宿っていた。 まるで、「失敗は許さない」と言わんばかりに。 確かに、琴音の言う通りだ。 苑は蓮の身の回りのこと、公私に渡るすべてを七年間支えてきた。 一度だって、彼女はミスをしたことがない。 誰が疑ってもいい。けれど、蓮だけは彼女を信じてくれなきゃいけなかった。 なのに、警告……? その瞬間、苑の胸の奥にあったぬるい痛みが、さらに深く冷たく沈んでいった。 「ねえ蓮、結婚式の日、白石さんにも私の付き添いをしてもらいたいの」 琴音は楽しげに笑いながら苑を見つめる。 「お願いできないかな?」 苑はその日、自分の予定があることを思い出して、静かに答えた。 「申し訳ありません。その日は先約がありますので……」 「えーっ、蓮、その日は白石さんに他の仕事をさせないでね?彼女にもドレスを着せて、私たちの幸せを一番近くで見守ってもらいたいの!」 琴音の声は甘やかで、けれどその奥に鋭利な刃を隠していた。 その一言一言が、苑の心を切り裂いていく。 ――まるで無邪気な顔をした暗殺者。 帰り道、車内は重苦しい沈黙に包まれていた。 蓮は疲れたようにこめかみを揉んでいたが、苑は黙って助手席に座っていた。 やがて、車が楓林園に到着すると、苑はきっちりと礼を整えて一言。 「朝倉社長、お疲れさまでした。おやすみなさいませ」 ドアに手をかけようとした、その時だった。 「……アレルギー出た。薬、取ってくれ」 蓮は無造作にネクタイを引き抜きながら言った。 その喉元には、赤い湿疹のような斑点が浮かび上がっていた。 第3話 「お医者さんを呼んだ方がいいと思います」 苑はきっぱりと言った。 それは――彼女が、彼に「NO」を突きつけた、初めての瞬間だった。 蓮の眉間に、深く皺が刻まれる。 そのまま、言葉も許さず彼女の手首をぐっと掴むと、強引に邸宅の中へと引っ張り込んだ。 バタン――! 扉が重く閉まる音が、静寂を切り裂いた。 「お前がふてくされてるなんて、俺にバレてないとでも思ってるのか?」 冷えた瞳が、まっすぐ彼女を射抜いた。 ……そうか、気づいてたんだ。 それでも、なお――彼は彼女を蔑ろにした。 胸の中で絞り出されたような苦味が、絞られたレモンの汁みたいに全身を駆けめぐる。 それはやがて、鼻の奥をツンと刺すような痛みに変わっていった。 「……七年、私の体だけは好きにして、いざ結婚するってなったら、何の言葉もなく終わりなの?……私、傷つくことすら許されないの?」 ただの「女」だったとしても。 もう要らないなら、せめて――一言、欲しかった。 それなのに彼は、何の説明もなく琴音との仲を世間に見せつけた。 まるで苑が、ただの秘書にすぎないかのように。 「……誰が『終わり』だって言った?」 蓮の声が低く響いた。 その手が荒々しくシャツの襟を引き裂く。 ボタンが飛び、シャツがはだけると、赤く腫れたアレルギーの跡が胸元に浮かび上がる。 その光景は、苑にとっては見慣れたものだった。 何度も彼の発作に対応してきた―― そのたびに、苦しそうな彼の体を冷やし、薬を塗り、支えてきた。 ……もう関係ない。 心の奥ではそう叫んでいるのに。 それでも、苦しむ彼の姿を見ていられなくて。 苑は、何も言わずに薬の入った引き出しを開けた。 苑の手――そして薬を持っていたその手は、次の瞬間、熱を帯びた蓮の掌に包み込まれた。 「お前を要らないなんて、一度だって言ったことない。 お前だって、俺から離れないって、そう言ってくれただろ? ……その言葉、忘れちゃいけないんだよ」 彼の声は低くて、まるで懇願のように優しかった。 ……覚えていたんだ。 あの時の、ふたりだけの約束を。 もう、彼の中では消えてしまったと思っていた。 だけど――そうじゃなかった。 昔、彼女が蓮を拾った夜。 彼の顔に一目惚れして、衝動的に連れ帰った。 あの頃は、何もなかった。 二人はボロアパートで、ただ食べて、寝て、愛し合って―― けれど、ある日ついにお金が底をついた。 そんな時、蓮は「仕事」を見つけてきた。 大通りの炎天下、巨大なパンダの着ぐるみを着て、子どもたちに愛想を振りまく「マスコット」。 稼いだわずかなお金は、彼女のために食事と飲み物を買うためだけに使われた。 ある日、蓮はそこで熱中症で倒れた。 その時、苑が泣きながら問い詰めた。 ――「どうしてそこまでして、命を削るの?」 彼は、息も絶え絶えの中で答えた。 「俺の女を……苦しませたくなかったんだ」 その一言が、彼女の心を攫った。 そして、七年間。何があっても彼だけを信じてきた。 彼女の友達が「そんなの都合のいい話だよ」と笑っても、苑はいつもこう言い返した。 ――「彼は、一生、私以外の誰とも結婚しない」 ……でも、現実は、そんな甘い言葉を粉々に打ち砕く。 彼は、今――別の誰かを、正式に妻に迎えようとしている。 「結婚するくせに……今さらそんなこと、言って……笑わせないでよ。バカみたいじゃない」 蓮の目に映った彼女の瞳は、天井の明かりを受けてキラキラと揺れていた。 「苑――本当に、俺が結婚したい相手は、お前だ」 そう言って、彼はもう一方の手をそっと伸ばし、彼女の頬に触れた。 