夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!

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夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!

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夫の初恋の人は、もう助からない病気にかかっていた。 夫の神谷雅臣(かみや まさおみ)はよく星野星(ほしの ほし)に向かってこう言った。「...

Chương (1)

第1章

夫の初恋の人は、もう助からない病気にかかっていた。 夫の神谷雅臣(かみや まさおみ)はよく星野星(ほしの ほし)に向かってこう言った。「星、清子にはもう長くはないんだ。彼女と張り合うな」 初恋の人の最期の願いを叶えるため、雅臣は清子と共に各地を巡り、美しい景色を二人で眺めた。 挙句の果てには、星との結婚式を、小林清子(こばやし きよこ)に譲ってしまったのだ。 5歳になる星の息子でさえ、清子の足にしがみついて離れなかった。 「綺麗な姉ちゃんの方がママよりずっと好き。どうして綺麗な姉ちゃんがママじゃないの?」 星は身を引くことを決意し、離婚届にサインして、振り返ることなく去っていった。 その後、元夫と子供が彼女の前に跪いていた。元夫は後悔の念に苛まれ、息子は涙を流していた。 「星(ママ)、本当に俺(僕)たちのこと、捨てちゃうのか?」 その時、一人のイケメンが星の腰に腕を回した。 「星、こんなところで何をしているんだ?息子が家で待っているぞ。ミルクをあげないと」 第1話 午前1時。 星野星(ほしの ほし)は、小林清子(こばやし きよこ)のインスタをたまたま見てしまった。 「神谷さんと翔太くんからのプレゼント、ありがとう。マグカップは、翔太くんの手作りなんだって」 星は写真を開いた。 ネックレスと手作りのマグカップが、彼女の目に飛び込んできた。 マグカップには、「ママ、誕生日おめでとう」という文字が刻まれているのが、うっすらと見えた。 星は、テーブルの上に置かれた冷めた料理と、ロウソクに火も灯されていない誕生日ケーキに視線を落とし、自嘲気味に微笑んだ。 星は、少し前にスマホに届いたニュースを思い出した。 【スクープ!この街の社交界で有名な貴公子、神谷雅臣(かみや まさおみ)は、なんと既婚者で、5歳になる息子がいた!】 写真には、長身でハンサムな男と、細身で美しい女が、5歳くらいの男の子の手を引いて遊園地を歩いている姿が写っていた。 清子は神谷翔太(かみや しょうた)の頭を優しく撫で、雅臣は彼女をじっと見つめていた。彼の視線は、かつてないほど優しく、温かい。 美男美女と、雅臣にそっくりな男の子。まるで、幸せな家族のようだった。 今日が彼女の誕生日だった。 そして、雅臣との結婚5周年記念日でもあった。 しかし、誕生日を迎えているのは、彼女ではなく清子のようだった。 夫と息子は、彼女の誕生日に清子と過ごし、本来彼女に贈るはずのプレゼントを、清子に渡してしまったのだ。 星は、特に驚かなかった。彼女は、すでにこのような仕打ちに慣れてしまっていた。 清子は、雅臣の初恋の人だった。彼女は助からない病気にかかっていて、余命1年を宣告されていた。 死ぬ前に、もう一度雅臣に会いたいというのが、彼女の最後の願いだった。 雅臣は、清子のためにできることをしてあげたい、どうか理解してほしいと言った。 星は理解したくなかったが、彼を止めることはできないと分かっていた。 あれほど真剣な表情で話す雅臣を見るのは初めてだったからだ。 胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな痛みが全身を締め付けた。 どれくらい暗闇の中に座っていたのだろうか。玄関の方から、ドアが開く音が聞こえてきた。 雅臣が、翔太を連れて入ってきた。 ダイニングにいる星を見て、雅臣は明らかに驚いた様子だった。 彼は今日が何の日か忘れてしまっているようで、不思議そうに星を見つめた。 「どうしてまだ起きているんだ?」 星は静かに言った。「あなたと話がしたいの」 雅臣は眉をひそめ、翔太を見た。 「翔太、先に2階に行って休んでいろ」 翔太は目をこすり、あくびをしながら星の横を通り過ぎた。 何かを思い出したように、翔太は足を止めた。 「ママ、誕生日おめでとう」 翔太は、雅臣とそっくりな美しい目で、星を見上げた。 「ママの誕生日を忘れたわけじゃないんだ。僕たちは、ずっと一緒にいられるけど、きれいな姉ちゃんには、もう半年しか残されていないから…… こんなことで怒らないよね、ママ?」 誕生日に忘れられるのと、覚えていながら無視されるのと、どちらが辛いのか。星は分からなかった。 翔太が去ると、重い沈黙が流れた。 雅臣が口を開き、沈黙を破った。 「俺と、どんな話がしたいんだ?」 白いシャツに黒いスラックスを身に着けた男は、まるで絵から出てきたかのように美しく、雪のように冷たい雰囲気を纏っていた。 まるで、夜空に浮かぶ、冷たく遠い月のように。 冷淡で、近寄りがたい雰囲気だ。 星は深呼吸をして言った。「雅臣、離婚しよう」 雅臣の瞳に、わずかな動揺が走った。 しかし、すぐにそれは消え去った。 「星、誕生日のことは忘れない。プレゼントも、ちゃんと用意してある」 「プレゼント?」星は冷笑した。「私の母のネックレスは、小林さんにあげたんだろう?」 そのネックレスは、亡くなった母の形見だった。 息子の翔太を産んだ日に、彼女はそれをなくしてしまったのだ。 雅臣は、必ず見つけると約束していた。 ネックレスは見つかったが、彼はそれを清子にあげてしまったのだ。 雅臣は、悪びれる様子もなく、ただ、彼の普段よりも暗い瞳が、星を見つめていた。 「あのネックレスは、清子に貸しただけだ。しばらくしたら、お前に返す」 「しばらくしたらって、いつのこと?彼女が死んだ後ってこと?」星は聞き返した。 「星!」普段は冷静沈着な彼が、珍しく声を荒げた。 「いい加減にしろ」 いい加減にする。本当に、いい加減だ。 夫の心が自分に向いていないこと、息子が懐かないこと、そして義理の両親に蔑まれる日々にも、もううんざりだった。 雅臣は言った。「清子には、もう半年しか時間がないんだ。翔太でさえ、優しくしているというのに、なぜお前だけがそんなに意地悪なんだ?」 この時、星はもう我慢するのをやめた。 冷たい声で、彼女は言った。「彼女にどれだけの時間があろうと、私に関係ないだろう?彼女は私の家族でも何でもない。どうして私が彼女に我慢しなければならないの?」 今まで従順だった星から、こんなひどい言葉を聞かされるとは、雅臣は思ってもみなかったようだ。 彼の瞳は、まるで氷のように冷たくなった。「星、俺たちは合意したと思っていたんだが」 星は冷笑した。「彼女が初恋の思い出に浸りたいからって、私はあなたと彼女が再び恋を始めるのを見守らなければならないの? 彼女が結婚気分を味わいたいからって、私が半年かけて準備した結婚式を彼女に譲ったの? 私が何もできないとでも思って、目の前で、あなたたちは翔太の手を引いてバージンロードを歩くの? 彼女が世界中の美しい景色を見たいからって、あなたは彼女を世界一周旅行に連れて行った。 彼女が月が欲しいと言えば、あなたはなんとかして取ってきてあげたんだろうね?」 星と雅臣は5年間、秘密裏に結婚生活を送っていて、結婚式は挙げていなかった。 ある日、翔太がウェディングドレス姿のママを見てみたいと言い出したので、雅臣は結婚式を挙げることに決め、星に準備を任せた。彼女の好きなようにやっていいとまで言ったのだ。 星が半年かけて入念に準備を進めていた結婚式は、清子の一言で奪われてしまった。 雅臣の視線は冷たくなった。「星、お前はやりすぎだ」 やりすぎ…… 星は胸が詰まり、失望のあまり目を閉じた。 結婚して以来、彼女は妻として、母として、完璧であろうと努力してきた。 しかし、どんなに努力しても、雅臣は彼女によそよそしかった。 彼女は、彼がそういうクールな性格なのだと考えていた。 しかし、彼の初恋の人が現れて初めて、いつも冷静沈着な雅臣の中に、あんなにも熱い想いが秘めていたなんて、彼女は知ったのだ。 彼女はテーブルの上に置いてあった、すでにサイン済みの離婚届を手に取った。 「私はもうサインしたわ。あなたも早くサインして。清子が生きているうちに、彼女を正真正銘、あなたの奥さんにしてあげたら、きっと喜ぶわ」 雅臣は唇を固く結び、その端正な顔が凍りついたように見えた。 それは、彼が非常に不機嫌であることを示していた。 