「琴音との結婚の理由は……式の日が来れば、自然と明らかになるよ。 苑――お前は、俺の人生で一番暗かった時期を、一緒に乗り越えてくれた人だ。 ……お前の代わりなんて、この先誰にも務まらない」 蓮の漆黒の瞳は、まるで夜の底みたいに深くて、どこまでも沈んでいた。 「苑、俺とあいつの関係は、ただの『見せかけ』なんだ。どんな時だって、信じてほしい……愛してるのは、お前だけだ」 彼はそう言って、そっと彼女の手に口づける。 「お願いだから……俺を信じてくれないか?」 ……信じられるわけがない。 本当にそう思っているなら―― この七年間の間に、蓮は何度も彼女を「妻」にするチャンスがあったはずだ。 でも、そうしなかった。 だからこそ。 「蓮……」苑がようやく声を発しかけた、その瞬間だった。 ソファの上に置かれていた彼のスマホが鳴り出した。 画面に浮かぶ番号を見て、苑の顔色が変わる。 ――療養院からの電話。 ……まずい。 自分のスマホは車に置いたままだった。 この電話は、きっと自分宛てだ。ばあさんに何かあったに違いない。 慌てて電話を取り上げる。 「もしもし、私です、白石苑です……はい、すぐに向かいます」 電話を切った苑は、顔を上げて蓮を見た。 通話の中で、彼女の祖母が「蓮に会いたい」と何度も言っていた。 けれど――今、彼を連れて行くべきなのか。 それが、良いことなのか、もう彼女には分からなかった。 第4話 「苑、これはね、ばあさんがずっとあんたの嫁入りのために貯めてたお金よ。 蓮とついに結婚するんだから、これで必要なものを揃えなさい」 祖母は苑の手を握り、その手を蓮の手の中へと導いた。 そして、ふたりの手のひらの間に一枚のカードをそっと押し込んだ。 苑の瞳からは、とめどなく涙がこぼれ落ちる。 怖くて、祖母の顔をまともに見ることができなかった。 蓮の結婚の報道があちこちで流れているのだから、きっと祖母の目にも入っているはず。 けれど、物忘れが進んだ彼女は、当然のように「新婦」を苑だと信じて疑っていなかった。 「朝倉くん……ばあさんとの約束よ。苑を……大切にしてやって」 細い手で蓮の手をぎゅっと握りしめながら、祖母はそう願うように言った。 「ご心配なく。この一生、俺は苑を守ります。 俺たちは、生死を誓い合ったんです――この命尽きるまで、決して離れません」 蓮の言葉に、苑の心はまたズキリと痛んだ。 四年前―― 彼に連れられて出張したとき、ふたりは万仏山に立ち寄り、縁結びの石の前で「来世までの誓い」を交わした。 「俺は、お前の今生も来世も、すべてを欲しいんだ。 生まれ変わってもまた、お前と一緒になる――何度でも」 ――あのときは、本気だった。信じてた。 でも今、今世ですら、ふたりは終わってしまった。 やっぱり、誓いなんて破られるためにあるんだ。 約束なんて、簡単に裏切られるものだった。 「苑、朝倉くん……ふたりが結婚する日には、必ず私を迎えに来てちょうだいね。 この目で、ちゃんと見届けたいのよ」 「もちろんですよ、おばあさん。ちゃんとお迎えに行きます。 それに、式のときには、最初におばあさんにお辞儀してご挨拶しますから」 蓮の声は柔らかく、祖母の前ではもう「冷徹な社長」の面影などひとかけらもなかった。 ただの、「苑の恋人」だった。 療養院を出たあと、苑の胸はまるでスポンジが詰まっているように重苦しかった。 心の奥が、張り裂けそうに痛む。 「……朝倉。できないくせに、どうして約束なんてするの?」 結婚できないなら、なぜ「結婚する」と言うの? ばあさんを迎えに行く気もないくせに、なぜ「行く」と笑って言えたの? その問いかけに、蓮はスマホを見つめながら答えた。 画面には琴音からのメッセージ。 彼は指で返事を打ちながら、あっさりと言い放った。 「どうせすぐ忘れる。いま喜ばせておけばいい」 そうだったんだ。 祖母の前でのあの優しい言葉も――全部、ただの嘘だった。 「愛してる」「一生大事にする」「絶対に離れない」 彼がそう言ってくれたあの言葉さえも、全部。 「琴音が夜食を作って持ってきたんだ。俺、先に戻るよ……お前は後でタクシーで帰れ」 そう言いながら、蓮はスマホの画面を苑の前に突き出した。 隠すつもりもない。琴音からのメッセージを、堂々と見せてきた。 ――あまりに、誠実すぎる裏切り。 自分が「彼の女」だという自覚があったからこそ、 彼への愛があったからこそ、 その瞬間の優しさが、まるでナイフのように胸を裂く。 「……うん」 苑が返した言葉は、たった二文字。 それ以上、何かを口にしたら――涙が溢れてしまう気がしたから。 心はもう、とっくに壊れている。 けれど痛みだけは、なおも彼女を焼き続けていた。 胸をえぐるように、内臓すら焦がすような激しさで。 この三ヶ月、苑は人生で最も苦しい日々を味わってきた。 あと七日。 そのとき、蓮が彼女の「結婚」のニュースを目にしたら―― 果たして少しは、痛みを感じるだろうか? 蓮は去った。 車ごと、彼女を置き去りにしたまま、暗く深い夜の中へと。 