「翔太はどうするんだ?」 星は小さな声で言った。「あなたたちに任せる」 彼が何かを言おうとしたその時、彼のスマホが鳴った。 「雅臣、大変!清子が急に倒れて、救急車で運ばれたの!」 第2話 雅臣は眉間に皺を寄せ、「すぐ行く」とだけ言うと、 星を振りかえって見ることもなく、早足で部屋から出て行った。 星は、無表情で彼の背中を見送った。 こんな真夜中に清子の「危篤」の連絡を受けて、彼が家を出て行ったのが何度目なのか、彼女にはもう分からなかった。 …… 翌朝、星はスーツケースを引き、家を出ようとしていた。 翔太の部屋の前を通りかかった時、星は思わず足を止めた。 しばらく迷った後、離れる前に、彼女は翔太に会うことにした。 翔太は早産で生まれた。 そのため、翔太は生まれつき体が弱かった。 だから、星は翔太に関することなら何でも自分でやろうとして、人には頼らなかった。 翔太は雅臣にそっくりで、冷淡な性格まで彼に似ていた。 今日は週末で翔太は学校が休みだったから、部屋で宿題をしていた。 星が部屋に入ってくると、彼はいつものように「ママ、おはよう」と挨拶し、また宿題に集中した。 星は、翔太の雅臣にそっくりな横顔を見ながら言った。「翔太、私は行くわ。元気でね」 翔太は顔も上げずに「うん」とだけ答えた。 清子が現れてから、翔太は星によそよそしくなっていた。 清子はインスタに、ある動画を投稿していた。 動画の中で、翔太は綿菓子を食べながら、こう言っていた。 「僕はきれいなお姉ちゃんと一緒にいるのが好き。色んな美味しいものがたくさん食べられるから」 清子が尋ねた。「翔太くん、お母さんはあなたのことを可愛がってくれないの?」 「ママはいつも口うるさいんだ。あれもしちゃダメ、これも食べちゃダメって」 「じゃあ、翔太くんは、お姉ちゃんとお母さん、どっちの方が好きなの?」 「きれいなお姉ちゃんに決まってる!ママがお姉ちゃんの半分でも優しくしてくれたら、嬉しいんだけどな」 星は知っていた。厳しい自分よりも、何でも許してくれる優しい清子の方が、翔太にとって魅力的だったのだ。 彼女は息子の体調管理のために、毎日彼が時間通りにちゃんと寝るのを見守っていた。 翔太は胃腸が弱かったので、ジャンクフードも食べさせなかった。 星の細やかなお世話のおかげで、翔太は健康を取り戻し、昔のようにすぐに体調を崩すことはなくなった。 しかし、彼は星から、どんどん遠ざかっていった。 星が部屋を出ようとした時、翔太が彼女を呼び止めた。 「ママ」 星は振り返った。 「ママは、僕が好きな人はママも好きになるって言ってたよね?僕はきれいな姉ちゃんが大好きだから、ママも好きだよね?」 星は言葉を失い、最後の望みも絶たれた。 彼女は静かに目を閉じ、声にならない笑みを浮かべた。 「ずっと、きれいなお姉ちゃんを守りたいって言ってたわね?これからは、あなたとお父さんで、彼女を守れるよ」 翔太は、星の言葉の意味が分からず、首をかしげた。 星は何も言わず、別荘を出て行った。 …… 親友の中村彩香(なかむら あやか)の車が、すでに別荘の前に待機していた。 星の代わりにスーツケースを車に積み込んだ後、彩香は星を見つめた。 「星、本当に離婚するの?」 星は小さく頷いた。「ええ、決めたの」 「翔太くんはどうするの?」 「親権を争おうとしても、神谷家には勝てないわ。それに……」 星は苦笑いした。「翔太は私と一緒に来ることを望んでないかもしれない。今の彼にとって、一番大切なのは、きれいなお姉ちゃんなんだから」 彩香は眉をひそめた。「あなたは命がけで、丸一日も苦しんで翔太くんを産んだのよ。 それからずっと、翔太くんのそばで彼のために尽くしてきたのに、どうして父親と母親の仲を引き裂いた女の方が良いなんて思うのかしら?」 星は静かに言った。「それが、親子ってことなのよ。女の趣味まで、同じなんて」 「雅臣は?あなたが離れることを知っているの?」 星は首を横に振った。「多分、まだ初恋の人と一緒にいるんじゃないかしら」 星は結婚前に、独り身用のマンションを持っていた。ただ長い間、誰も住んでいなかった。 マンションの掃除を終えると、彩香が彼女をショッピングに誘った。 「星、翔太くんが生まれてから、一緒に買い物も行ってないわね。後でショッピングにでも行かない?」 翔太が生まれてから、星は家族と子供のことばかりになった。 自分を完全に見失い、自分の生活や時間さえも持てなくなってしまった。 彩香のキラキラした目を見て、星はかつての自分を思い出した。彼女も昔は、彩香のように、生き生きとしていた。 5年間の結婚生活は、彼女を生気のない老人のようにしてしまった。 星の目に涙が浮かんだ。「ええ」 ちょうどその時、彩香のスマホが鳴った。 電話越しの相手の言葉に、彩香は眉をひそめた。 しばらくして、彼女は言った。「分かりました。すぐ行きます」 電話を切ると、彩香は星に言った。「星、あなたが小林楽器店に貸し出しているバイオリン、夏の夜の星を高額で買いたいっていう人がいるの。 店長は、相手が身分高い人だから断りづらいって……ちょうど今日暇でしょ?一緒に見に行こう」 バイオリン……星は、5年間もバイオリンに触れていなかった。 翔太の世話で忙しかったため、バイオリンに関することは全て彩香に任せていた。 今、彩香からその話を聞いて、まるで遠い昔のことのように感じた。 …… 彩香と楽器屋に入った途端、星は足を止めた。 長身でハンサムな男と、か弱そうな美しい女が、非売品のショーケースの前に立っていた。 女の柔らかな声が聞こえてきた。「あの有名な夏の夜の星、本当にきれい! 雅臣、私のバイオリンを聞くのが一番好きだったでしょう?最後の日々に、コンサートを開こうと思っているの。この夏の夜の星で弾きたいの。いいわよね?」 男の落ち着いた声がすぐに返ってきた。「ああ」 店長は二人の後ろで、冷や汗を拭いながら、緊張した面持ちで立っていた。 星と彩香が入ってくると、まるで救世主を見たかのように、店長の目に光が灯った。 「中村さん、待っていました!神谷さんが夏の夜の星を買いたいとおっしゃっていて、条件は何でものむと、何とかならないでしょうか……」 第3話 雅臣と清子を見ると、彩香は思わず眉をひそめ、目に嫌悪感を浮かべた。 冷ややかな口調で、彩香は言った。「このバイオリンは売りません」 清子は眉をわずかに動かし、彩香の隣に立つ星に視線を向けた。 清子の可憐な美しさとは対照的に、星は落ち着きのある雰囲気を纏っていた。 整った卵型のフェイスライン、美しい目元、吸い込まれそうな瞳。まるで絵画から抜け出してきたかのような趣のある美人だった。 星を見た瞬間、清子の目に、微かな光が宿った。 彼女は星に近づき、少しばかりに懇願するような表情で星を見つめた。 「星野さん、この夏の夜の星はお友達のもの?もし差し支えなかったら、少しの間、貸してくれない? 私と雅臣は、バイオリンをきっかけで出会ったんだ。 私が裏庭でバイオリンの練習をしていた時、雅臣が私の演奏に惹かれて、それをきっかけに、私たちが付き合うようになったんだ。彼は、私のバイオリンを聞くのが大好きなの。 星野さん、私にはもう、あとどれくらい頑張れるのかわからないし、コンサートが成功するかもわからない。でも、せめて最後にもう一度だけ、全力を尽くしたいの」 わざとなのか、偶然なのか、清子は軽くうつむき、首元にかかっているあの見覚えのあるネックレスを見せた。 照明の光がネックレスに反射し、キラキラと輝いていた。 星は、その光に目を射抜かれたような気がした。 彼女は冷たい声で言った。「この世界では、毎日誰かが死んでいる。不治の病の患者が私の前に現れるたびに、私が耐え続けなければならないの?」 そんなひどい言葉を投げかけられたことがなかったのか、清子の目はみるみるうちに赤くなった。 涙が彼女の目からこぼれ落ちそうだった。 雅臣の表情が険しくなった。「星、ただのバイオリンじゃないか。どうしてそんなに意地悪になるんだ?もしバイオリンが欲しいなら、新しいのを買ってやる」 星は彼を見つめた。「ええ、ただのバイオリンなんでしょう?彼女が欲しいなら、新しいのを買ってあげればいいじゃない。どうしてよりによって私のバイオリンじゃないといけないの?」 清子は横で懇願した。「星野さん、どのようにしたらバイオリンを貸してくれる?条件があるなら、何でも言って」 どんな条件でも出せと言うが、結局、全部を応じるのは雅臣でしょう。 星は冷笑した。「小林さんは、私の母のものがお好きみたいね?私の母のネックレスに続き、今度はバイオリン?」 清子は首をかしげた。「どういう意味?」 星は、とぼける清子を見て、心の中で冷笑した。 「この夏の夜の星は、母の形見なの。