「愛してる」と言いながら、彼は苑をこんな寒々しい夜の道に一人残した―― でも苑は、恋に盲目になるタイプじゃない。 琴音が戻ってきた瞬間、蓮の気持ちは彼女から離れていたこと、ちゃんと分かっている。 それでも、彼が「優しい嘘」を続けてくれたのは、苑がまだ「利用価値のある存在」だったからだ。 先週、彼が友人に電話で言っていたのを、苑は聞いてしまった。 「琴音が彼女に式を任せたいって言うから残してるけど、じゃなきゃ俺はとっくにクビにしてる」 彼が自分を手元に置いていたのは、琴音の機嫌を取るためだった。 手のひらの中にあるカードが、痛いほど食い込んでいた。 後ろを振り返ると、療養室の明かりがまだ灯っている。 その中に、曲がった背中の祖母の影が、ぼんやりと映っていた。 苑は孤児。 母は彼女を産んですぐに亡くなり、祖母がたった一人で彼女を育ててくれた。 二年前、祖母は末期の胃がんと診断された。 ここまで生きていること自体が、奇跡に近い。 祖母のたった一つの願い―― それは、苑が幸せになる姿を見届けること。 「花嫁姿の苑」をこの目で見ることだった。 だから、彼女は決意する。 祖母の願いを、どうしても叶えたい。 苑はスマホを取り出し、トークアプリを開いた。 一番上にピン留めされている相手。 その人に向けて、静かにメッセージを打ち込む。 ――「私と、結婚してくれませんか?」 第5話 「ねぇねぇ、聞いた?天城蒼真(あまぎ そうま)が結婚するんだって!」 「うそでしょ!?帝都のNo.1セレブが!?夜中にいきなり婚約発表とか、興奮して寝られなかったわ……一体誰と結婚するのか、めちゃくちゃ気になるんだけど!」 ――休憩タイム。 苑はコーヒーを淹れに行く途中、給湯室から聞こえてきた数人の同僚たちのテンション高めな噂話に、足を止めた。 ……天城蒼真。彼の名前を聞いて、苑の胸がふと揺れる。 何度か顔を合わせたことがあった。 けれど、そのどれもが偶然とは思えない「助けられた」場面ばかりだった。 たとえば、車のタイヤが途中でパンクしたとき、通りがかった彼がさっと手を貸してくれた。 あるいは、取引先との会食で相手が酒に酔って嫌らしい態度を取ってきたとき――彼は何も言わず、自然に彼女を連れ出してくれた。 おかげで商談もうまくまとまり、彼女の面目も守られた。 他にもいくつかあったけれど……もう全部は覚えていない。 ただ――彼女が彼に借りた「恩」は、確かにいくつもあった。 ――天城さんが結婚するのなら、お祝いを贈らなきゃ。 きっと彼は、苑のことなんて覚えていないかもしれないけれど。 「結婚って、いつなの?」 苑は何気ないふりでコーヒーを淹れながら、訊ねた。 「来週だよ。うちの朝倉社長と同じ日!」 カップを持った手が、ビクリと震えた。 熱いコーヒーが跳ねて、手の甲をじわりと焼いた。 「ごめん……話、続けてて」 苑はそれだけ言って、その場を離れた。 背後で、誰かがため息まじりにつぶやくのが聞こえた。 「なんで天城様の話してて朝倉社長出すかなあ……白石さんが可哀想でしょ」 「ほんとだよ、白石さんってあれだけ尽くしたのに、最後は他人の結婚式の裏方って……切なすぎる」 「はあ……男って薄情よね……でも天城様は違うよ?彼が結婚するのは、十年間片思いしてた女性なんだって」 その日の午後、苑のスマホが鳴った。 「今から、ちょっと付き合ってくれ」 蓮のその一言に、苑はすぐに答えた。 「……はい」 どこへ行くのかなんて、訊くまでもない。 どうせ訊いても、行くしかないのなら――もう、無駄な言葉は使いたくなかった。 進めていた引き継ぎのファイルを保存し、整えてから荷物をまとめ、苑は無言で蓮のあとに続いた。 車が停まったのは――芹沢家の前だった。 琴音がお姫様みたいに嬉しそうに走ってきて、勢いよく蓮の胸に飛び込んだ。 「蓮~!」 勢いよく蓮の腕に飛び込むと、彼の頬にぱちんとキス。 蓮はそれを当然のように受け入れ、優しい笑みを浮かべながら彼女の手を引いた。 「乗ろうか」 後部座席に乗り込んだ琴音は、前を向いた苑に向かってにっこりと微笑んだ。 「白石さん、私たち、今日ウェディングドレスの試着に行くんだ。 ついでに、あんたもドレス選んでおいてね。ほら、ブライズメイドのやつ」 ――ああ、そういうこと。 彼らの「幸せ」を、早いうちから見届けておけというわけか。 後部座席では琴音がすっかり蓮に身を預けていた。 細い身体は、まるで彼に溶けるように寄り添っていて―― 「蓮、見た?天城蒼真の婚約ニュース。 まさか私たちと同じ日に結婚するなんて、絶対わざとでしょ?目立ちたがりなんだから」 蒼真と蓮――ふたりとも名門の御曹司ではあるけれど、家柄では蒼真の方が一枚上。 彼の家は金も権力も兼ね備えた、まさに帝都の王家。 「気にしすぎだよ。その日、君が一番輝く花嫁になる。 誰にも霞ませなんかしないさ」 蓮の声は、限りなく優しかった。 苑は運転席のミラー越しに、その微笑を見ていた。 そういえば――最後に自分が、あの笑顔を向けられたのは、いつのことだったろう。 「蓮がいてくれて、本当によかった。 