小林さんがつけているネックレスも、母のものよ」 清子の顔が青ざめた。「すみません、本当に知らなかった…… 昨夜、翔太くんがネックレスの入った箱をくれた。てっきり雅臣からのプレゼントだと思ってつけていたんだ。まさか星野さんのお母さんの形見だなんて……」 星は軽く冷笑した。「では、もう分かったことだし、それを返してくれるかしら?」 清子はネックレスに触れ、下唇を噛み、泣きそうな顔で雅臣を見た。 「雅臣、星野さんがそう言うなら、このネックレスを彼女にあげるよ。こんなことで星野さんを怒らせるのは良くないわ」 このネックレスが星野さんにあげるって。 彼女は「返す」ではなく「あげる」と言った。 つまり、たとえこのネックレスが星の母親の形見であっても、それは星のものではない、と言っているのだ。 星が要求したから、彼女が寛容に譲ってあげたのだと。 元々雅臣は、星が離婚を切り出したのは、自分を脅すためだと考えていて、内心では不快に思っていた。 今の清子の言葉を聞き、彼の表情はさらに険しくなった。 「大丈夫だ」男の冷たい声が響いた。「一度お前に贈ったものは、もうお前の物だ」 「でも……」清子が何かを言おうとしたが、雅臣に遮られた。 雅臣は静かに言った。「一度人に渡した物を、今更返せというのか」 清子の眼に、隠しきれない感動の色が浮かんだ。 星は思わず拳を握り締めた。 そして、彼女はかすかに微笑んだ。 「小林さんは、私にバイオリンを貸してほしいんだよね?いいわ。神谷さんが私に頭を下げて頼んでくれれば、考えてあげる」 清子の目が大きく見開き、信じられないという表情を浮かべた。 雅臣の顔色は、恐ろしいほどに険しくなった。 彼は冷たく言った。「星、いい加減にしろ」 星は嘲るように言った。「小林さんのためなら何でもしてくれると思っていたけど……どうやら、そうでもないみたいね」 以前、星は、雅臣が清子のために、何でも犠牲にできると思っていた。 今となっては、彼が犠牲にできるものは、どうでもいいものだらけであったと分かった。 例えば――彼女自身。 全てを見透かした星の心は、もう揺れ動くことはなかった。 彼女は隣で呆然としている店長に言った。「確か、このバイオリンの貸出期間は今日までだったはず。今日持って帰るから、バイオリンを取り下げて」 店長は恐る恐る雅臣の顔色を伺った。 星は眉をひそめた。「何か?バイオリンの持ち主として、自分のバイオリンを持ち帰る権利もないの?」 「いえいえ、そんなことはありません」 店長は慌てて笑顔で言った。「すぐに手続きをさせていただきます」 手続きが終わると、星はバイオリンを手にして、雅臣と清子に一瞥もせず、楽器屋を出て行った。 雅臣は、彼女の背中を見つめ、眉をひそめた。 清子はうつむき、申し訳なさそうに言った。 「きっと昨日、雅臣が星野さんのお誕生日を一緒に祝うことを忘れちゃって、怒らせてしまったのね。私の体が弱いせいで、いつもあなたに迷惑をかけてるわ」 「お前とは関係ない」雅臣は視線を戻し、静かに言った。「コンサートの準備は進めておけ。夏の夜の星は、後で送らせる」 清子は嬉しそうに微笑んだ。「分かったわ」 …… その日の夜、雅臣は珍しく時間通りに帰宅した。 しかし、星はいつも通り夕食を用意して彼を待ってはいなかった。 夕食の時間になり、翔太がダイニングに降りてきた。 テーブルに何も並べられていないのを見て、翔太は不思議そうな顔をした。 「パパ、ママは今日、ご飯を作ってくれないの?」 星は文句を言わず、妻としての役割をきちんとこなし、完璧な妻であり母親だった。 雅臣は彼女に愛情を感じなかったが、妻としては申し分ないと考えていた。 翔太は胃腸が弱く、好き嫌いも多かった。 夕食と夜食は、星がほとんど毎日、お手伝いさんに頼らず、自分で作っていた。 昼間の出来事を思い出し、雅臣は唇を固く結び、不機嫌そうな表情を浮かべた。 こんな方法で自分を脅そうとしているのなら、あまりにも身勝手だ。 「ほっとけ」雅臣は冷淡に言った。「外食に連れて行ってやる」 翔太は嬉しそうに手を叩いた。「やったー!きれいなお姉ちゃんも一緒に連れて行こう!そうしたら、また綿菓子が食べられる!」 「綿菓子?」雅臣は少し驚いた。「お母さんに、乳糖不耐症だから綿菓子はダメだって言われていただろう?」 第4話 翔太は口を尖らせた。「もう、だいぶ良くなったんだ。先生も、少しなら大丈夫だって。ママはいつも僕のことを何でも管理しようとして、僕の好きにさせてくれないよ」 5歳児の口から「管理」という言葉が出てくるのは、少し奇妙だった。 雅臣が何かを言おうとした時、彼のスマホが鳴った。 電話に出ると、清子の声が聞こえてきた。 「雅臣、もう家に着いたの?」 「ああ」 「星野さんは、まだ帰ってきてないの?」 雅臣は数秒間沈黙した後、尋ねた。「どうしたんだ?」 「雅臣、私、星野さんを見かけた気がするわ」 清子は躊躇しながら言った。「若い男性と食事をしていて、とても親しそうな様子だったの」 清子は少し間を置いて、慎重に尋ねた。「もしかしてまた昼間のことで、星野さんが怒っているのかしら?雅臣、あなたは星野さんとちゃんと話し合った方が良いんじゃない?」 雅臣の顔が曇った。 星は、家の夕食も作らず、他の男と会っていたのだ。 彼の口調は、思わずと冷たくなった。「彼女はいま、どこにいるんだ?」 清子はある場所を言った。 雅臣は「分かった」と言って電話を切った。 …… レストランで、川澄奏(かわすみ かなで)は星を見つめていた。 「本当に決めたのか?」 星は頷いた。「夏の夜の星は母が私のために特注してくれたものなのに、家庭のために5年間も弾くことを諦めていた……」 そう言って、彼女はため息をつき、寂しそうな表情を浮かべた。 奏は低い声で言った。「今はどうするんだ?復帰したら、コンサートで忙しくなるだろう。夫と子供と過ごす時間なんて、ほとんどなくなるぞ」 「翔太の体は、もう大丈夫」星の目に、かすかな嘲りが浮かんだ。「それに、彼はもう私の世話なんて、必要としていないわ」 「雅臣は?彼は納得するのか?」奏が尋ねた。 雅臣の名前が出た途端、星の目線は冷たくなった。 「自分のことは、自分に決めさせて」 奏はしばらく彼女を見つめた後、言った。「だが、彼は君が私と会うことを許してないんだろう」 「彼の許可なんて必要ない」 そう言うと、星は雅臣の言葉のせいで、奏と距離を置いてしまったことを思い出し、申し訳なさそうな表情になった。 「先輩、ごめん」 奏は首を横に振った。「星、君が謝るようなことじゃない。私が悪かったんだ。君のお母さんに君を守ると約束したのに。 なのに、星のことを守ってやれなくて、こんなにもたくさんの辛い思いをさせて」 奏は星の兄弟子だった。二人は幼い頃から、星の母親にバイオリンを習っていた。 今では、奏は世界的に有名なバイオリニストになっていた。 彼の美しい容姿と物憂げな雰囲気は、多くの女性を魅了し、 アイドル的な人気を誇っていた。 彼は金も名声もあるけれど、雅臣のような資本家には敵わなかった。 星は言った。「先輩のせいじゃない。私が……」 星が言葉を言い終わらないうちに、後ろから優しい声が聞こえてきた。 「星野さん、ここで何をしているの?」 星が振り返ると、白いワンピースを着た清子が立っていた。 一日で二度も嫌な人に会うなんて、ついていない。 星は冷たく言った。「あなたに関係ある?」 清子はにこやかに言った。「星野さん、怒らないで。ただ不思議に思うのよ。めったに帰らない雅臣は今日珍しく家に帰ったのに、星野さんはどうして家で夕食の支度をしていないの」 清子の口調は軽やかで、表情は優しく、まるであどけないお淑やかな女性のようだった。 それに比べて、星は冷たく、無情に見えた。 しかし、星には、清子の言葉の裏に隠された挑発と嘲笑いが聞こえる。 星は顔を上げ、清子の目にまだ隠し切れていない得意げな表情を見逃さなかった。 彼女は聞き返した。「雅臣がめったに家に帰ってこないのは、小林さんが彼の時間を独占しているからだよね?小林さんは分かっていて、とぼけているの?」 清子は慌てた様子で、星の手を掴み、弁解した。 「星野さん、違うよ。私が言いたかったのは……」 星は清子の言葉を遮った。 「とぼけているんじゃないなら、ただの無神経ね」 星は清子に掴まれていた手を振りほどき、「無神経な人は、周りから嫌われるわよ」と言った。 「あっ!」 突然、清子が叫び声を上げ、後ろに倒れそうになった。 星が状況を把握する前に、長身の男が倒れかけた清子を支えた。 「清子、大丈夫か?」 清子は青白い顔で振り返り、支えてくれた男を見つめると、目に涙を浮かべた。まるで、意地悪でもをされたかのように、可憐な様子だった。 「雅臣、大丈夫……星野さんもわざとじゃないわ。彼女を責めないで」 雅臣は視線を動かし、星に気づいた。 彼は眉をひそめ、冷たく言った。 「星、清子に謝れ」 このようなことは、一度や二度だけではなかった。 昔なら、星はきっと慌てて「私がやったわけじゃない」「説明させて」「やってないわ」「信じて」などと弁解しただろう。 しかし、雅臣は一度も星の味方をしたことはなく、いつも彼は清子に謝るよう、彼女に迫った。 もし星が謝らなければ、雅臣は彼女のことをまるっきり無視するようにした。 電話にも出ず、メッセージにも返信しなかった。 まるで空気のように彼女を扱い、一言も話さず、顔も見ようとしなかった。 後には、翔太まで、星を無視するようになった。 最終的に、彼女が頭を下げて謝るしかなかったのだ。 それを思い出し、星は冷笑した。 「どうしてあなたの言うことを聞かなきゃいけないの?あなたは何様?」 雅臣は、自分の耳を疑った。 「何だと?」 星は雅臣を見つめ、冷たく言った。「あなたのことを好きだった頃は、あなたの言うことなら何でも聞いたわ。でも、今は違う。あなたのことなんて、どうでもいいのよ」 雅臣は、やっと彼女の言葉の意味を理解した。 彼の記憶の中で、星がこんな態度を取ったのは初めてだった。 彼女はいつも優しくて、思いやりがあった。 自分の帰りが遅い時は、部屋の灯りをつけっぱなしで彼を待っててくれてた。 自分が書斎で遅くまで仕事をしている時は、夜食を作って持ってきてくれた。 自分が酔っ払って帰ってきた時には、二日酔いを防ぐお茶を入れてくれた。 清子が戻ってきてからというもの、星は以前のように自分を満足させる存在ではなくなっていたが。 しかし、こんな風に自分に逆らい、反抗的な態度を取ったのは初めてだった。 なぜか、雅臣は微かな苛立ちを覚えた。 ちょうどその時、子供の声が聞こえてきた。 「ママ、間違ったことをしたら謝らないといけないって、ママが教えてくれたよね?今、ママが間違ったことをしたんだから、清子おばさんに謝らないとダメだよ」 第5話 星が振り返ると、雅臣の後ろに翔太が立っていた。 翔太は星に話しかけていたが、心配そうな視線は清子に向けられていた。 昔から、清子が少しでも体調の異変を起こすと、雅臣と翔太は過剰なほど心配していた。 ある日、4人で公園に行った時のこと。 清子は、熱中症になってしまったのか、それともただ持病が悪化したのかは分からないが、 突然、倒れそうになった。 雅臣と翔太は、同時に清子の元へ駆け寄った。 雅臣は慌てて駆け寄ろうとするあまり、星を突き飛ばしてしまった。 しかし、誰もそのことに気づかなかった。 皮肉なことに、後で雅臣は、星のけがに気づき、そのけがはどうしたのかと尋ねられたのだ。 今でも息が絶えそうなか細い声が、星の思考を遮った。 「翔太くん、私が勝手に倒れそうになっただけよ。お母さんとは関係ないわ」 清子は翔太に向かって首を横に振り、涙を流した。その姿は、見るに堪えないほど可憐だった。「私の体が弱いせいで、本当にごめん……」 翔太は口を尖らせた。「でも……僕は見たんだ。ママが清子おばさんを突き飛ばしたの」 そう言うと、彼は星の方を向き、真剣な表情で言った。 「ママは、間違ったことをしたら謝らないといけないって、僕が小さい頃から言ってるよね?大人なのに……約束を破るつもり?」 星は翔太の体調管理に、大変な苦労をかけた。 しかし、彼の勉強については、ほとんど何もしていなかった。 翔太はまだ5歳だというのに、3ヶ国語も堪能し、口が達者だった。 時には、大人を言い負かすこともあった。 雅臣の母親は、翔太の賢さは、雅臣の幼い頃にそっくりだと言っていた。 しかし今、翔太は、きれいなお姉ちゃんのために、星を責めていた。 彼女は大人であり、翔太の母親でもあるため、当然模範的な姿を示さなければならない。 自分ができていないことを、子供に要求することなんてできない。 約束を破ったら、今後、どうやって子供を教育すればいいのだろうか? 星は、清子の周りを囲んでいる大人と子供、二人の姿を見た。 ふと、自分よりも、彼らのほうがよっぽど家族らしいと感じた。 この親子には何も期待していなかったはずなのに、翔太の態度に、星は胸を締め付けられた。 彼女は翔太の目を見つめ、「確かに、間違ったことをしたら謝らないといけないって、言ったわね。でも……」と言った。 星は言葉を区切り、はっきりと告げた。「私は何も悪いことをしていないわ。どうして謝らなければならないの?」 以前なら、星は翔太のために妥協していただろう。 しかし、今日は違った。 翔太は、思わず言った。「だって、ママが清子おばさんを突き飛ばしたのを僕が見たんだ」 星は言い訳せず、微笑んだ。 「私が彼女を突き飛ばしたからって、それが悪かったっていうの?」 「だって、ママは人を殴るのはダメだって……」 星は静かに言った。「人に意地悪をしてはいけない、だけど、誰かに意地悪をされるのもいけない。もし誰かがあなたの我慢の限界を超えるようなことをしてきたら……遠慮なんてしなくていいんだよ」 翔太は賢いが、まだ5歳だった。 星からこんな言葉を聞かされるとは思っていなかったので、彼は呆然として、何も言えなくなってしまった。 その時、奏の声が聞こえてきた。 「翔太くん、お母さんにそんな口の利き方をしてはだめだ」 奏の声に、雅臣と翔太は同時に彼の方を振り返った。まるで今、彼の存在に気づいたかのように。 翔太は、ぽつりと呟いた。「川澄おじさん?」 雅臣は眉をひそめた。「どうしてお前がここに?」 奏は、星の兄弟子であり、幼馴染でもあったので、雅臣は何度も彼に会ったことがあった。また、星からも彼の話を何度も聞いていた。 星は、奏は幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられたと言っていた。 中学生の頃には、祖父母も亡くなり、彼は独り身になってしまった。 ちょうどその時、星の母親が奏の音楽の才能を見出し、彼を弟子にしたのだ。 しかし、当時の奏は、孤独で心を閉ざし、誰とも口をきかなかった。 星が3年かけて、ようやく奏に心を開かせ、兄弟子、そして友人として受け入れてもらったのだ。 しかし、なぜか雅臣は、初めて会った時から、この男のことをひどく嫌っていた。 「君は元恋人と会っているというのに、星が幼馴染の兄弟子と食事をすることぐらい、何がおかしいんだ?」 奏の声は冷静だったが、その言葉は鋭い皮肉が込められていた。 さらにそれは、雅臣と清子の偽りを暴く言葉でもあった。 雅臣の表情は険しくなり、顔色が悪くなった。 「星、俺と一緒に帰るぞ」 星は冷淡に断った。「いいえ、先輩との食事がまだ終わってないから」 雅臣の声に、冷たい響きが加わった。「星、もう一度だけ言う。俺と一緒に帰るぞ」 星は知っていた、これはもう、彼がすでに怒り心頭になっている証拠だと。 これ以上逆らえば、単なる無視では済まないだろう。 彼はあらゆる手段を使って、自分を屈服させようとするだろう。 彼女は、あの嵐の夜のことを、決して忘れることができなかった。 びしょ濡れになった自分が、雅臣の足元に跪き、泣きながら翔太を返してほしいと懇願していた。 彼は自分のことを見下ろしながら、冷たく尋ねた。「お前は、自分のしたことが分かっているのか?」 涙が雨粒のように地面に落ち、自分は清子が池に落ちた件を謝るしかなかった。 彼は、いつも自分を操る方法を知っていた。 それを思い出して、星は静かに微笑み、一言、静かに告げた。 「いいえ」 雅臣の目つきが冷たくなり、唇が固く結ばれた。 「星、後で後悔するなよ」 「神谷さん、どんな手を使ってくるのか、楽しみだわ」 星の弱点は、翔太だけだった。 しかし今、彼女は翔太さえも諦めた。雅臣には、もう彼女を脅迫する手段は何も残されていなかった。 星は奏に言った。「先輩、ここは空気が悪いわ。どこか別の場所で食事をしよう」 奏は少しの間、黙っていた後、静かに頷いた。 「ああ」 星は三人に一瞥もせず、テーブルの上に置いてあるバッグを手に取り、席を立とうとした。 背後から、翔太の頑固な声が聞こえてきた。 「ママ、本当に清子おばさんに謝らないの?」 星は一瞬だけ足を止めたが、その後、振り返ることなく去っていった。 雅臣は星の去っていく背中を見つめ、目つきが冷たく、暗くなった。 翔太も星の後ろ姿を見つめていた。彼の美しい顔に、戸惑いの色が浮かんだ。 ママ、何か変わった? 二人の視線が星に向けているのを見て、清子の目に、深い冷たさが宿った。 彼女は小さく叫んだ。「あっ!」 雅臣と翔太の視線は、一瞬にして清子に向けられた。 清子の顔色は真っ青で、今にも倒れそうだった。 雅臣の顔色が変わり、彼は清子を抱き上げた。 第6話 彼は翔太に言った。