七年も遠回りしちゃって、すごく悔しいけど……でも、 蓮がずっと私を想ってくれてたこと、すっごく嬉しい。ありがとう」 琴音は、失われた七年間を、まるで自分の宝物みたいに語っていた。 苑はその言葉を、ただ静かに聞いていた。 胸の中では、またひとつ、小さな音を立てて何かが崩れた。 琴音はそう言うと、また蓮の頬に唇を寄せた。 その瞬間、苑は目をそらした。 ――もう、この人への想いは終わった。そう、自分に言い聞かせてきたのに。 それでも、まだ胸の奥に残っていた何かが、ずきりと疼いた。 「ねえ蓮、七年の間に、ほかの女の人と関係あったり……した?」 琴音の口から、そんな鋭い質問が飛び出した。 苑の心が、ピクリと揺れる。 手にしていたスマホを強く握りしめると、指先が白くなった。 思わず、もう一度ミラー越しに蓮の顔を見た。 彼も気配を察したのか、視線をそらさず、苑と目が合った。 そして、そのまま琴音のほうへ向き直り、優しく笑った。 「ないよ。噂なんて信じるな」 「ふふっ、でも仮にあったとしても、私は全然気にしないよ。男の人って、そういうのあるでしょ?……身体の欲とか」 琴音の「大人の余裕」を装った言葉は、あまりにも破壊力があった。 苑にはわかっていた。 あれは、「優しさ」でも「理解」でもない――ただの意図的な侮辱。 だって、琴音はずっと、苑の存在を見つめていたのだから。 「……この話はやめよう」 蓮が話を切り上げようとした。 けれど琴音は、それを許さなかった。 「どうして?もしかして、その女の人を本気で好きになっちゃったとか?」 「ないよ」 蓮ははっきり否定した。 「男にとって、身体と心は別物なんだ」 その言葉が、苑の心を鋭く切り裂いた。 蓮の中で、自分は「愛」ではなかった―― ただの「欲望の対象」だったと、はっきり言われたようなものだった。 たとえ、結婚してくれなくてもいい。 たとえ、愛されなかったとしても、まだ我慢できた。 ……けれど、彼女の「想い」を、「存在」を、そんなふうに踏みにじるなんて―― それは、侮辱だった。 第6話 「白石さん、自分の立場、分かってるよね?」 試着室でウェディングドレスに袖を通した琴音は、ようやく仮面を脱いで、本性をさらけ出した。 苑の心は、もうずっと前に麻痺していた。 「芹沢さん、朝倉が落ちぶれた時にあなたは離れて、今になって戻ってきた。あなたこそ、何様のつもりです?」 「だから何?蓮は私を愛してるの。だから私と結婚する。それに比べてあなたは?ベッドを共にして、一番どん底の時を支えたのに、それでも選ばれなかった」 得意げに、琴音は唇をつり上げた。 でも、それが事実だった。 苑は、張り合うつもりなんてなかった。男を巡って争うつもりもない。ただ、静かに問いかけた。 「……で?それをわざわざ私に言う意味、なんですか?」 「結婚式の後、あんたの顔は見たくないわ」 琴音は、あくまでもストレートだった。 苑はふっと笑った。まぶしいくらいに。 彼女は、去るつもりだった。でも、誰かに追い出される形ではなく、自分の意志で。 だからその「未来の奥さま」の期待は裏切って、挑発するように言った。 「その言葉、蓮から直接聞きたいですね」 「まさか……まだ蓮が自分を愛してるって思ってるわけ?」 琴音の目が鋭く光る。 いいえ―― あの人が、彼女の指からリングを引き抜き、それを琴音の指にはめたあの日。苑の中で、すべてが終わった。 「芹沢さん、そのドレスすごく素敵です。式当日、きっとお似合いですよ」 そう言い残して、更衣室をあとにした。 外に出ると、蓮がもう着替えを終えていた。濃い色のタキシード姿は、一段と凛々しさを際立たせて、無縁メガネの奥のまなざしは、あの日のまま――初めて出会った時と同じだった。 ――どうして、こんなに綺麗な人が存在するんだろう。 そんなことを思った、あの頃の自分が懐かしい。 今の蓮は、昔よりもっと洗練されてて、相変わらず目の保養だった。 でも、もし時を巻き戻せるなら。絶対に関わらなかった。近づきもしなかった。 過去は変えられないけど――未来なら、彼のいない未来にすればいい。 「気に入ったのがあれば、選べ」 蓮はそう言って、彼女の目の前に並んだウェディングドレスを指差した。 ――何のために?当日、結婚式をぶち壊すつもり? ……そんな幼稚な真似、するわけない。 「プレゼントがドレスだけって、ちょっと寂しくないですか?新郎もセットでくれます?」 苑は皮肉混じりに笑って言った。 蓮の表情が一気に冷える。 「白石、どういう意味だ?」 苑は目の前のドレスに手を添えて、ぽつり。 「急にね、私も結婚したくなったのです」 「お前……わざとだろ?俺は前にも――」 蓮が言いかけたところで、試着室の扉が開いた。 中から琴音が現れた。 高そうなウェディングドレスを身にまとったその姿は、まるで別世界の人みたいで、思わず苑は目を奪われた。 かつては自分もこんな風に、蓮の隣で真っ白なドレスを着る日を夢見た。 でも――それは夢。触れたら消える泡みたいなものだった。 「ねえ、蓮。私、綺麗?」 琴音は蓮の前で、まるで何の裏表もない少女のように笑った。 