「翔太、ここで待っていてくれ」 雅臣が清子の応急処置をするのだと理解した翔太は、素直に頷いた。 雅臣が去ってまもなく、隣のテーブルから、小さな話し声が聞こえてきた。 「太郎、見て、あの子、君より小さいのに、お母さんを守って、愛人を追い払ったのよ。 今度、そのような悪い女を見かけたら、あの子を見習ってね。絶対に怖がっちゃダメよ。分かった?」 翔太は声に気づき、そちらの方を見た。 30歳くらいの女性が、7、8歳くらいの男の子を連れて、隣のテーブルで食事をしていた。 山口太郎(やまぐち たろう)という名前の男の子は、大きく頷いた。 翔太がこちらを見ているのに気づき、太郎は椅子から飛び降りて、彼の前にやってきた。 「あなたはすごいね!僕にも愛人を追い払う方法を教えてくれない?」 翔太は少し戸惑った。「愛人?」 太郎は、翔太が「愛人」の意味を知らないと思ったのか、真剣に説明し始めた。 「パパとママの仲を壊す人のことだよ。愛人っていうんだ。愛人のせいで、パパとママは離婚することになって、ママは悲しむの。 そんな女、最低だ!」太郎は怒った顔をした。「最近、パパに付きまとっている悪い女がいるんだ。でも……」 太郎の顔に、落胆の色が浮かんだ。 「でも僕には、愛人を追い払ってママを守る方法が分からない」 彼は翔太を見上げ、憧れの眼差しを向けた。 「すごいよ!たった一言で愛人を追い払って、あなたのパパとママを仲直りさせたんだから。僕にも教えてよ、どうやって愛人を追い払ったの?」 翔太はまだ状況を理解できていなかった。「パパとママが仲直り?」 でも、ママは自分から出て行ったはずなのに? 太郎は不思議そうに彼を見つめた。「今、あなたが一言で愛人を追い払ったから、あなたのパパはママを抱えて出て行ったんじゃないの?」 ママ? 太郎は清子のことを、翔太の母親だと勘違いしていたのだ。 その時、太郎の母親が近づいてきた。 彼女は翔太の頭を撫で、褒めた。「坊や、お母さんの味方をしてあげたの偉いわね。うちの太郎ときたら、飴玉一つであの悪い女の味方をしたんだから」 太郎は恥ずかしそうに頭を掻き、小さな声で言った。「だって、ママはいつも飴玉をくれないんだもん。我慢できなかったんだ」 「飴玉をあげないのは、虫歯になるといけないからよ。大人になったら、好きなだけ食べていいわ」 太郎は母親の腕にしがみついて甘えた。「僕はもう分かったよ。ママは僕のことを思ってくれてるんだよね。もう怒らないで」 「あの女に騙されそうになったから、やっとお母さんのありがたみが分かったのね」 太郎は照れくさそうに笑った。「へへっ、今ならまだ間に合うよね」 母親は口では文句を言っていたが、眼には息子への愛情と優しさは隠しきれていなかった。 30分ほどして、雅臣と清子が戻ってきた。 清子は困ったように言った。「雅臣、本当に大丈夫よ。ちょっと低血糖になっただけだから……病院に行く必要なんてないわ」 雅臣は真剣な顔で言った。「最近お前が倒れる回数が増えてきている。一度、ちゃんと検査してもらった方がいい。病気が悪化しているかもしれないからな」 清子の表情が、わずかに強張った。 最近、星を困らせるために、確かに自分は雅臣を呼ぶ回数を増やしていたのだ。 清子は言った。「私は大丈夫よ。もう遅いし、翔太くんもまだご飯を食べていないでしょう?先にご飯を食べよう。明日、病院に行けばいいわ」 二人は話しながら歩いて、翔太のところにやってきた。 翔太は一人でテーブルに座り、窓の外を眺め、どこか不安そうな表情をしていた。 しかし、雅臣は息子の異様に気づかず、彼の前に立った。 「清子おばさんの具合が悪いから、先に病院に連れていく。病院から戻ったら、夕食にしよう」 雅臣の声は穏やかだったが、その言葉からは、決して逆らうことを許さない威圧感があった。 雅臣は一見冷静に見えるが、実は非常に頑固だった。 彼が一度でも決めたことは、なかなか覆らなかった。 普段なら、翔太は何も言わずに頷いていただろう。 しかし、今日はなぜか、星のことを思い出していた。 今まで、ママは毎日、時間通りに食事を用意してくれた。 胃腸が弱いため、自分は毎日、決まった時間に食事をしなければならなかった。 清子と出かける際、食事の時間になった時でも、ママは自分のために、先に軽食を用意してくれた。 自分の体質に合わせて、ママが特別に作ってくれた軽食だった。 ママの料理は美味しかったが、毎日同じようなものばかりでは、飽きてしまうこともあった。 外での食事は、目移りするほどたくさんの料理があった。 自分は次第に、ママの料理に魅力を感じれなくなった。 清子の優しい声が、翔太の思考を遮った。 「雅臣、翔太くんの体が心配だわ。先に何か食べさせてあげよう」 雅臣は冷たく言った。「翔太よりも、お前の体のほうが心配だ」 清子の頬が赤くなった。 彼女はそれ以上反論せず、目を伏せ、翔太を見た。 「翔太くん、途中で食べられるように、先にショートケーキを買うのはどうかしら?」 ショートケーキは、翔太の大好物だった。 いつもなら、彼は喜んで飛び跳ねただろう。 しかし今日は、ただ小さく頷いただけだった。 「うん」 清子は、今日の翔太の様子が少しおかしいと感じたが、深くは考えなかった。 彼女は店員にケーキの持ち帰りを頼むと、翔太の手を引いて、レストランを出て行った。 病院へ向かう途中、清子は助手席に座り、何度も振り返って翔太に気を付けてケーキを食べるように促した。 彼女はため息をついた。「私が車酔いじゃなければ、後ろの席で翔太くんのお世話してあげれたのに」 そう、星がいても、清子は必ず助手席に座っていた。 車酔いがひどいから、前の席の方が楽だという理由で。 手に持ったショートケーキを見ながら、翔太は太郎の母親が言っていたことを思い出した。「飴玉を太郎にあげないのは、虫歯になるといけないから」 翔太は、突然尋ねた。「小林おばさんは愛人なの?」 清子一瞬呆然とした、聞き間違いかと思った。 「え?」 翔太は顔を上げて、もう一度尋ねた。 「小林おばさんは愛人なの?」 清子は、翔太からこんな質問をされるとは思ってもみなかった。 「愛人」という言葉は、どんな女性にとっても、非常に残酷な言葉だ。 彼女の顔が強張り、しばらく硬直していた。 雅臣の低い声が響いた。「翔太!何を言っているんだ!普段教われていた礼儀はどうした!」 清子はふいと我に返った。 彼女は慌てて言った。「雅臣、翔太くんを責めないで。まだ子供だから、何も知らないのよ」 そう言って、彼女は少し間を置き、悲しそうな声で続けた。 「星野さんは、私のことが嫌いなのは分かっているけど。でもどんなに嫌いでも、翔太くんにこんなことを教えるべきじゃないよ。私たち大人の問題は子供に関係ない。この子はまだ幼いんだもの……」 第7話 つまり、誰かが教えていなければ、翔太がこんな言葉を口にするはずがない、ということだ。 雅臣は何も言わなかったが、固く結ばれた唇と、急に冷たくなった場の空気は、彼の不快感を物語っていた。 翔太は敏感な子供だった。雅臣は何も言わなかったが、彼の不機嫌さを感じ取れた。 翔太は口を開き、とっさに弁明しようとした。 「ママが言ったんじゃない……」 しかし、清子に言葉を遮られた。 「翔太くん、分かっているわ。こんなこと、星野さんが言うはずないもの。きっと、ほかの人が適当に言ったでしょう?」 清子の言葉の真意を理解できなかった翔太は、彼女が全てお見通しだと思い、真剣に頷いた。 「うん。レストランで他の人の話から聞いたんだ」 清子は優しく言った。「翔太くん、おばさんはあなたを信じているわ」 翔太は笑顔を見せようとしたが、何かを思い出し、真顔になった。 彼は助手席に座る清子を見つめ、しつこく答えを求めた。 「小林おばさんは愛人になるの?」 雅臣は眉をひそめ、何か言おうとしたが、清子に止められた。 彼女は雅臣に向かって小さく首を横に振り、翔太に言った。「翔太くん、忘れたの?おばさんには長くてもあと半年しか生きられないのよ」 普段、翔太は自分のことを「きれいなお姉ちゃん」または「清子おばさん」と呼んでいた。 しかし、彼が急に「小林おばさん」と他人行儀に呼んだことに、清子は危機感を覚えた。 この子はまだ5歳だが、普通の子供と同じように扱ってはいけない。 翔太はハッとして、そのことを思い出したばかりのようだった。 なぜそんなことを聞いてしまったのか、彼自身も分からなかった。 彼は少し後悔し、落ち込んだ。 清子おばさんはこんなに優しくていい人なのに、どうして疑ってしまったんだろう? それに、彼女にはもう長くはないのだ。 翔太は賢いが、まだ5歳だった。 彼は気づいていなかった。清子は、最後まで彼の質問にきちんと答えていなかったことに。 彼は下唇を噛み、申し訳なさそうに言った。