「……ああ。琴音が一番綺麗だ」 その言葉。かつて苑にもかけた言葉だった。 葉が一日で色を失うわけじゃないし、心が一瞬で冷えることもない。 少しずつ、少しずつ――蓮の言葉や仕草の一つ一つで、苑の心は確かに冷めていった。 「白石さん、どう?綺麗でしょ?あなたも早く選びなさいよ。結婚する時、蓮がまたドレスくれるかもしれないし」 琴音は笑いながら近づいてきて、苑の腕をつかんだ。 その瞬間だった。何か鋭いものが触れたように、ズキンと痛みが走る。 思わず反射的に腕を払った。 琴音の叫び声と同時に、彼女の体がぐらりと傾いた。 そのまま後ろへ倒れていく。 けど、倒れ際に苑の腕を掴み―― そのまま、ふたり一緒に床に崩れ落ちた。 「琴音!」 蓮の声が響いて、彼は琴音のもとへ駆け寄った。 そして、彼女をしっかりと受け止めた。 ……苑は、誰にも受け止められることなく、固い床に背中から叩きつけられた。 頭が床にぶつかり、鈍い音が響く。 その音は、まるで店中に響き渡ったかのようだった。 頭がぐわんぐわんして、視界がゆらゆら揺れる。 あのとき――琴音が言った言葉を思い出す。 「まさか、まだ蓮が自分を愛してるって思ってるわけ?」 答えは、ここにあった。 第7話 苑は運が良かったのかもしれない。あんな風に転んだのに、脳震盪すらなかった。 けれど、後頭部にはしっかりと大きなたんこぶ。触れればすぐわかるくらい、ぷくっと膨れている。 そのたんこぶを抑えながら、足元も見ずに歩いていたら――ガツン、と誰かとぶつかった。 「すみま……」 反射的に謝ろうとして、顔を上げた苑は、どこか見覚えのある顔に目を見開いた。 「……天城さん」 深いグレーのシルクシャツは軽やかで、身体にぴったりと沿った仕立てのパンツは、無駄のないラインを描いていた。肩から胸、腰にかけてのシルエットは洗練されていて、見る者を自然と圧倒する。 「ケガした?」 蒼真の視線は高い位置から、苑の頭を捉えていた。 彼は背が高い。苑の頭は、ちょうど彼のあごのあたりに届くかどうかという高さだった。 「大したことないです」 苑は一歩下がり、彼の手からそっと身を引いた。 蒼真は自然な動きでポケットに手を入れ、深くて底の見えないような瞳で彼女をじっと見つめる。 「手を貸そうか」 「平気です」 苑は再度きっぱりと否定した。その直後、ふと思い出したように口を開く。 「天城さん、ご結婚おめでとうございます」 蒼真の視線が、彼女の頭からゆっくりと顔に落ちた。ほんの一瞬、何かを押し隠すような光が、その瞳にきらめいた。 「そちらこそ」 ……そちらこそ? 何を祝ってるの。七年愛した男に捨てられて、他の女と結婚されること? でもまあ、彼女も結婚する予定はある。しかも同じ日だ。 そう考えると、確かに「そちらこそ」かもしれない。 苑は一瞬だけ蒼真を見上げて、軽く「では」とだけ言い、歩き出した。 今回の転倒事故のおかげで、休暇の許可が出た。 ちょうどよかった。この機会に、自分の持ち物を整理しようと思った。 今、苑が住んでいる家は――かつて、蓮と一緒に暮らしていた場所だった。 三ヶ月前までは、ふたりでここにいた。けれど蓮が琴音と付き合い始めてからは、彼は楓林園に引っ越してしまった。 ここは苑ひとりの小さな棲み処になった。 けれど、どこを見ても蓮の痕跡が残っている。 靴箱には彼の革靴が並び、ハンガーには彼のスーツがかかっている。 酒棚には、彼のお気に入りのグラスとボトル。 ソファには、彼がうたた寝する時に使っていたブランケットが無造作に置かれたまま。 この三ヶ月、苑はそれらに一切手をつけなかった。 まるで、それらを動かさずにいれば――蓮がまた帰ってくるんじゃないかと、そんな幻想にすがるように。 でも、苑には分かっていた。 その幻想は、現実にはならない。 蓮のすべては、もう彼女のもとには戻らないのだと。 だから、彼のものはそのままにしておいて、自分のものだけを整理することにした。 洋服や靴、生活用品はもちろん、部屋に飾っていた絵や小物まで、すべて箱に詰めていった。 そんなとき、蓮が突然現れた。 彼は玄関を入った瞬間、何かが違うと感じた。 でも、それが何かすぐには言葉にできなかった。 琴音と付き合ってから、この家には一度も来ていない。 それなのに、どこか他人の家に足を踏み入れたような――妙な距離感があった。 「……ご用件は?」 苑は驚いたように眉を上げたが、すぐに冷静な声に戻す。 「それとも、芹沢さんに何か頼まれました?」 蓮は彼女の顔をまっすぐ見つめた。 青白い頬に、痛々しい痕跡。 「……ケガ、どうだ」 今日、ドレスショップで転んでケガをした彼女は、ひとりで病院へ行った。 ――なぜなら、彼は琴音を抱きしめていたから。 怯える琴音を、真っ先に守ったから。 「……死んでませんから」 苑の声は冷たく乾いていた。 神様じゃない。感情のないロボットでもない。 たとえ、彼に未練も哀れみも求めていなくたって―― それでも、彼女の心はまだ動いていた。 一緒に、ゼロからここまで歩いてきた。 たとえ愛がなかったとしても、共に戦ってきた絆はあったはずだ。 それなのに、あの日――苑が怪我をしたとき、蓮は彼女をひとりで病院に行かせた。 そんな蓮が、突然彼女を強く抱き寄せてきた。 頭に触れるように手を伸ばし、髪を掻き分けてきた指先が、まだ腫れの引かないたんこぶに触れた。 ズキン、とした痛みに思わず体を引っ込め、苑は反射的に彼を突き飛ばした。 「こんなに腫れてるのに、なんで放っておくんだよ」 再び腕を掴んで引き寄せながら、蓮は真剣な顔で言った。 「病院行くぞ」 苑はすぐに距離を取って、皮肉っぽく笑った。 「先生に言われたの。中は血が溜まってるって。じゃあ病院で血でも抜いてくれる?」 これは「血腫」だ。放っておけば少しずつ吸収されていく。 蓮の目に、一瞬だけ哀しみの色が宿った。 「苑……今日のことは、本当に……俺、わざとじゃなかった。ただ、あの時は一瞬で判断するしかなくて……」 ただ一人しか救えなかったから、愛してるほうを選んだ。 言葉にはしなくても、苑にはわかっていた。 そう――人は、咄嗟の選択こそが本音を映す。 彼女にとっては、それがすべてだった。 「婚約者でしょ。あなたが彼女を守るのは当然です」 下を向いた苑の目に、どうしてもこぼれそうな涙が溜まっていた。 「苑……俺は……」 蓮が何か言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。 ちらっと画面を見て、無言でマナーモードに切り替える。 「苑、今日はもうゆっくり休め。結婚式の準備は他の人に任せた。 でも――前日と当日、だけは……来てくれ」 第8話 蓮は苑に「休め」と言った。 けれど、苑は休まなかった。 まだ、終わらせなければならないことがたくさんあった。 彼女は会社に行き、ひとつひとつの業務を片づけていった。 引き継ぎの資料、契約書の整理、蓮の重要案件のログ――すべてをきっちり分類して、完璧に整えた。 その日の昼、社内の給湯室で、同僚たちの噂話が耳に入ってきた。 「聞いた?朝倉社長、結婚式のために帝都中の電子広告スクリーンを買い取ったんだって。全部で生中継するらしいよ!」 次の日。苑は、蓮の住んでいた部屋に置いていた自分の持ち物をすべて荷造りした。 そして、それらをボランティア団体に預けて、必要な人に届けてもらうよう依頼した。 その現場で、ボランティアたちの会話がふと聞こえてきた。 「天城家、すごいよね。天城様の結婚祝いで、帝都全体に宴を振る舞うって。しかも、ご祝儀は一切不要なんだって!」 三日目。苑はひとり、万仏山を訪れた。 そこにある縁結びの石には、かつて苑と蓮が刻んだふたりの名前があった。 彼女は六時間かけて、その文字をひとつずつ、指の力だけで削り取っていった。 削り終えたとき、指先には血が滲んでいた。 帰宅後、テレビをつけると、蓮と琴音の合同インタビューが流れていた。 蓮は、カメラの前でこう言った。 「きっと、みなさんの記憶に残るような、斬新な式にします」 そして、四日目――婚礼の前日。 苑は式のリハーサルを見に、会場まで足を運んだ。 華やかな会場には、琴音と蓮が並び立っていた。 琴音は、苑を見つけると、満面の笑みで、彼女をステージに上げるよう招いた。 「白石さん、明日、私のすぐ後ろに立っててくださいね、ブーケを投げるから、後ろでちゃんと受け取ってね。 そうすれば、私の幸せがあなたにも届くわ。きっと素敵な人に出会えるから」 苑は、言われた通りにステージの後ろに立った。 彼らのリハーサルを、黙って見届ける。 蓮が琴音に愛の誓いを捧げ、指輪をその指にそっとはめるのを見た。 琴音が目を閉じ、顔を上げてキスを待つのも見た。 でも――蓮はキスをしなかった。 代わりに、苑の方を見た。 そこには、穏やかで落ち着いた表情の苑がいた。 感情を押し隠すのではなく、心から静かな瞳で、彼らを見ていた。 その姿が、まるで知らない誰かのように思えて、蓮の胸にざわついた何かが生まれた。 言葉にできない違和感。 説明のつかない不安。 そして、心の奥に沈む、焦りのようなもの―― 「……今日はこれで終わりにしよう。ちょっと疲れた」 そう言って、蓮はキスをしなかった。 もし、苑がその瞬間を見ていたなら。 たぶん、彼女の心はもっと確実に、完全に――壊れていたかもしれない。 でも今日見なかったなら、明日ももう見られない。 だって苑は、もう明日ここに来ないのだから。 「蓮……」 琴音は不満げに唇を噛む。 彼女は、苑の目の前で蓮と甘く絡み合いたかった。 その姿を見せつけることで、苑の中の未練を完全に消し去るために。 「白石、ちょっと来い」 蓮が琴音の言葉をさえぎるように、苑を呼んだ。 「何かご指示でしょうか、朝倉社長」 苑の声は、完璧に事務的だった。 蓮は黙って、自分の首元のネクタイを外した。 何かを言いたげに苑を見つめたが、結局何も言えず、そのネクタイを彼女に投げ渡した。 「これ、替えといてくれ」 そのとき、琴音が苛立った様子で蓮のネクタイをひったくり、苑に冷たい声を浴びせた。 「明日はもう来ないで。