「小林おばさん、ごめん」 清子は微笑んで優しく言った。「もういいわ。翔太くん、何が食べたいか考えといて。おばさんがご馳走するわ」 翔太はすぐにさっきのちょっとした出来事を忘れて、清子と楽しそうに食べ物の話を始めた。 「清子おばさん、今日はフライドチキンが食べたい!」 清子は二つ返事で「いいわよ」と答えた。 しかし、雅臣が口を挟んだ。「清子、お前の体には良くないぞ。医者に脂っこいものは控えるようにって言われているだろう」 「たまに食べるくらいなら、大丈夫よ」そう言って、彼女は翔太に視線を向けた。「それに、翔太くんが食べたいって言ってるんだから……いつもきっちりとした生活ばかりじゃつまらないでしょう?たまには羽目を外すことも大切よ」 何でもかんでも禁止する星を思い出し、翔太は、やっぱり、清子の方がいいと思った。 ママは、ただ口うるさく言うだけだ。 …… 翌朝、翔太が階下に降りてくると、雅臣がダイニングで新聞を読んでいた。 寝ぼけ眼で降りてくる翔太を見て、雅臣は眉をひそめた。「翔太、どうしてまだ幼稚園に行っていないんだ?」 翔太は俯きながら言った。「誰も起こしてくれなかったから、寝坊しちゃった」 その時、田口(たぐち)が朝食を運んできた。 雅臣は田口を不満げに見やりながら言った。「どうして翔太を起こさなかったんだ?」 田口は翔太がまだ家にいることに驚き、慌てて言い訳をした。 「神谷様、いつもは奥様が翔太様を起こしていらっしゃるのですが……」 雅臣の顔色が変わった。「三食は星が作り、子供を起こすのも星の役目だと?だったら……お前たちを雇う意味は何だ?!」 普段の雅臣は、冷静で口数が少なかった。 田口がここで働き始めて5年になるが、雅臣が怒鳴るのを見たのは初めてのことだった。 長年、上位に君臨してきた男の威圧感に、田口は思わずたじろいだ。 しかし、星のこれまでの苦労が報われていないことを思い出し、田口は思わず彼女に同情した。 「神谷様、違います。奥様は、神谷様と翔太様は胃腸が弱いから、何でも食べてはいけない、薬膳をきちんと作らないといけないと。 薬膳の中には、薬草を煎じるだけでも2時間以上かかるものがあり、作るのも大変なんです。奥様は薬膳を勉強するために、漢方まで勉強されたんですよ」 薬膳? 雅臣の瞳がわずかに動いた。 なるほど、だから最近、胃の持病の再発はなくなったのか。 田口は続けた。「その後、神谷様と翔太様の体調はすっかり良くなり、奥様も少しは楽できるようになったんです。 でも……」 田口は雅臣を一瞥し、小さな声で言った。「ある日、奥様が食事をお持ちした時、小林さんが低血糖で倒れそうになって、神谷様は、奥様が作ってくださった薬膳を、小林さんに食べさせてあげたんです。 小林さんは、それがとても気に入って、奥様と話をしたんです。それが薬膳だと知ると、自分も医者さんに薬膳を勧められているけれど、作ってくれる人がいないので困っていたと言っていました。そして、奥様の薬膳は美味しいと褒めていたんです。 神谷様は、どうせ奥様は神谷様と翔太様の分を作るのなら、一人分増やしてもたいそう手間は変わらないと言っていました。 奥様は、小林さんは神谷様や翔太様と味の好みが違うため、口に合わないかもしれないと言っていました。 神谷様と翔太様は、小林さんの食べたいものは、自分たちも食べたいと言って……それ以来、小林さんは食べたい物を、私と奥様にリクエストするようになったんです。 私が買い出しに行って、奥様が料理を作る、という風にすればいいと言われました」 言い終わると、田口のスマホが振動した。 田口はスマホを確認した後、雅臣に手渡した。 「小林さんからのリクエストがまた届きました」 雅臣は画面をちらりと見て、3人のグループチャットだと気づいた。 メンバーは、清子、田口、そして星だった。 ほとんど清子からのメッセージだった。 【今日は、3品おかずとスープが良いわ】 そのリクエストを続き、清子から送られてきた、リクエストした料理のレシピらで画面いっぱいになった。 雅臣が読み終える前に、田口はスマホを奪い取り、「かしこまりました」と返信した。 雅臣は、田口の慌ただしい行動に驚いた。 田口は、雅臣の不思議そうな顔を見て、説明した。 「先日、掃除をしていたため返信が遅れてしまいました。そのせいか、お昼に食事をお届けした時、小林さんはとても怒っていて、どうしても食べてくれませんでした。 小林さんは、その後、低血糖で倒れて、病院に運ばれました。意識を取り戻した後、どうせ自分はもうすぐ死ぬんだから、こんなに手間をかけてもらってもどうせ無駄だと言っていました。 神谷様は、奥様がわざと小林さんを無視したんだと、奥様にひどく怒っていらっしゃいました。私がどんなに説明しても、神谷様も小林さんも信じてくれなかったんです」 田口はそう言いながら、エプロンを外した。 「神谷様、翔太様、朝食はこれで済ませてください。私はこれから野菜の買い出しに行きます。遅くなると新鮮な野菜が手に入らなくなるので、そうなると小林さんは、奥様がわざと腐った野菜を食べさせようとしていると思い込んでしまうんです」 そうしたら、また告げ口されるんだろうね。 田口は心の中で愚痴をこぼした。 ちょうどその時、グループチャットにメッセージが表示された。 田口は、思わず足を止めた。 第8話 彼女は目をこすり、見間違えではないことを再確認した。 翔太は、田口の不可解な行動を見て、思わず尋ねた。「田口さん、どうしたの?」 田口は恐る恐るスマホを雅臣に手渡した。「神谷様、これを……」 雅臣はスマホを見た。 星がグループチャットから退会したのだ。 雅臣の表情が、さらに険しくなった。 次の瞬間、雅臣のスマホが鳴った。 電話口から、清子のすすり泣く声が聞こえてきた。 「雅臣、どうしよう?星野さんは本当に怒ってるみたい……」 雅臣は、ふと星のことを思い出した。 星が涙を流しているのを見たのは、数えるほどしかなかった。 星が清子を池に突き落とし、集中治療室に入院させたあの一度だけ、彼女は自分の過ちを認めようとはしなかった。 謝罪しなかった罰として、自分は翔太を連れて神谷本家に帰り、星に、清子に謝罪しなければ二度と翔太に会わせないと言い放った。 その時、翔太は持病を悪化し、高熱を出していた。 星は神谷本家まで追いかけてきたが、自分は誰にも彼女を家に入れるなと命じた。 夜になると、激しい雨が降り始めた。 家族全員が翔太の看病に追われ、外で待っていた星のことはすっかり忘れてしまっていた。 執事に言われてはじめて、自分はようやく星の存在を思い出したのだ。 びしょ濡れになった星が家の中へ連れてこられた。 その時、自分は初めて、星が泣いているところを見た…… 清子の泣き声が、彼の思考を遮った。 「今、星野さんがグループチャットから退出したの。雅臣、もういいわ。星野さんが薬膳を作ってくれないなら、無理に頼むのはやめよう……」 なぜか、雅臣はわずかな苛立ちを覚えた。 「ああ」 雅臣のそっけない反応に、清子は思わず泣き止んだ。 雅臣は静かに言った。「薬膳が体に良いのであれば、専門家を雇って、お前の健康管理をさせる。生活の世話も、全て任せよう」 清子はとっさに拒否した。「雅臣、そこまでしなくても……」 薬膳なんて、美味しくない。 星が作ってくれた薬膳は、一口も食べずに、全部捨てていたのだ。 自分がずっとリクエストをしつづけたのは、ただ星を困らせたかっただけだった。 しかし、雅臣は彼女の考えていることを知らず、「それで決まりだ。俺はまだ用事があるから、これで切る」と言った。 清子は、すでに切られた電話を呆然と見つめていた。 日常生活の世話がすべて専属に任される…… そうなると、自分が薬膳をきちんと食べていないことが雅臣にバレてしまう。 清子は思わず奥歯をかみしめた。 くそっ。星め、絶対に許さない。 清子の星への憎しみは、さらに増した。 一方、田口は厄介な仕事から解放されて、喜びで跳ね上がりそうだった。 お金持ちの奥様として、たまに料理するのは生活に彩りを添えるスパイスのようなものではあるが、 でも毎日料理をするなんて…… 家政婦と変わらないじゃない。 星が怒って出て行ったのも当然だ。 雅臣は電話を切ると、翔太に言った。「座ってご飯を食べなさい。あとで幼稚園に送って行ってやる」 翔太は目をこすり、素直に返事をした。 彼はもともと体が弱く、最近、毎日帰りが遅かったので、少し疲れていた。 二人は向かい合って、静かに朝食を食べた。 翔太の日常生活や勉強は、普段、星がついていた。 雅臣は仕事が忙しいため、息子のことにかまう暇もなかった。 二人の間には沈黙が流れ、重苦しい空気が漂っていた。 翔太は田口が作った朝食を食べたが、どうも美味しく感じなかった。 