あんたなんか、式にいてほしくない」 蓮がキスをしなかった――それは、間違いなく苑が原因。 そう確信した琴音は、さっきの蓮の視線を思い出して、胸がざわついた。 最初は、苑に自分たちの幸せな姿を見せつけて、諦めさせるつもりだった。 でも今は、彼女が式に現れるのが怖い。 彼女がいれば、何かが起きそうでならなかった。 そんな琴音の動揺を、苑は見逃さなかった。 ふっと口元に笑みを浮かべる。 「じゃあ、あなたの式には一人、付き添いが足りなくなりますね」 「そんなの関係ない。とにかく、明日来ないで。来たら後悔させてやるから」 琴音の目は敵意でぎらついていた。 あの日、ドレスの試着で自分がまんまと彼女に仕組まれたことを思い出しながら、苑はふっと微笑んで、小さく頷いた。 「分かりました。でも、ひとつだけ言いたいことがあります」 「……なに?」 苑が指をくいっと曲げて合図すると、琴音は警戒しながらも、数歩だけ前に出た。 その瞬間だった。 苑は片手で琴音の腕を引き寄せ、もう片方の手で彼女の腰に何かを突き立てた。 「っ……!」 ビクリと体を震わせ、琴音の目が大きく見開かれる。 「芹沢さん」 苑の声が、それをかき消すように強く響く。 「あなたと朝倉社長が末永く幸せでいられるよう、そして早くお子さんに恵まれますよう、心からお祈りしています」 苑が一言ずつ発するたびに、琴音の腰に刺さる細い針―― あの日、琴音が苑に仕掛けた、鋭く冷たい報復だった。 第9話 【明日の結婚式、まだやるつもり?】 深夜、苑のもとに一通のメッセージが届いた。 苑は、隣で眠る祖母をそっと見守りながら、返信を打った。 【住所を送る。明日、私とおばあさんを迎えに来て。でも、もし後悔したなら来なくていい】 【明日、必ず迎えに行く。俺の花嫁さん!】 画面に浮かぶその言葉を見て、苑の胸がひりひりと痛んだ。 自分も、明日――新婦になる。 ただし、迎えに来るのは、顔も知らないネットの知り合い。 愛に狂ったわけじゃない。 ただ、祖母を悲しませたくなかった。心配させたくなかった。 それに、十年―― 画面越しに支え合い続けた十年の歳月は、何よりも重かった。 人生において、十年を一緒に過ごしてくれる人が何人いるだろう。 それだけで、苑には十分だった。 そんなとき、蓮からの電話が鳴った。 時刻はすでに、夜中の十二時をまわっていた。 苑は祖母を起こさないよう、外へ出て電話に出た。 「社長、何かご指示でも?」 事務的な口調で応じながら、苑は内心苦笑した。 最近、彼に対して発する言葉はこればかりだった。 電話口の蓮は、重く息を吐いた。 「……どうして家にいないんだ」 今日は、なぜか無性に落ち着かなくて。 車を飛ばして、苑と六年以上も過ごしたあの家に戻ってきた。 けれど――そこには、苑の気配がなかった。 ベッドはきちんと整えられ、まるで誰も使っていないみたいに冷たかった。 苑は、彼のいる場所を察しながら、静かに答えた。 「おばあさんのところに来ています」 蓮は、真っ暗な部屋を見つめていた。 さっき入ってきたとき、彼はあえて灯りをつけなかった。 彼女を起こしたくなかったから。 でも今は――違った。 灯りをつけたくなかったのは、自分のためだった。 限りないこの暗闇の中にいるほうが、 かろうじて心が落ち着く気がしたのだ。 「……どうして向こうに?」 その問いに、苑はすぐに答えなかった。 けれど、彼の問いかけだけで、すぐに分かった。 ――蓮は、彼女の荷物がもうここにないことに、気づいていなかった。 結局、彼は最後の最後まで、彼女を本気で気に留めることはなかったのだ。 もし――もし蓮が、少しでも彼女に心を向けていたら。 クローゼットに彼女の服がないことに気づいただろう。 洗面所に、彼女の歯ブラシも化粧品も消えていることに。 あの家から、苑の痕跡がすっかり消えていることに―― でも、蓮は何も気づかなかった。 それでいい、と苑は思った。 だからこそ、明日。 彼女は、すべてを終わらせることができる。 「……明日、おばあさんと一緒に式場に行くって言いましたよね?」 苑は、そう答えた。 電話の向こうで、蓮が短く沈黙する。 数秒後、低い声で言った。 「明日の朝、迎えに行かせる」 「いいえ、私が連れて行きます。明日は忙しいでしょう?」 苑は、できる限り穏やかに、気を遣うように返した。 「苑……」 蓮は、押し殺したような声で彼女を呼んだ。 「明日は……必ず来てほしい。わかるな?」 「どうして、私じゃないとだめです?」 苑は夜空を見上げた。 満天の星が、まるで降ってくるかのように煌めいていた。 こんなにたくさんの星を見たのは、いつ以来だろう。 電話口の蓮は、かすかにため息をつく。 「……約束してほしい。明日来てくれれば、理由はそのとき話す」 でも。 苑はもう、明日にはいない。 蓮の未来にも――もう、自分はいない。 だから、理由なんて知りたくなかった。 「朝倉」 苑は、静かに、でもはっきりと彼の名前を呼んだ。 声には、もう怒りも悲しみもなかった。 「お幸せに」 その言葉を聞いた瞬間、蓮はふいに泣きたくなった。 