星の料理の味に慣れてしまった彼の舌には、田口の作った料理の味は馴染まなかった。 その時、テーブルの向こうから、雅臣の冷たい声が聞こえてきた。 「昨日、お前が言った言葉は、誰が教えたんだ?」 翔太は顔を上げると、雅臣が鋭い視線で自分を見つめていることに気づいた。 翔太がまだ何も答えてないうちに、雅臣は続けて低い声で尋ねた。 「お母さんが教えたのか?」 翔太は星のことを恐れてはいなかったが、冷淡で厳格な父親のことは怖がっていた。 彼は雅臣の目を見ることができず、「……違うよ。ママは教えてない」と答えた。 しかし、質問に答える翔太の様子は、雅臣から見たら、やましいことを隠しているようにしか見えなかった。 星は普段から、子供にこんなことを教えているのか? 彼は冷たく笑った。「子供をきちんと教育できないのなら、しばらく彼女には反省してもらう必要があるな」 そう言うと、彼は翔太を見た。 「翔太、しばらくの間、神谷本家に帰るんだ」 翔太は何か言おうとしたが、雅臣の言葉を聞いて、目を輝かせた。 叔母から聞いた話では、ママが清子おばさんを池に突き落とした時、どうしても謝ろうとしなかったそうだ。 パパが自分を神谷本家に連れて帰ると、ママはようやく折れて、パパと清子おばさんに泣きながら謝ったらしい。 今度、神谷本家に帰ったら、ママはまた清子おばさんに謝ってくれるかもしれない。 …… 一方、星のマンションで、星がグループチャットから退会して、連絡先をブロックするなどの一連の行動を見て、彩香は目を丸くした。 「星、今度は本気なの?」 星はグループチャットから退会し、雅臣と清子をブロックし終えてから、彩香の質問に答えた。「冗談で言ってると思ってる?」 彩香はため息をついて言った。「この前、清子が池に落ちた時も、あなたは絶対に謝らなかったよね。でも、その後、翔太くんが病気になってしまって……雅臣がまた、子供を使ってあなたを思い通りにしようとするんじゃないかって、心配なのよ」 女性はとかく情にもろい。子供のためなら、どんなことでも我慢してしまう。 男性が「子供さえ生まれば、女性を思い通りに動かさせることができる」と考えるのも無理はない。 事実そうである。 子供ができてしまえば、ほとんどの女性は、男性の言いなりになってしまう。 星は静かに言った。「大丈夫。今回は違うわ」 彩香は半信半疑だった。「本当に?」 星は微笑んだ。「ええ、本当よ。私は翔太に全てを注いできたから、自分では立派な母親だと信じ込んでいた。でも、それはただの自己満足だったみたい」 「それなら……」彩香は星にウィンクをし、いたずらっぽく笑った。「今夜は私がおごるわ。盛大にお祝いしましょう」 彩香は独身で、普段からナイトクラブに行くのが好きだった。 星は首を横に振った。「やめておくわ……」 「何を言ってるの?」彩香は星の言葉を遮った。「あなたはA音楽大学で有名な美人だったのよ。学園祭でダンスを披露した時、どれだけ多くの若い男たちが心を奪われたか、知ってる?」 彩香は口を尖らせて言った。「バイオリンもダンスもできて、美人で、男たちの高嶺の花だった星が、よりによって雅臣みたいな、星の大切さが分からない男と結婚するなんて…… 雅臣だけが男じゃないわ!他にもいい男はたくさんいるのよ!たまには息抜きしないと」 彩香の熱心な説得に、星はとうとう頷いた。 …… 夜8時、星と彩香はナイトクラブに訪れた。 ナイトクラブは、星が思っていたほど騒がしくなく、むしろ落ち着いた雰囲気だった。 彩香は星にウィンクをした。「この店は最近オープンしたばかりでイケメン揃いなの。今夜は楽しませてあげるわよ」 せっかく来たんだから、と星はもう気取らず、笑って答えた。「ええ」 言葉が終わると同時に、後ろから聞き覚えのある声がした。 「おや、これは雅臣の腰巾着ちゃんじゃないか?また雅臣を探しに来たのかい?」 第9話 星が振り返ると、傲慢そうな若い男が数人の仲間とこちらに向かって歩いてきた。 星はすぐに男の正体に気が付いた。 山田勇(やまだ いさむ)。雅臣の友人であり、清子を心から慕う一人でもあった。 星が雅臣と付き合い始めた日から、勇は事あるごとに彼女を見下し、冷ややかな嘲笑を浴びせ続けた。 清子が戻ってきてからは、なおさら調子に乗り、清子と雅臣の間の使い走り役を買って出ていた。 清子が少しでも体調を崩すと、勇はすぐに雅臣に電話をかけ、彼を呼び出した。 彼は何度も星に、清子に妻の座を譲るよう迫った。 勇は星の前に立ち、嘲るような視線を向けた。 「専業主婦、家で大人しく夫の心を掴む方法でも勉強してればいいものを、こんなところで何をしているんだ?人前に出て飲み歩くなんて、専業主婦のすることじゃないだろう」 星は、教養と知性を備わりながらも、同時に家事も完璧にこなしていた。 非の打ち所がないほどだった。 それを知った勇は、星を「専業主婦」と呼ぶようになった。 それからというもの、雅臣の周りの友人たちは皆、星に会うたび、星の事を「専業主婦」と呼ぶようになった。 勇の態度と口調は非常に人に不快をもたらすもので、彩香は眉をひそめた。 星の表情も険しくなった。 その様子を見た勇は反省するどころか、むしろ口笛を吹いて、わざと大げさに星を見つめて面白がっていた。 「おやおや、また怒ってるのか?専業主婦、まさかこんな冗談も通じないのか?」 勇の仲間たちも、囃し立てた。 「そうだそうだ、雅臣の妻であるくせに、度量が狭すぎるんじゃないか?雅臣に恥をかかせるなよ!」 「勇が言ってることも間違ってはないだろ?お前は家で夫と子供に仕えるだけの専業主婦なんだろ?」 「当たり前だろ、専業主婦ごときが清子と張り合うなよ。清子はA音楽大学を卒業してるんだぞ!」 「A音楽大学を知らないのか?世界トップ5に入る音楽大学なんだぞ!」 それを聞いて、彩香は星を見た。 「清子もA音楽大学出身?聞いたことないんだけど……」 勇は彩香を一瞥し、鼻で笑った。 「世間知らずだな。お前の知らないことなんて、山ほどあるんだよ。いい子ちゃんなんだから、もっと外に出て、世の中の事を勉強したらどうだ?」 初めてあったばっかりなのに、またしても初対面の相手にニックネームをつけた。 彩香は眉をひそめた。「星、この人誰?むかつくんだけど。こっちからはまだ何も言ってないのに、勝手に偉そうに説教してきて」 星は静かに言った。「清子の腰巾着の一人よ。ゴマすりとでも思えばいいわ」 「なるほど、清子のゴマすりか!」彩香は納得したように頷き、怒りが収まった。「道理でむかつくわけだ。納得」 勇の顔色が変わった。彼が何かを言おうとしたその時、星が微笑んだ。 「ゴマすりさん、冗談よ、怒ってないわよね?」 勇たちが星を嘲笑っていたのをさっきからすべて見ていて、彩香はとっくに怒りが収まらなかった。 星の言葉に、彩香はすぐに乗った。 「まさか、男のくせにこの程度の冗談も通じないなんてさすがにダサすぎじゃない?男の恥だわ」 星は素直に言った。「いいのよ、彼は世間知らずだから。相手にしない方がいいわ」 男たちは互いの顔を見合わせた。どんなに鈍くても、二人が先ほど自分たちが言ったことをそのまま返してきていることに気づいた。 彩香は面白そうに笑った。「ゴマすりは、最後までゴマすって、何も手に入らないのよ。まあ、かわいそうだから、今回は許してあげよう。星、行こう。楽しいところへ連れて行ってあげる」 星は頷き、踵を返した。 勇は、星の去っていく背中を睨みつけ、ひどく不機嫌な顔をしていた。 勇の仲間たちは、互いに目を見交わした 仲間の一人が、気まずそうに言った。「あの女二人、よくあんなことが言えるよな。勇をゴマすり呼ばわりするなんて。勇はゴマすりなんかじゃ……」 彼はとっさに言葉をそこで止めた。 まあ、確かに…… あの女たちの言葉は酷かったが、的を射ている部分もあった。 勇は確かに、ゴマすりっぽい…… 別の仲間がすぐにフォローした。「勇は清子の騎士様だ!」 他の仲間たちも、「そうだそうだ、騎士様だ!」と口々に言った。 ちょうどその時、優しい声が、気まずい雰囲気を破った。 「勇、個室に入らないで、ここで何をしているの?」 勇が振り返ると、男女二人がゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。 男は背が高く端正な顔立ちで、気品のある雰囲気を漂わせていた。 女は小柄で、愛らしくも、か弱そうな様子だった。 来る二人を見て、勇の目が輝いた。 彼は二人のもとへ駆け寄り、星の悪口を言い始めた。 「雅臣、清子、今、誰を見かけたと思う?なんと、星だ!女一人でこんな場所に来るなんて信じられない。しかも、遊び相手を探しに来たとか言ってたぞ! きっと暇だから、こんなところで遊んでるんだ。もともとは清子に一食だけ作っていたらしいけど、本来なら三食全部作らせるべきだろ! 雅臣、あんなふしだらな女は、そのままほっとくべきじゃないぞ!」 清子は、勇の言葉を聞いて、眉をひそめた。 「遊び相手?」彼女は雅臣の方を向き、心配そうに言った。「雅臣、もうこんな時間なのに、まさか翔太くんを家に残して、まだ帰ってないの?」 星の名前を聞いて、雅臣は眉をひそめた。 清子は雅臣の顔色を伺い、小さな声で言った。「雅臣、翔太くんは体が弱いのに、一人ぼっちで大丈夫かしら?」 雅臣は唇を固く結び、不機嫌そうな顔をした。 「翔太は今日、本家に帰っている」 彼は翔太を利用して星に罰を与え、彼女に自分の過ちを気づかせようとしていた。 だが、家にも帰ってきていなかったとは。 清子は数秒間、呆然とした後、雅臣の意図を理解した。 「雅臣、星野さんはずっと家であなたの世話をしていたのよ。毎日、一歩も外に出ていない。疲れているのも無理はないわ。きっと……息抜きがしたかっただけよ」 彼女はうつむき、申し訳なさそうに言った。「私が配慮が足りなくて、星野さんにあんなに長い間薬膳を作らせて、疲れてしまったのも当然だわ。もう作りたくないっていうのも、無理ないわ……」 清子が言葉を言い終わらないうちに、勇が怒鳴り込んだ。 「何?星が薬膳を作ってくれないだと!?彼女がお前を池に突き落とさなければ、お前の病気も悪化しなかったんだぞ! 本当に放ったらかしにするつもりなのか?よくそんなことができるな?!」 清子は怒り狂う勇を慌てて止めた。「勇、星野さんのせいじゃないって言ったでしょ。私の不注意で……落としてしまっただけ……」 「清子、お前はいつも優しすぎるんだ。あんな酷い女にこんな目に遭わされても、まだ彼女をかばうのか?」 勇は不満そうに雅臣を見た。「雅臣、お前は星が清子をいじめていても、放っておくつもりのか?」 第10話 雅臣は苛立ち、冷たく言った。「もういい」 勇が何かを言おうとしたが、清子が彼を止めた。 「もういいのよ、勇。今日は航平の誕生日でしょう?中に入ろう」 雅臣の機嫌が悪いことを察した勇は、それ以上何も言わずに黙ってしまった。 …… 個室の中で、彩香はもともと何人か男性ホストを呼びたがっていたが、星がどうしても嫌がるので、諦めてしまった。 「ここのホストはイケメン揃いで、体もムキムキなのよ!腹筋も割れてて……触ってみたら分かるわよ、もう最高だから!」 星は言った。「私はもう雅臣と離婚するつもりでいるの。今はなるべく慎重に行動して、相手に言いがかりつけられないようにしたいの、余計なトラブルは避けたいから」 彩香は考え込むように頷いた。「確かに、後で何を言われるか分からないものね」 じっとしていられない彩香は、ホストを呼べないので、カラオケを始めた。 どれくらい時間が経っただろうか、星のスマホが振動した。 星は電話の相手を確認し、奏からだと分かった。 彼女は彩香に合図をし、電話に出るために部屋を出た。 奏は、音楽スタジオ設立の件で電話をかけてきたのだった。 彼の所属事務所との契約期間が終了したことや、そして星が復帰を考えていることから、奏は自分たちの音楽スタジオを作ろうと考えていた。 星は、それを聞いてすぐに承諾した。 電話を切ると、星はトイレに行った。 トイレから出ると、洗面台で化粧を直している清子と鉢合わせた。 星は彼女を一瞥し、そっけなく視線を逸らした。 水道の蛇口をひねり、手を洗って出て行こうとした時、清子が彼女を呼び止めた。 「星野さん」 星は振り返り、「何か用?」と尋ねた。 清子は微笑み、バッグから何かを取り出した。 「星野さん、これ、何だか分かる?」 清子の手には、古びたお守りが握られていた。 星は眉をひそめ、息を呑んだ。 清子は微笑みながら言った。「翔太くんから聞いたが、このお守り、翔太くんが病気の時、星野さんがお寺で一晩中、祈願して、もらったものなんだね」 星は表情を変えずに言った。「それで、何が言いたいの?」 清子は手のお守りを揺らしながら言った。「翔太くんが言うには、あなたがこのお守りを祈願してもらってきてから、彼の病気が治ったそうなんだ。だから、翔太くんはこのお守りを私にくれた。私も、このお守りのおかげで病気が治るようにって」 翔太が3歳の時、高熱で危篤状態になった。 水枕や薬などで熱を下げようとしたが、どうやっても下がらなかった。 医師は、覚悟しておくように言い、翔太は家に連れ戻された。 雅臣の妹は、翔太があまりにも苦しそうだったので、鎮痛剤を打って楽にしてあげた方がいいと提案したほどだった。 星は諦めきれず、藁にもすがる思いだった。 医師が諦めたなら、もう神頼みをするしかない。 偶然なのか、それとも本当に奇跡が起こったのか、彼女がそのお守りを持って帰ってきた時、翔太の熱は本当に下がり始めたのだ。 それから、翔太の体調は徐々に回復していった。 まだ星に懐いていた頃、翔太は彼女に言った。「これはママが僕にくれたお守りだから、毎日身につけて、大切にするね」 そのお守りが、清子の手に渡っているとは、星は思ってもみなかった。 清子は額にかかった髪をかき上げると、手首につけた翡翠のブレスレットが見えた。 翡翠のブレスレットは、光を反射して柔らかな光を放っていた。 優しい色合いであるはずなのに、なぜか星の目には、目まぐるしく映った。 星の瞳孔が収縮した。 このブレスレットは、神谷家の家宝で、 代々、神谷家に嫁ぐ女性に受け継がれるものだった。 しかし、雅臣の母親・神谷綾子(かみや あやこ)は、星のことを気に入っておらず、冷たくしていたため、彼女にブレスレットを渡すことはなかった。 翔太が生まれてからも、綾子の態度は変わらなかった。 綾子は、由緒正しき家柄を持つ女性を好み、清子のこともあまり気に入っていないことを星は知っていた。 雅臣の妹が言うには、当初、雅臣と清子が別れたのは、綾子の策略もあったらしい。 それなのに、雅臣は清子よりも格下の星と結婚した。 神谷家の人間は、誰もが星のことを認めていなかった。 神谷家の使用人たちは、みな星を嘲笑し、軽蔑していた。彼女が金持ちと結婚するために、雅臣を策略にはめたと思っていたのだ。 結婚当初、綾子は、星の顔もまともに見ようとしなかった。 正月や祝日にも、彼女が神谷本家に足を踏み入れることも許されなかった。 後になり、翔太がどんどん成長し、見た目は雅臣にそっくりになり、しかも賢くて機転が利く子に育っていくにつれて、 綾子は翔太のために、星を家に入れるようになった。 そして、神谷家の嫁に受け継がれる翡翠の腕ブレスレットを翔太に渡し、将来、彼の妻に渡すようにと言ったのだ。 星は一度、そのブレスレットを借りて見ようとしたが、翔太に拒否された。 翔太は真顔で言った。「おばあちゃんが、このブレスレットは将来、僕の妻に渡すものだって。もしなくしたり、壊れたりしたら、僕は結婚できなくなるんだ」 その時、星は、子供とは思えない翔太の言葉に笑ってしまった。 今となっては、それが皮肉にしか聞こえない。 清子は、星の視線に気づいたのか、小さく笑い、挑発するように、そして勝ち誇ったように星を見た。 「このブレスレットも、翔太くんがくれたんだ。神谷家の嫁に受け継がれるものなんだって。あなたが欲しがっても、翔太くんはもったいなくてあげなかったんだって」 星は何も言わず、ただ静かに清子の演技を見ていた。 案の定、清子は笑って言った。「翔太くんがこれをくれたのは、私が彼の母親になって、神谷家の嫁になることを望んでいるからなんだって。 そういえば、星野さんは知らないだろうけど、週末に親子イベントがあって、両親で一緒に参加する必要があるよ」 親子イベント? 星は、先日、雅臣が珍しく早く帰ってきて、一緒に夕食を食べた時のことを思い出した。 自分がキッチンにスープを取りに行った時、翔太と雅臣が何か話しているのが聞こえた。 「イベントに参加する」「清子おばさん」という言葉が、かすかに聞こえた。 自分が戻ってくると、翔太は口をつぐんでしまった。 明らかに、自分に聞かれたくなかった話だった。 その頃、自分は清子のことが心底から嫌になっていた。 雅臣と翔太から、清子の名前すら聞きたくなかった。 久しぶりの家族団らんの時間を邪魔されたくなかったので、それ以上は聞かなかった。 二人が話していたのは、このことだったのか。 清子の声が、星の思考を遮った。 「翔太くんは、『クラスメイトのママはみんなセレブかお嬢様で、最低でも芸能人なのに、僕のママはただの専業主婦なんだよ。みんなに知られたら恥ずかしい』って言ってた」 彼女は口元を手で覆い、星にささやいた。「翔太くんが、星野さんのことを外で何と言っているか、知っている?彼は、あなたが神谷家の家政婦だから、毎日お弁当を届けて、送り迎えをしているって言っているんだよ。