言いようのない、胸の奥をえぐるような感覚。 彼は顔を両手で覆い、ぐしゃぐしゃに揉みしだいた。 「その言葉、明日、俺の目を見て言ってくれないか」 ……それは、琴音に向けた、何かの「証明」だったのかもしれない。 苑は、もう考えたくなかった。 夜風は冷たく、肩をすくめるほどだった。 「……眠いから、もう切るね」 苑は、そう言ってそっと電話を切った。 そして、満天の星空に目を閉じる。 頬を伝ったひとしずくの涙が、静かに夜に消えていった。 ――朝倉蓮。 これが、あなたに流す最後の涙。 第10話 昨晩の星空があんなに綺麗だった分、今朝の太陽も負けないくらいキラキラしていた。 苑は、陽光のまぶしさに目を覚ました。 目を開けると、窓辺に座る祖母が微笑んでいた。 「苑、肝が据わってるねぇ。今日結婚するっていうのに、よくそんなにぐっすり寝られるもんだ」 苑はふにゃっと笑い、祖母の掌に顔を埋めた。 「……だって、眠かったんだもん」 「もう眠ってる場合じゃないよ。ほら、迎えの車が来てる!」 祖母に促され、苑は顔を上げた。 指さされた窓の外を見ると、ずらりと並んだ黒塗りの高級車たちが、療養院の前を埋め尽くしていた。 まさか、本当に―― あの、顔も知らないネットの知り合いが、迎えに来たの? まだ実感が湧かないまま部屋を出た苑は、外の光の海に立つ男性を見た。 深い色のオーダースーツは完璧に体にフィットし、カフリンクスはダイヤモンドのような輝きを放っている。 頭の先から足元まで、纏う空気がまるで違った。 圧倒的な、王者のような存在感。 「……何してるんだい、早く行きな!」 祖母の声に押されるように、男性がゆっくり振り返る。 その顔を見た瞬間、苑の胸はドクンと跳ねた。 「……あなた、なの?」 心臓が、二拍、いや、それ以上に大きく跳ねた。 ――そして、時計は9時59分。 帝都の中心、中央大通り。 東西に伸びる二本の超広幅道路に、二列の豪華な婚礼車列が走り出した。 ひとつは、天城家――蒼真のもの。 もうひとつは、朝倉家――蓮のもの。 帝都で最も尊いふたり。 ひとりは権力の頂点に立つ男、ひとりは財力で頂点に君臨する男。 そんなふたりが、同じ日に結婚式を挙げるとあって、数えきれないほどのメディアが徹夜でカメラを構え、 全国民に向けてライブ配信を開始していた。 どちらの車列もまるで龍のように連なり、遠目には先も後ろも見えないほど。 見た目だけでも、車の数は百台を超えていた。 一台一台がリボンと飾りを纏い、陽光すらも鮮やかく染め上げていた。 やがて、東西から走ってきた二つの婚礼の列は、中央広場で交差する。 そこで、花嫁たちはそれぞれブーケを交換するのだ。 ――お互いの幸せを祈るために。 だが、天城家の婚礼については急な発表だったため、誰も新婦の顔を知らなかった。 だから今、すべての視線とカメラが、蒼真と彼の新婦の車に集中していた。 ――その扉が開く瞬間を、誰もが息を呑んで待っていた。 ただ一人、全く興味を示さない男がいた。 ――蓮だった。 昨夜、苑と電話を切ったあと、どうしても眠れなかった。 体がふわふわと浮いているようで、心ここにあらずだった。 蒼真が誰と結婚しようが、正直どうでもよかった。 ただ――苑が、今日、式場に来るのかどうか。それだけが気がかりだった。 琴音を迎える直前まで、彼は苑の姿を見つけることができなかった。 苑なら、仕事に遅れるなんてあり得ない。 なのに、彼女は現れなかった。 何度も電話をかけたが、繋がらなかった。 仕方なく、人を送って探しに行かせたが―― 「療養院には、もう誰もいませんでした」 報告を聞いたとき、胸がざわついた。 その後もニュースをチェックしたが、事故の情報はどこにもなかった。 一方、場は進んでいた。 期待に満ちた視線が集中するなか、蒼真側のウエディングカーがゆっくりと窓を下ろした。 白いヴェールに隠れた花嫁の顔が、少しだけ覗く。 カメラマンたちはすぐさまズームインし、ハイビジョンモードで連写を始めた。 琴音は、その顔をはっきり見た。 機材なんて必要ない距離だった。 ――あの顔。 あまりにも見覚えがありすぎて、心が震えた。 白石苑――?! どういうこと? 目の錯覚かと思った。 けれど、彼女は確かに、そこにいた。 しかも、ウェディングドレスを着て。 苑は静かに手に持ったブーケを差し出した。 琴音は、機械仕掛けのように手を伸ばした。 口が小さく震え、何かを言いたそうにしている。 でも、言葉にならない。 「お幸せに」 苑は、琴音の震える手に、そっとブーケを渡した。 静かに、そしてはっきりと―― すべてを終わらせるように、祝福の言葉を添えて。 過去に、何があったとしても。 今日、この瞬間ですべてが終わった。 蓮も、琴音も。 愛も、憎しみも。 苦しみも、後悔も。 すべて――この日を境に、過去へと置き去りにする。 そのとき。 「お幸せに」 その声を―― 蓮は、確かに聞いた。 苑の声。 なぜ、ここで。 うつむいていた蓮は、まるで電流が走ったように身体を震わせた。 次の瞬間、反射的に顔を上げた。 必死に、視線を探す。